みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2012年1月のテーマ: 「神の介入」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
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出エジプト記7章3-4節

一足お先にあけましておめでとうございます。
2012年1月のみんたたを早速始めたいと思います。
今回は入谷さんのリクエストによりまして、久々に旧約聖書から出エジプト記7:3-4をテーマに設定してみたいと思います。
短い箇所です。仮に「神の介入」というタイトルを付けておきましょう。エジプトの王ファラオの頑なさとイスラエルの脱出の両方に神の介入があったという記事です。
以下に新共同訳の訳文テクストを提示しますので、どうぞみなさんご自由にご意見をお書き下さい。

*************************

出エジプト記7章3−4節(新共同訳)

3 しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、
4 ファラオはあなたたちの言うことは聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。

*************************

いかがでしょうか。
みなさんの書き込みをお待ちいたしますが、まずは入谷さんがここをご推薦なさった動機などをお聞かせいただければ嬉しいように思います。


Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2011/12/31 (Sat) 13:43:17
では、言いだしっぺの私から。
ここを読んだあと、
<quote>
真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。
</quote>
を読んで、普通の人間 (「不合理故に我信ず」などという倒錯した言葉を吐けない人間) は、何を考えたらいいのでしょうか、ということです。
17 歳の子どもが「カラマゾフの兄弟 (ドストエフスキー)」か何かに感動して、これは聖書も押さえておかなければ、と考えて徒手空拳で (キリスト教についての予備知識も、先達も、解説文書もなしで) 聖書を読み始めます。
荒唐無稽な神話の部分もあるなんてことは知らないから、創世記から順に、何をいってるのかさっぱりわからない、俺って馬鹿? と頭をひねりながら読みすすめて、この箇所まできて、自作自演かよ、やってられねぇよ、と聖書を放り出します。
この子どもが 40 年前の私です。
みなさんがここでどう躓いたのか、あるいは、躓かなかったなど、お聞かせ願えたらと思っています。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2011/12/31 (Sat) 23:37:21
預言者イザヤの召命記事(イザヤ書6章)に続く、いわゆる「頑迷預言」に通じるモノがありますね。
時代背景が似ているのでしょうか?とすると出エジプト記の編集時期ってイザヤ書と同じ頃だったかな?

Re: Re: 1月のみんたた「ファラ - 爽歌*sayaka
2012/01/01 (Sun) 03:28:21
受洗直前に聖書通読しました。
決してそういう教会ではないのですが
自分個人に限って言えば聖書から散々逃げていたから聖書一冊通読しなきゃ洗礼受けちゃいけないような気がしたからです。
で、最初の方でこれ出てくるんですよね…。
躓いたくちです。
首をタテにふらせたあとに頑なにさせるをエンドレス…って…
どんだけ神さまやりたい放題だったんだろうかと…。
今は
ああ、理由がつかないことはみんな神さまのせいにしたのね…
と思って読んでます。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2012/01/01 (Sun) 06:56:47
爽歌*sayaka さん
<quote>
ああ、理由がつかないことはみんな神さまのせいにしたのね…
</quote>
おおらかで、いいですね。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/03 (Tue) 11:44:18
要は神の自作自演な訳ですが・・・漫画で言うなら主人公のキャラクターがきちんと定まっておらず話が進むにつれて徐々にキャラが決まってくる、知らなかった過去が登場する、というように聖書の物語でも神のキャラクターが定まらない頃に描かれた「ある種の神の姿」だと私は思っています。聞きかじった知識で申し訳ないですが、原文で書かれた創世記に登場する神は多神教の名残があったそうですし(誤った知識なら指摘して下さい)。
