みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2011年2月のテーマ: 「律法の一点一画をも」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
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マタイによる福音書5章17〜20節

あっという間に時が流れてゆきますね!
もう1月が終わってしまったなんて!
というわけで、もうすでに2月に入ってしまいました。
2月のみんたたは、予定通り「山上の説教」に戻ります。
次はマタイ福音書5章17〜20節です。
新共同訳における日本語テクストは以下の通りです。

*****************************

マタイによる福音書5章17〜20節

17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字かた一点一画も消え去る事はない。
19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で最も大いなる者と呼ばれる。
20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

****************************

以上です。
どうぞみなさん、たたいてください。

Re: 2月のみんたた - et
2011/02/02 (Wed) 18:38:49
この箇所は、いつも律法主義者の聖書的な根拠になっている箇所ですね。
マタイの所属していた教会は、その当時ユダヤ人クリスチャンが多かったので、このような律法重視発言を、イエスにさせているのでしょう。
ですから、この箇所は、字句どおりにとると福音から大きくはずれるので、解釈が必要になります。
まずは、導入まで。

Re: 2月のみんたた - 孤独人
2011/02/02 (Wed) 21:57:32
廃止するためではなく、完成するためである。
十字架による救いの事でしょうか?
それ以前は、モーセの法を守る必要があったからですか。
礼拝のみ(断続的)な5年目クリスチャンです。
聖書の集まりは雑談しかやりません。よろしくお願いします。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/02 (Wed) 22:59:07
簡単に解説すると、ユダヤ教では、現在でも十戒に代表される612項目ある律法を守ることが行なわれています。
イエスの時代でも、律法を守ることによって、祝福を受けようと、ユダヤ教徒、特にファリサイ派の人々は一生懸命律法を守っていました。
しかしながら、十字架によって律法は完成したため、キリスト教では、律法は既に過去のものになったと解釈されています。
エペソ書2:15に「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と書いてあるので、クリスチャンにとって律法は廃止されたと考えられます。
しかしながら、律法を守ることによって救いを得ようとしている律法主義者に対しては、律法の一点一画も消えさっていないということでしょう。
つまり、律法を守るというなら、612ある律法全部を守れ、信仰によって救われたいなら、徹底的に信仰のみでいくということです。

Re: 2月のみんたた - 毛利
2011/02/03 (Thu) 08:58:36
律法を廃止する為ではなく、完成する為だ、と言っておきながら律法を廃止しようとして安息日の概念を壊したりしていましたが、結果としてイエスが完成させた律法とは何なのでしょうか?
律法とは言わばルール(法律)のようなものだと思っていますが、パウロや他の手紙でではなく、イエス自身が語った律法、それも「完成した律法」とは何なのかよく分かりません。

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/03 (Thu) 18:34:08
病み上がりの富田です。親戚から送ってきた牡蠣に当たりました。
ところで、うーん……これがイエス自身の言葉であったか、難しいところではないかと思います。
でも、たとえ彼が実際に口にした言葉であったとしても、「神を愛せ」「隣人を愛せ」この2つに全ての律法が収斂するという大胆な要約と相通じるような、本質を掴むといったことではないかと思います。
ひとつひとつの律法を細かく守れということではないでしょう。
しかし、律法の細かい規定を守る事で神の義が得られると思っている人たちは、どうしても納得しなかったのでしょう。
ですから、マタイはそんな読者に配慮して、このような言葉を書かざるを得なかったのではないかと思います。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/03 (Thu) 19:04:50
私も律法が完成して、律法を守る必要が無くなり、じゃあ、律法に代わるものは何かというと、新しい基準は隣人愛だと思います。
ただ、隣人愛は私たちが愛そうと努力することで愛するのではなく、愛するということさえも、すべて神様の側で成し遂げて下さるということです。
ついでに言うと、罪の基準は十字架前は律法でしたが、十字架後は隣人愛が基準になっていると思います。

Re: 2月のみんたた - 孤独人
2011/02/03 (Thu) 22:38:13
>ただ、隣人愛は私たちが愛そうと努力することで愛するのではなく、愛するということさえも、すべて神様の側で成し遂げて下さるということです。
隣人愛に対する自分の力の過信に恥じ入ります。勉強になりました。