つまり聖書を通して「一貫した神の姿」を見出せないでしょうし、それが自然なのかなと思います。私自身は聖書の中から神を特定するということは無理だと思っています。あくまでも1つの物語である、というスタンスだと駄目でしょうか。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2012/01/03 (Tue) 15:54:11
こうした神の振る舞いの可能な限りの首尾一貫した説明、というか、説明の放棄が、ウェストミンスター信仰告白ではないかと、思っています。
第 3 章
5 人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって(1)、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく(2)、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである(3)。
6 略
7 人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた(1)。
こういう神様とお付き合いするのは、骨が折れそうです。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/05 (Thu) 14:19:31
私は聖書は物語であると割り切っています。
そこには神を発見するというよりは、神という存在をどのように想像したり、神の意志をどのように解釈してきたのかという、人類の試行錯誤と紆余曲折の歴史が刻まれていると思います。
一種の解釈史ですから、その解釈が時代や社会層や執筆集団とその母体となる民族なり宗教集団によって、いろいろ異なっているのは仕方が無いと思います。
あえて、統一した神像を読み取ろうとすれば、頭がおかしくならない限り無理でしょうね。
ぼくの今の関心としては、「では、なぜ人間は『神』という存在を思い浮かべずにはおれなかった(また現在もそうせずにはおれない)のか」という事に向かっています。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/06 (Fri) 13:26:12
何故神を求めるか・・・あくまでも私の考えですが・・・群れで生活をする猿が進化した人間にとっては、常に群れのリーダーを求めるようプログラムされているのではないかと。ところが、知能も進化してしまった為に特定の人間を究極のリーダーとは見出せず、結果として神という仮想的なリーダーを求めるようになってしまったのではないかと。
ユダヤ教の凄いところは偶像として神を構築しても破壊されれば終わりなので、敢えて偶像を禁止して決して破壊されない神を「人々の心に」存続させたところにあるように思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/07 (Sat) 16:54:01
なるほど……そういう面は確かにあるかも知れませんね。
たとえば、軍神のような場合はそういうパターンが当てはまるかもしれません。
しかし、それ以外にも、先祖の霊とか、五穀豊穣の神とかもいますよね。
だから、必ずしもリーダーではない場合もあるんだけれど、何か自然界に見えないけれども、人間と同じような命なり心なりを持った存在がいるのではないかという想像ができるほどに人間の脳が発達したということなんでしょうね。
そうなると、神をイメージしやすい人というのが、人の心の存在にも敏感なのかな? と思ったりもします。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/08 (Sun) 06:27:45
失礼しました、キリスト教の神に限定して考えていましたが、確かに他の神々も居ますね。先祖の霊についてはリーダーという立ち位置では無いかもしれませんが、それでも「目に見えない何かに守られたい」という弱い形での導き手ではないでしょうか。
人間の理解を超えた不可思議なことがあったり、理不尽なことがあった時、その感謝や怒りをどこに向けるかとなると、「見えない何か」に対するしか無く結果として神や神々、その他に先祖の霊等にも目が向くようになったのかなと思います。Q&Aで記載されている死生観を見てもキリスト教の中でも徐々に死後の世界について世界が広がっていますし、仏教も大乗仏教になるにつれて「死後の世界」を視野に入れています。イスラム教も死後の世界について言及していると聞きました。人々の死に対する恐怖、どうにもならない逆境に対する答えの1つとして宗教、神が便宜上用意されたのかなと。人間が持つ弱さを補う、人間の知恵の欠如(問題を解決できない、適切な答えが出せない)を埋め合わせる上で神は都合の良い存在だと思います。