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/03 (Thu) 22:51:29
隣人愛の愛の対象を、通常我々が「隣人」と呼びやすい身近な人から、一気に「敵」にまで広げたのが、イエスのすごい所でもありますね。
まさに、人間業ではありません。
でも、神さまに全部まかせて、自分を投げ出すような生き方ができたら、可能かもしれない……。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/04 (Fri) 18:38:51
少々補足です。
律法と預言者と書かれているのは、旧約聖書のことです。
確かに、旧約聖書はキリスト教の聖典ですから、廃止はされていません。
ところが、律法そのものは、エフェソ書2:15やヘブライ書7章を読むと、廃止と書かれているので、十字架によって廃止されたと考えて差し支えないでしょう。
私の場合聖書を読んで、論理的に考えた結果、律法は廃止されたという結論になりました。
もちろん、カルビン派の信条では、律法は廃止されてないと考えていることも知っています。
そのような信条の方々と一度聖書から議論してみたいと思います。

Re: 2月のみんたた - がん子
2011/02/04 (Fri) 22:07:15
>ただ、隣人愛は私たちが愛そうと努力することで愛するのではなく、愛するということさえも、すべて神様の側で成し遂げて下さるということです。
ん~、ものすごく個人的で現実的な考えで行くと難しいなあと思えます。
隣人・・・敵・・・愛するってどういうことなのでしょうか?初歩的な質問なのですが、愛するってどういうことなのかな?って思います。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/04 (Fri) 22:51:02
がん子さん
難しいと思っているということは、何か努力して愛そうとされていませんか?
愛するというと、マザーテレサのやっていたような大きなことを考えてしまいがちですが、そうではなく、愛とは、一杯の水を飲ませるような、もっと日常的で小さなことだと思います。
まあ、どちらにしても神様の側でやって下さることですから、私たちは、神様に信頼して任せておけば良いのです。
ただし、決して愛そうと努力してはなりません。
人間は、元々、努力して愛せるような大それた存在ではありません。

Re: 2月のみんたた - et
2011/02/05 (Sat) 10:30:50
19節は一見すると、律法遵守を勧めているように思えます。
しかしながら、同じマタイ23章で、異常なほどに、律法学者やファリサイ派を非難している箇所を読むと、律法を守れと言っているのではないと思われます。
そして、キリストはこの箇所で、律法の本質をついているというのも一つの解釈として成り立ちます。
すなわち、 律法というものは、100%守らなければ、何の意味もないものだということです。
例え、今日、律法の99%が守れたとしても、残りの1%を守れなければ、その時点でアウトですし、今日守れても明日守れなければ、アウトだと言えます。
ですから、什一献金を推奨するために、律法をできるだけ守れなんて言う人もいますが、こんなことはまったくナンセンスな話で、このようなことを言う人は、律法の本質をまったく理解していないと言えます。
余談ですが、最近キリスト教書店で、什一に関する本を探してみましたが、什一を勧める本ばかりで、什一献金に反対する本は、まったく見当たらなかったですね。
キリスト教の出版社も金儲けに走っているということなのでしょうか。
確かに、什一推進教会は資金力があるので、そのような、教会からの雑誌や新聞への広告収入は、馬鹿になりません。
しかし、あるキリスト教の新聞には、いまだにカルトと言われる教会の広告を載せているようですが、これでは、カルトの共犯と言われてもしょうがないでしょう。

Re: 2月のみんたた - 富田@iChurch.me
2011/02/05 (Sat) 18:00:48
「神さまがなしてくださる愛の業」「愛は私たちではなく神さまがなしてくださるもの」というのも、一つの信仰の告白としての言葉でしょう。
この言葉を逆手に取って、「神が愛してくださるのだから、私たち人間は愛そうとする必要はない」というのは、どこか間違っているように感じてなりません。
それは、たとえば、人のことをボロカスに誹謗中傷しておきながら、「私が裁くのではなく、神がお前を裁いているのだ」と言ってしまえる無責任さと相通じるものを感じるのですよ。
私たちは愛することができるなんて思い上がっちゃいけない。でも、愛したいと思う気持ちはあるし、できることはしようと努力している。
もし、自分がなしたことが愛というものになっていたら、それは私の力ではなく、神さまが成し遂げてくださったのだ……という信仰の表現でしょう。
神さまに全部任せて、私は何もしません、というようでは、この世の中で一生懸命、神に頼ることもできずに、誰にも見えない努力を続けて、世の中を支えている人に対して失礼ではないかと思いますよ。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/05 (Sat) 19:08:40
本当に、神様に委ねているなら、私は何もしませんということには、なりません。
例えば、ある子供が、毎日野球の練習を夜遅くまでしているとします。
周りから見たら、この子供は、努力して野球の練習をしていると思うでしょう。
しかしながら、本人は別に努力しているのではなく、野球が好きで好きで、楽しみながら練習しているのかもしれません。
愛するというクリスチャンの行動もこれと同じではないでしょうか!
私たちの教会には、礼拝に来るのが、楽しくてしょうがないという人が多いですが、彼らは、礼拝に行きたいから、来ているだけであって、何か義務感で来ているわけでは、ありません。
というか、シオンの丘教会では、誰も他人に「〜しなければならない」とは言いません。
義務感から努力して行動しても、長続きしないからです。

Re: 2月のみんたた - 孤独人
2011/02/05 (Sat) 19:57:26
>義務感から努力して行動しても、長続きしないからです。
どこ迄が自分の努力で、どこからが神のみ業なのか?
境界線が不明瞭になりがちです。
かくあるべし、と思って行動している現代人が目立つような気がします(無信仰は自分に根拠をおくからでしょうか)

Re: 2月のみんたた - がん子
2011/02/05 (Sat) 22:56:36
>etさん
etさんにとって「隣人を愛する」カタチ?状態??とはどのようなことをいうのでしょうか?
そしてその状態になるには努力が必要なのではなく、神さまに委ねればいいということなのでしょうか?
苦手だな、嫌いだなと思う人はたくさんいます。
それでも(努力、もしくはちょっと無理して)関わることにより苦手でなくなったり怖くなくなったりすることはあります。
私にとっての「愛する」という一つのカタチは「関わる」ということに近いので、ある意味努力が必要です。
礼拝に来るのが楽しくてしょうがないという人の多い教会、すてきですね。うらやましいです。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/05 (Sat) 23:46:13
がん子さん
なかなか、うまく表現できないですが、嫌いな人を努力して愛せるかというと、私には、まったく不可能です。しかし、自分自身が、神様の愛に包まれる時、不可能も可能になるように思います。
そして、私たちがクリスチャンになった後、特に自分が困難な状態にある時、誰でも神様を体験することがあるのではないでしょうか?、
自分が導かれていることを、その体験を通して知った時、自分が努力しても、出来ないことは、神様に降参して委ねることが、できるようになるのではないでしょうか?
私は、クリスチャンになってもう26年になりますが、最近ようやくこのことに、気づきました。
超教派で聖霊派を経験して、原理主義的な神学に苦しんだ時期もありました。
また、教会内で律法主義との戦いをたった一人で始めた時は、大きな山をスコップで崩すような戦いでした。
そして、完全に燃え尽きて、教会を去る決心をして、夜道を歩いている時に、急に頭の中が、電気がついたように明るくなって、「教会を去るのは、もう一年待て、私が教会を変える」という声のようなものが聞こえてきました。
それから、確かに山は動き教会は変わりました。
ですから、愛そうと焦る必要はありません。必要な時に、神様はがん子さんを通して、働かれると思います。

Re: 2月のみんたた - にじは
2011/02/06 (Sun) 00:11:26
ちょっとご無沙汰していたらもう2月のみんたたなんですね(当たり前か)
私もがん子さんと同じく「隣人愛ってなんだろう?」と考えても答えが出ません。
愛の形って人それぞれだったりしますし..。
その人の為にとした事が迷惑だったのかも?って時に、自分のデリカシーのなさに落ち込む事もあるので。
私が人にしてもらいたく、そしてしてあげたいと思う事は(なかなかできないのですが)
その人を肯定する事(自分の考えと異なってもいいんじゃないですか?と言ってあげる事)位です。
う~ん、でもこれも「隣人愛」とはちょっと違うかな。