そう考えると、ここまで様々な神が世界中で語られていても神の存在を誰も確認できないのですから、神は存在しないのではないかと理性では考えてしまいます。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/08 (Sun) 10:29:14
そうですね。
それに、昔は神の領域だと考えられていた所が、どんどんそうでなくなってきていますからね。
昔は天空の上が神の居場所と考えられていましたけれど、そうではないことがわかりましたし。
まあそういう意味で、よく人が「神は私たちの心の中にいるのだ」と言う人もたくさんいますが、ぼくもそうとは言えないこともないだろうとは思っていますが、誤解を生じやすいので(同じ言葉を使いながら、全然違うことを相手と自分が言っている場合が多いので)、あまりこういう言い方はしませんが、確かに、最後に残った未知の領域は脳の中、意識と無意識の心の世界という気がします。
だから、脳科学が今後どんどん発展すれば、そこにも神はいない、あるいは、神を意識する心のからくりが解明されるかも知れないと思って楽しみにしています。
しかし、それにしても、自分以外の人間にも心というものがあるのだ、命とか意識とか「わたし」というものがあるのだ、という事を感じる能力って素晴らしいなと思うんです。
人の心がわかるというのは、そういうことじゃないですか。
ただ、それを昔の人たちは、樹にも、滝にも、湖にも、雷にも、岩にも、諸々の動物にも心があると想像したんですね。
あるいは、それらの存在や現象の背後にある何者かの存在を想定したわけですよね。
それが科学的に正しいか間違っているかはともかくとして、そうやってあらゆるものの中に命、心を見出してゆく能力というのは、(一歩間違えると危ないけど)やはり優れた能力という気がぼくにはします。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/11 (Wed) 21:54:02
ありゃ、投稿が止まりましたね。
身も蓋もないような話になっちゃったからでしょうか。
しかし、今回のようなテクストを読めば、そりゃエジプトのイスラームの人たちは怒るでしょうね。
……と思いきや、ムバラクを落とした政変では、ムスリムもクリスチャンも手を組んだみたいな報告を聞いていますから、案外どうでもいいのかも知れませんけど。
ムバラク時代は、例えば『マトリックス』という映画も、「ユダヤ・キリスト教的文化である」という理由で上映禁止になったりしてたみたいですが、下々の庶民のムスリムにとってはどうでもよかったのかも知れませんね。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/12 (Thu) 13:23:35
身も蓋も無いとは思わないですが、神の存在場所について他の皆様の意見も聞きたかったです。私は自然法則(数学や物理)に神を見ることはありますが、人格を持った神という存在については頻度としてはあまり感じません。割と裏切られていることが多い為でしょうか・・・。
今回の聖書箇所に前後するところですが、クリスチャンもムスリムも普通に考えれば「ユダヤ人のみ選んでいる身勝手な神」としか受け取れません。しかし、その神を神として受け入れたのが(キリスト教もそうですが)イスラム教です。その一方でパレスチナではユダヤ人との紛争が収まっていません。イスラム教がユダヤ教から派生したのだとしたら、どうしてイスラエルの地をユダヤ人に全面的に譲り受けるという選択が無いのか実は分かっていません。
タブーな話題でしょうか?

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/13 (Fri) 13:18:28
話題に乗りそこねております。
考えてみましたら、出エジプト記というのは(いまだに成立の事情は謎の部分も多いわけではありますが、通説の範囲で言えば)、イスラエル民族のある部族(?)に伝えられた昔話が、王国時代に文字に書かれて文書化され、やがてイスラエル全体の物語になっていったわけです。(文書化の時点では北でしたっけ?南でしたっけ?)
王国時代という時代背景を考えると、この文書自体が、列強に囲まれて独立を維持するのに汲々としている吹けば飛ぶような小国の伝えた物語だったことになります。当時は民族主義なんて言葉はないわけですけれども、文書成立の時代状況を考えると(今で言う)民族主義的なところがあるのは致し方ないわけで、むしろ当時の支配者層にとっては民族主義的だからこそ喧伝するに足りる物語だったわけです。そしてエジプトは独立を脅かす列強の一つだったわけですから、エジプトそのものか、エジプトに託して北方の脅威を呪詛したのか、判然としませんけど、呪いの言葉も書きたくなるだろうな、と思えてきます。