Re: 2月のみんたた - 富田@iChurch.me
2011/02/06 (Sun) 11:23:54
野球が好きで練習をしているからと言って、それは神が野球の練習をしているということにはならないでしょう?
それは野球が好きなので、練習が苦にならない、ということでしょう。
同様に、ある人のことを愛するあまり、愛することが苦ではなくなった。全く自然に愛する事ができるようになった、というのは、本人の人間的な成長だと思うのです。
と同時に、それを自分の誇りとしないために、自分ではなく神のわざですと言うのではないでしょうか。
この体も意志も神さまが与えてくださったものだと信じるならば。
愛せるはずのない相手とも、努力して関わり合ううちに、次第に大切な人として感じるようになり、やがて関わり合うことが苦ではなくなるどころか、逆に喜びに変わる、ということはあります。
このような変化は、実は神が用意してくださったのだ、と告白することもできます。

Re: 2月のみんたた - et
2011/02/06 (Sun) 19:46:10
嫌いな人でも愛そうと努力できる人は、努力されたら良いと考えます。
ただ、誰でもそのような努力が可能かというと、そうではないということです。
これは、愛するということに限らず、クリスチャンの行動すべてについて言えることですが、私たちが、そのような人に対して、「嫌いな人でも、愛せるように努力することは大切です。」と言えば、その人を返って追い詰めることにもなりかねないと思います。

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/06 (Sun) 21:12:57
誰でもが努力できるわけではない、ということには同意します。
また、「愛する努力をしましょう」と言うと、追いつめかねないということもわかります。
努力なしで、愛の行為が可能になればいいですね。
祈って、求めて、自然に愛が形になるような、そんな風に事が運べばいいんでしょうけれどね。
今回のマタイの箇所では、「あなたがたの義が、あの人たちよりまさっていなければ」という言葉遣いが、日本語としてはどうも努力主義的に見えてしかたがないです。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/07 (Mon) 07:35:10
努力して愛せるなら、それに越したことはないですね。
ただ、社会人として、働いていると、自分の周りにいる敵は、努力して愛せるような、なま易しい存在ではないので、私には無理ですね。
ですから、愛せないことも、「神様、愛せません。」と祈るしかありません。

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/07 (Mon) 20:22:28
その祈りには共感します。
まさに、私には愛せない。
愛していると思っているのは、結局愛している自分が心地よいからだ、というエゴイズムからは逃れられないですね。
「自分を愛してくれる人を愛したところで何になりますか?」

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/07 (Mon) 20:26:51
そういう、破れ砕かれた自分という所から見ると、「あなたがたの義が彼らより勝っていなければ」という感覚とかなり隔たりがあるような気がしますね。

Re: 2月のみんたた - がん子
2011/02/07 (Mon) 20:35:49
何だかちょこっとわかった!
>まあ、どちらにしても神様の側でやって下さることですから、私たちは、神様に信頼して任せておけば良いのです。
ただし、決して愛そうと努力してはなりません。
人間は、元々、努力して愛せるような大それた存在ではありません。
etさんがおっしゃるように、こう言い切られてしまうととても抵抗があるのですが・・・
>愛せるはずのない相手とも、努力して関わり合ううちに、次第に大切な人として感じるようになり、やがて関わり合うことが苦ではなくなるどころか、逆に喜びに変わる、ということはあります。
このような変化は、実は神が用意してくださったのだ、と告白することもできます。
と富田さんがおっしゃるように「と告白することもできます」と言われると納得できます。
言葉って難しいですね。けれどもとても大切ですもんね。
富田さんの視点はいつも「そっかぁ」と感心することが多いです。


Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/07 (Mon) 23:11:26
富田先生、がん子さん
シオンの丘教会は、社会的、経済的に弱い方々、社会や律法的な教会で傷ついた方々が多く集う教会です。
ですから「努力しなさい」と励ますのは、彼らを追い詰めることになるので、私は言わないようにしています。
まあ、昔から、牧師が信仰生活における努力を説いても、信徒は笛吹けど踊らずの教会でしたので、今はその欠点がもちいられているように思います。
他教派から移ってきた人が当初、メソジスト的な、努力の大切さを言う場合もありますが、そのうち言っても無駄と悟るのか、その人もバプテストに染まってしまうのか、年月がたつと、あまり努力を言わなくなりますね。
20節は、一般的な解釈では、十字架による義は、律法を守ることによる義に勝るということでしょう。
神学者の中には、キリストを信じるなら、律法をファリサイ派や律法学者が守っていた以上に守れるはずだと主張する人もおりますが、これは、社会的地位もあり、経済的にも恵まれた環境にある人の机上の空論でしょう。
またまた、爆弾発言ととられるかもしれませんが、こんなの、まったく、教会ごっこに過ぎません。
社会的な地位もなく、経済的にも困難な状態にある人は、罪うんぬんを気にしていたら、生きていけないということです。

Re: 2月のみんたた - みり
2011/02/08 (Tue) 19:01:36
努力しても愛せないのは自分でも分かっていて、かといって、相手を愛せないという罪を犯したくないので、人とはできる限り付き合わないと決めた時期がありました。(変な考え方ですが…)
いや、今もかな…。
努力しなくてよくても、神様にすべて任せて自分は何もしなくていいというわけではないようですね。その通りだと思います。
とにかく、愛さないといけない、でも愛せないどうしようって悩むのが面倒になってきて、情けないなぁなんて思っています。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/08 (Tue) 19:47:02
どうも皆さん勘違いしているようなので、
神様に委ねるということと何もしないということとは、まったく違います。
クリスチャンは、神様に委ねた時に、神様から背中を押されて、行動します。
ただ、努力して行動するのとは、少し違うということです。

Re: 2月のみんたた - がん子
2011/02/08 (Tue) 21:58:13
>etさん
何だかややこしくなっていますが・・・
>クリスチャンは、神様に委ねた時に、神様から背中を押されて、行動します。
と言い切られてしまうと抵抗があります。
この点はetさんの信仰のカタチなんですよね。
「神様に委ねる」ということが(一応洗礼を受けてカタチとしてはクリスチャンである自分には)できていないのだろうと思っています。
みなさんが勘違い(etさんの意図するところと返信が違うというコト)するのは、もしかしたらetさんの書き込む「文字」の強さによるのかもしれないかも?なんて思っちゃいます。
(多分)誰もが「努力して愛さなくちゃ」と思っているわけではないと思いますよん。もちろん私もですが(^_^;)
個人的に言うと(自己満足かもしれないけど)できることはしたいなあ、ってな感じです。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/08 (Tue) 22:11:10
がん子さん
言われているように、文字は強過ぎるかもしれません。
私は、反カルトの教会掲示板の管理人をしているためか、どうしても言い切るクセがついているようです。
「神様に委ねる時、神様から背中を押されて行動せざるを得ない場合もあります。」
このように訂正します。

Re: 2月のみんたた - にじは
2011/02/08 (Tue) 23:10:01
>愛していると思っているのは、結局愛している自分が心地よいからだ、というエゴイズムからは逃れられない
この言葉、すごくドキッとしました。
愛とまではいかなくても、日常の人間関係もそんな事を思いながら関わっていないか?
愛せない人を「愛さなくては」と思っている時も神様のせいにして努力している自分に
陶酔してはいないだろうか?とちょっと怖くなりました。

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/09 (Wed) 23:54:44
ものは考えようで、どうせ自己陶酔のエゴイズムから逃れられないのですから、勇気をもって偽善者を続けるしかない、という生き方もあるんではないでしょうか。
自己陶酔かもしれないという反省は必要だとは思いますが、だからといって行動を恐れていては、せっかくその偽善的な愛の行為によって恩恵を受ける人もチャンスを失ってしまうわけで。
いずれにしても赦していただいて生きてゆくしかないわけで。

Re: 2月のみんたた - にじは
2011/02/11 (Fri) 01:11:59
行動を恐れずに、勇気をもって偽善者を続ける。そんな選択肢もありましたね。
最近、私がその人の為にしたつもりの行為が、その人にとっては必要ない事だったことがあって、
私って何て人の気持ちの分からない奴なんだろう?ってかなり落ち込んでいました。
失敗しても、赦して頂いて、また違う方法でチャレンジしてみたら良いんですよね。
ちょっと、じゃなくかなり元気出ました!ありがとうございました!嬉しいです!