そうするとその部分を現代人が捉えてどうこう言ってもどうしようもないのかな、という気がします。
入谷さんや毛利さんの書き込みに対しては冷たく突き放した言い方になっているかもしれません。ごめんなさい。
躓いたかどうか、みたいなことから言いますと、この前後の部分も含めての話しになりますが、神の理不尽さよりも、モーセさん大変だよなぁ、とそっちに意識が行ってしまいました…。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/14 (Sat) 08:44:41
トマスさん
「現代人が捉えてどうこう言っても」ということですが、それを言い出すと聖書そのものの存在意義が吹き飛びませんか?イエスが言った、ということにしても「当時のイエスはそう考えて、そう発言した(けれど現代には通用しない)」ということになってしまう気がします。
厳しい言い方をすれば現代人として生きていく上では聖書で述べられている美徳が時として障害になることがあります。右の頬をぶたれる前に相手の右の頬をぶつべし、という時代です。信じる者が騙される時代です。そういうことも加味すると聖書の言葉は「もはや古く廃れた思想」にしかならないのではないでしょうか。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2012/01/14 (Sat) 09:37:11
段々過激になっていって、怖いくらいですが。
毛利さん。
「現代人として生きていく上で」といっても、どう生きて行くかは、個々に決めるしかないわけですから、~にとって障害になるかもしれないからといって、一概に聖書の教えを棄てる必要はないと思っています。
~ のところには、拝金主義者とか、何でもお好きな言葉をいれてください。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/14 (Sat) 10:17:44
入谷さん
仰っている意味は分かります。私自身も聖書の気に入った箇所、参考にすべき箇所を選んでおりますので聖書を全否定することはしたくありません。ただ、聖書や一般的な道徳の基準で見て「正しい」とされる人達が痛い目に遭う場面を目撃していますから、果たして「聖書の教えは人間が生きていく上」で重要なのだろうかと思った次第です。
また聖書を読んでいて「躓く」ところは時代背景が違うという形で処理してしまうのは、確かに正解かもしれませんが、私としては何か物足りないものを感じました。
過激な内容にシフトさせてしまい申し訳ありません。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/14 (Sat) 10:46:15
トマスさんが「現代人が捉えてどういう言っても」と発言なさったのは、この文書の創作されたいきさつについては仕方がないという意味ではそうですけど、問題になるのは、「現在の我々がこれを読んで、どう生かすか(殺すか、無視するか)」というのは、やっぱり私たち自身の問題ですよね。
現実に、この出エジプトの物語は、ユダヤ人や一部のキリスト教徒にとっては、今でも生きている神の言葉であって、自分たちの自由と独立と主権を主張し、その為に敵を戦う時には引用するわけですから。
それから、聖書もひとつの立場で統一された人々が、統一された基準で書いたものではなく、その中には食い違いも矛盾もあるわけですから、「聖書の教えは人間が生きる上で重要か、否か」という大づかみな質問の立て方では論じることができないのではないかと思います。
「聖書の、この部分は有効だが、この部分は納得がいかない」という色分けがどうしても出て来るでしょうし、その色分けの仕方が、読む人によって異なるのも仕方が無い気がします。
また、聖書の言葉に納得がいかない事とか、つまずく部分が出てきても、「なぜそういう思想が出てきたのか」ということを批判的に研究することで、やはり反面教師として学ぶべき材料になるうるという気がします。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/14 (Sat) 17:37:27
すみません。読み返してみて、やはり言葉が足らない部分と言葉がキツイ面と両方あるようです。ごめんなさい。
毛利さんの懸念はすごく当たっているとは思うのです。一言で言えば、そこのところの見極めを付けていくのがキリスト者としての修行かな、なんてことも思いますが、これももう少しちゃんと書かなきゃ判りにくいだろうな。そのあたり含めて月曜ぐらいにまた書き込みしますね。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/17 (Tue) 15:19:25
月曜にでもと言いながら火曜日になっております。どう書こうかと考えていたら案外に時間掛かりました。ひょっとして次は月曜と私が書いてしまったのが他の書き込みを抑制していますでしょうか?だとしたら申し訳ない。
2500ないし3000年前のヤハウェ(ヤハウェと等置されるエルも同じ)が民族神であり、しかも軍神であったのは間違いないと思います。万軍の主という訳語がどこから来ているのか時間が取れなくて調べておりませんが、そのように訳されるだけのモノは歴史的にあったはずです(もっとも、万軍の主はエル・シャダイでしたっけ?原意は今以てよく判ってないと聞いたようにも記憶しますが)。
そのことに目をつぶる必要はないと思いますし、また目をつぶってはいけないと思います。
ただ、じゃぁ今もヤハウェは民族神であり軍神であるかというと、そこは気をつけなきゃいけないと思うのですよ。
ユダヤ教の文脈では、今もヤハウェは民族神です。だけど、あまり意識されない事だけど、同じ出エジプト記にイスラエルはヤハウェの長子だ、なんてことも書いてあります。具体的に言えば4章なんですけど、しかもその直前には今月のみんたたテキストと同じエジプトへの呪詛が書いてあるのが興味深いですが、それはさておき、つまりは「旧約」聖書の中にもイスラエル以外の民への神の救いの可能性を暗示する箇所があるわけです。
もちろん、一方で今月の箇所(4章もでしょうけど)を今もなお戦争に利用する人もいる、それも目をつぶってはいけないと思います。
だから結局ヤハウェってどんな神だ、とはユダヤ教の文脈に限ったとしても簡単には言えないと思うのです。
元に戻りまして、そしたらキリスト教の文脈で言えばどうなるかというと、歴史上のイエスやペトロや(パウロも?)が新しい宗教を作ろうとしていたのではない事もまた事実でしょう。ただ、その後の歴史から言えば、出エジプト記を読みながら、ヤハウェはイスラエルしか大切にしない神だよね、と現在形で言ってしまうとキリスト教の立つ瀬がなくなるように思います。イスラエルの民族宗教から飛び出したところにキリスト教は2000年になんなんとする歴史を持つわけですから。
加えて、ヤハウェの民族神としての一面にあまり注目すると、旧約と神と新約の神は別物になってしまいます。それもマズイだろうなと思うのです。
もちろん、2000年の歴史の中で、キリスト教の神が軍神でなかったかといえば、それもそんなことないわけで、その歴史も直視しなきゃいけないのですけど。
で、話変わりますけど、じゃぁ都合よい所だけつまみ食いしていいのか?カルト系キリスト教だってつまみ食いしているじゃないか?ということにもなるのでしょうけど、その問いは裏返せば、じゃぁ都合悪い所だけ見てキリスト教を捨ててもいいのか?にもなるわけです。それを言い出せば、極論すれば、我々現代人は全ての宗教も全ての科学技術も捨てなきゃいけない。ってことになりかねません。
そうすると、都合悪い所もある事を肝に銘じつつ、そして、同じような取捨選択をカルト系キリスト教もやっているという、いわば危うさをしっかりと見詰めつつ、常に自分の人生を問うてゆく、神の国の実現(これも言い出せばキリがないワケですが)のためにどう生きるかに常に焦点を合わせていく、そんな必要があるかな、というそのことを書こうとしたら、足らなかったり言い過ぎたりしてしまいました。ごめんなさい。これで伝わるかな?余計に判りにくくしちゃったかな?

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/17 (Tue) 15:40:42
レスを分けますけど、私自身気をつけなきゃいけないなと思っている事がもう一つあって、私は良くも悪くも小学校行くよりも先に「教会学校」行かされてた手合いです。そうすると、中学生や高校生の時に初めて聖書(特に「旧約」聖書)に出会った人と感じ方が違う部分があるだろうな、と思います。今月の箇所でも、私だって高校生の時に初めて読んてたら、此奴なんちゅう神やと思ったかもしれないです。そういう意味で、最初に入谷さん(だけじゃないでしょうけど)がこの箇所で躓いた、と仰る事は私の中で大事にしないといけないと思っています。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/18 (Wed) 14:32:32
ぼくはトマスさんのように信心深くないんで、そういう風には考えないです(笑)。
まあ確かに、ぼくが教会学校に通い始めたのは中学3年生の後半からなので、多少純真さに欠けているのかも知れません。
しかし、聖書自体は小学校4年生の時から読んでいました。
まあ、そんなことはどうでもいいとして……
ユダヤ人の神とか、キリスト教の神、とか。
そういうものがリアルに存在するなんて思い込んでいるから、話がややこしくなってくるんじゃないですか?