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/11 (Fri) 17:46:31
そういうすれ違いは、しょっちゅうありますよね。
だから、聖書の言葉「あなたがしてもらいたい事を、人にもしなさい」というのは、実は危険で(笑)、文字通りに行動しないほうがいいんですよ。
行動するまでに、相手にとって必要なことを知ろうとすることが大事なんですよね。
聞きにくい場合は、推測するしか無いんですけどね(笑)。

Re: 2月のみんたた - 通りすがり
2011/02/17 (Thu) 16:13:20
いきなり失礼します。
20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
とキリストは語っていますが、何を持って義の優劣を比べるのでしょうか?


Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/17 (Thu) 20:48:53
比べようがないでしょうね。
ここでの「義が勝る(義が大きい)」というのは、律法にうるさいユダヤ人指導者たちよりも、厳しく律法を守りなさいということになるのではないでしょうか。
しかし、それは個々の条文のことではなく、律法の本質、あるいは律法の究極的な目的は、人間が本来の人間らしい暮らしをするということである、とまとめてしまう考え方もあるようですね。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/17 (Thu) 21:23:22
たぶん、その当時キリストがこの箇所を語るのを聞いていた人々は、「それでは、誰も天国には行けない。」と落胆したでしょうね。
その当時の律法学者やファリサイ派は、人一倍モーセの律法を一生懸命守っていた人々でしたから、超人でない限り、彼ら以上に律法を守ることは不可能だと思ったことでしょう。
しかしながら、この箇所で、キリストは、私たちに律法学者やファリサイ派以上に律法を守れと言っているわけではないと思います。
そうではなく、今までは、律法遵守という行為によって義とされる行為義認であったが、これからは、十字架によって信仰による義へと変化するという事を暗に言っておられるのではないでしょうか?

Re: 2月のみんたた - にじは
2011/02/17 (Thu) 23:33:36
>行動するまでに、相手にとって必要なことを知ろうとすることが大事
そうでした!相手を知ろうとすることは相手の立場に立つと言うか相手の気持ちに寄り添う事ですね。
人は生き方や考えは違うもの。その人を理解しようと思う事もちょっとした隣人愛、なのかも知れませんね。

Re: 2月のみんたた - トマス
2011/02/26 (Sat) 23:42:09
途中を全然読んでないからピント外れな事を書くかもしれませんが、今月全然参加できなかったままで終わるのも気持ち悪いし…。
面白いな、と思ったのは19節ですね。
「天地が消えうせるまで律法の一点一画も消え去ることはない」のだけど、律法の一点一画を破ったり破るように教えた者が「天国で最も小さい者と呼ばれる」、ということは、そんな人でも天国に入れるんだ。と読むことも出来るわけですよね。とすると、神の救いの間口というのは相当に広いのでしょうね。ちょっと安心出来る一言のような気がします。
ついでながら、新共同訳では平行本文があるようには書かれておりませんが、子細に見ますと18節はマルコ13:31とルカ16:17と一部共通です。他にも、マタイ24:34,35とルカ21:33にもよく似た言葉が出ております。
もひとつついでながら、「最も小さな者」で有名なのはマタイ25:31-46ですね。「天の国で最も小さい者」という言い回しはマタイ11:11にも出て来ます。

Re: 2月のみんたた - tomita@iChurch.me
2011/02/27 (Sun) 08:25:05
etさん
etさんの福音理解、律法理解は、パウロの手紙での見方が色濃く反映しているようですけど、それがマタイの思想とリンクしているかどうかは、ちょっと疑問に思います。
マタイは人びとが律法軽視に走ることに危機感を感じた、もしくは律法軽視に危機感を感じるユダヤ人読者に配慮したのかな、と思っていましたが。
つまり、イエス自身の口に遡ることに疑問を感じています。
トマスさん
面白いですね。もっとも小さな者であっても、天国に行ってるんですもんね。これならぼくでも入れそうです。
本心では地獄に行きたくないですからね。熱いのとか痛いのとか嫌なんで(笑)。
「最も小さい者」という言い回しは、ぼくも同じように感じていました。

Re: Re: 2月のみんたた - et
2011/02/27 (Sun) 23:09:19
私個人の信仰は、まず、ローマ、ガラテヤありきですね。
そしてローマ、ガラテヤから福音書へもアプローチしています。
だから、マタイが主張したかったこととは、少し違うかもしれません。
「天国で最も小さい者と呼ばれる」
この箇所は確か、天国に入れないというのが一般的な解釈だったと思いますが???