そんなものは全部、人間のイマジネーションの産物ですよ。
ですから、最初は自民族の神でしかなかったものが、歴史の文脈の中でいつのまにか世界の神、唯一の神になったりするわけですよ。
ユダヤ教からキリスト教への移り変わりだって、イエスがユダヤの神を異邦人にも宣べ伝えてしまったから、変化が起こっちゃったわけでしょう。だからエルサレム教会と異邦人教会の対立も起こったし、結果的にエルサレム陥落と共にエルサレム教会も滅びちゃったから、異邦人中心の宗教にキリスト教が変質していってしまうし。
イマジネーションというのは、社会の文脈の中で自由自在に変質してしまうんですよ。
それを、リアルな存在物のように、あれかこれか、と論じるのは、ぼくにはヘンテコな議論だと思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2012/01/18 (Wed) 19:56:41
富田さん。
「リアルな存在物のように」は論じないとして、では、どのように論ずるべきだと、お考えですか。
そこがピンとこないので、上の投稿、揶揄のように読めてしまいます。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/19 (Thu) 10:57:03
いえいえ、もちろん揶揄ではありません。
それにトマスさんも、ここの副牧師だけあって、ぼくがいかにえげつなくリベラルかをご存知なので、遠慮なく放言してしまいましたが、揶揄に聞こえてしまったら、申し訳ありませんでした。
もう少し丁寧に言いますと……
ちょっと不可知論者の見解に近く感じられるかも知れませんが、ぼくは、「神的なるもの」を直接人間が認識することは不可能だと思っています。
「神的なるもの」(something or someone divine)が存在するかどうかも、また存在したとしても、その存在を意識で直接認知することはできないのです。
また、もし認識できたとしたら、それは時間と場所に支配された有限な存在ということに他ならないので、それでは神的なものとは言えなくなると思うのです。
ところが、ユングの心理学の言葉を使えば、「投影(projection)」という機能が人間の脳にはあります。
無意識の領域にある心の「元型(archetype)」が、無意識ゆえに意識することはできないんですが、それを外界の何物かに「投影」して、そこにあたかも存在するかのように意識してしまうという機能です。
そして、宗教心というのは、自分の無意識の中の「神」元型が、外界の象徴(岩でも、樹木でも、仏像でも、聖像でも、十字架でも、あるいは教会堂、あるいは何らかの自然物か道具によって作られたある空間でもいいのですが)に投影されたもので、そこには何も無いのですが、そこに何物かが存在するように感じる、というのが宗教心だとぼくは思っているのです。
ですから、「じゃあどこに神は存在するのか?」と問われると、ぼくは「あえて言えば私たちの心の深奥の無意識の深い所に存在していると思われますけど、それが1人なのか複数なのか、果たして人格神なのか人格などないただの法則のようなものなのか、とにかくわかりませんよ」と答えざるを得ない気がするのです。
とにかく確かなのは、私たちの心は、見えないものを、存在しないはずの場所に「見ることができる」のです。あるいは「見てしまうのです」。
そして、何をどう見るかというのは、文化や社会背景や「見る」主体である人間の生い立ちなど、様々な要素によって、いくらでも変化します。だから宗教というのは非定型にどんどん地域や時代をまたいで変化していってしまうのです。
ですから、ユダヤの神、キリスト教の神……といった風に、あたかも定型化された神が存在しているように論じるのは、ぼくにとってはあまり現実的ではないように感じるのです。
私たちが認知できるのは、自分の心の中にある「神的なるもの」「聖なるもの」あるいはそういったものへの憧れを、外部の何かに投影した結果見ることのできる幻なのです。
人間は神の幻しか見る事はできないのであって、それはどんなに追求しても神そのものではないのです。
そこをちゃんと認識しておけば、私たちは「神はこう言っておられる」とか「お前は神に裁かれるであろう」等と言った、まるで自分は神を知っている(すなわち、神を把握していると言ってしまった時点で、自分を神以上の者に位置づけてしまっているのですが)かのような態度はやめて、もっと謙虚になれると思うのです。
まあ、これでも荒っぽい文章ですが、だいたい概要としてはそういうことを考えていますということです。