Re: 2月のみんたた - トマス
2011/02/28 (Mon) 09:56:50
>「最も小さい者」
あの有名な物語の影響かして、私なんかはこの言い回しが来るとついついマタイと思いこんでしまいますが、少し違う言い回しを含めれば、イザヤ、エレミヤ、ミカ、ルカあたりも回数は少ないですけど使っていますね。あ、でもミカ書はマタイがクリスマス物語で引用した箇所か。パウロも第1コリントで1回。してみるとやっぱりマタイが一番多いか。ザッと見ただけで4回使っていますものね。
>一点一画
これ、実にウマク訳していますよね。岩波訳の解説を見ると、直訳は「一つのιないしは一つの画も」(’ι’がちゃんと画面に出るかな?)だそうで、イオータはアルファベットとして1文字になることもあるけど、発音記号のように使われることもあるわけで、これを「一点」と最初に訳した人はスゴイです。
手元のNRSV(だと思う)を見たら、「一文字と一ストローク」になってますね。そのあたりは解釈でしょうか?こういう日本語訳との違い探しをするのも英訳聖書を見る楽しみの一つでしょうね。

Re: 2月のみんたた - 富田@iChurch.me
2011/02/28 (Mon) 15:48:37
一点一画……
ぼくはこれは神学部ではヘブライ語の一点一画だと習ったような気がするのですが……(笑)。
もともと律法はヘブライ語ですし。
あーでも、ヘブライ語圏以外、ローマ帝国広域では七十人訳ギリシャ語聖書のほうがポピュラーかな?

Re: 2月のみんたた - にじは
2011/03/01 (Tue) 00:27:19
>富田先生
以前仰っていた「勇気をもって偽善を続ける」ですが、先日違う方法でアプローチしたところ
受け入れてもらって私の事を友達だと思っていると言ってもらえました。
先生のおかげです。ちょっと話題がそれますが、3月になったし(言い訳)ここでお礼を言わせて頂きます。
昨日テレビを見てたら「コミュニケーションする言語が異なると、会話のレベルが落ちて
本当の気持ちを伝えられない事がある」と言っていて「私にも至らない所があったのだ」と気がつきました。
この掲示板でさえ上手く伝わらない事があるんですもんね(笑)気持ちを伝えるのって意外と高等技術です。

Re: 2月のみんたた - 富田@iChurch.me
2011/03/01 (Tue) 14:21:03
言語が同じであっても、なかなか人の気持ちというのは伝わりませんよね。
だから、気長に、あまり急速な進展を期待しないで、でも希望は捨てずに続けるよりないような気がします。
期待はしない。でも、希望は捨てない。

Re: 2月のみんたた - トマス
2011/03/01 (Tue) 18:42:45
>一点一画
あ、はい、岩波訳の解説でも先に引用した続きには、さらに元をたどるとヘブライ文字の最小の文字と基本線よりも下に延びるストロークのことだろう、みたいなことも書いてありました。
ちょっと省略しすぎましたね。すみません。
それもなんですけど、現代人である我々は(事実上発音記号と化した)ιの使い方を習いますが、そういう使い方があったはずなのに一方では新約の写本は大文字のベタ書き発音記号無しだったんですよね。なんかそれを考えると妙な気分です。
>気持ちを伝える
難しいですね。私は先日これで失敗してこのところ落ち込んでいます。伝えるのもですが、受け取るのに失敗しました。

Re: 2月のみんたた - 富田@iChurch.me
2011/03/02 (Wed) 10:46:34
>受け取るのに失敗
あー、それは倍くらいショックですよね……
ぼくもしょっちゅうあります。

Re: 2月のみんたた - トマス
2011/03/02 (Wed) 16:17:40
えぇ、受け取るのに失敗して意味を取り違えながら返した言葉が相手を傷つけていますから…。
話しをマタイに戻しますが、
18節の「はっきり言っておく」は αμην γαρ なんですね。

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