入谷さん、ぼくの思いをご理解いただけますでしょうか。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2012/01/20 (Fri) 18:57:02
*.cyberhome.ne.jp
富田さん。
難しい (笑)。
「私たちの心の深奥の無意識の深い所に」、「神的なるもの」・「聖なるもの」の「元型(archetype)」があるかもしれない、ないかもしれない。が、とりあえず、それが存在するかのように仮定して、それが具現化したもののが各々の宗教だという考え方をしてみましょう、という理解でいいのでしょうか。

そのようなものすごく抽象的なところから、では聖書をどう料理できるのか、が私には全く見えませんし、私同様の読者も多いのではないかと思います。
富田さんの思考過程の内部にはそこを繋ぐ何らかの媒介概念があるのでしょうが。
「聖書は物語」には違いないかもしれませんが、それをいえば、「ソクラテスの弁明 (プラトン)」、「純粋理性批判 (I. カント)」も物語でしょうし、「諸国民の富 (A. スミス)」さらには、「自然哲学の数学的原理―プリンキピア (I. ニュートン) 」も物語といえるかもしれない。
ただ、そこには、世界把握のあり方の質的な差異があるだろうし、それを認めるのであれば、ギリシア神話、ヘブライ神話、クルアーンが語る神話の間にも差異も認めるべきだろう (味噌も糞も一緒に「物語」でくくるべきではない) という気がします。
というような異論は異論として、富田さんの言説をこの観点で follow するよう努力してみます。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 富田
2012/01/20 (Fri) 21:10:58
そんなにたくさんの書物を読破したわけではありませんが、少なくとも聖書に関して言えば(でも、たぶん他のどんな聖典と呼ばれる書物もそうでしょうが)、人の心が生み出したものだ、ということです。
ですから、ぼくは聖書を読むときでも、「どういう状況で、どういう気持ちで書いたのかなあ。どういう読者を想定して何を言わんとしたのかなあ」と思案しながら読んでいるだけです。
まあ普通の文芸を読むのと変わりはありませんよ。
書く人や想定される読者、場所、時代が変われば、できる作品も変わる。
それだけだと思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/22 (Sun) 21:50:43
いや、富田先生の言う事はそれはそれで当たっていると思いますよ。そういう学問的に冷静に見る部分と、自分の信仰として霊的に見る部分と、両方必要でしょうね。と言いながら私の中で整理付いてない部分はあると思うんだけど、それはそれでいいんじゃないの、と思っています。
聖書の読み方という事で言えば、私もたとえば福音書記者がどういう社会状況でどんな読者を想定しながら書いたか、なんて話しもけっこうしますよ。それも日曜朝の礼拝説教として。あとはそこからもう一歩どう読み込むか、ですよね。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/24 (Tue) 14:42:06
ぼくはそういう学問的に聖書を読むのが面白くてしかたがないんですよ。それで、霊的な部分が抜け落ちてしまうことがよくあります。
昨日も徳島でやっちゃったんですよ。
面白くてベラベラしゃべっているんだけど、聞いてる人の霊的養いのためにはならなかったんですね。
それで。礼拝が終わってポカーン……みたいな(笑)。
ライブ中継に失敗したんですが、失敗して助かったかな? みたいな情景でしたよ。

無題 - 爽歌*sayaka
2012/01/25 (Wed) 08:32:44
極端な話
誰もが心の中で「偶像」をつくってしまっていて
またその「偶像崇拝」から逃れられないということですよね。
自分の信じている神がもしかしたら自分自身が勝手につくった「偶像」かもしれないとわきまえていたら
多少神に関する考え方が違っていても目くじらをたてることはできないし
そうわきまえることで「謙虚」になれるのではないかと思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/25 (Wed) 08:50:42
そうなんですよね、爽歌*sayakaさん。
偶像崇拝から完全に逃れるということはできないのですよ。どんなに目に見える偶像を破壊しても、最後には自分の心の中の神のイメージ、という偶像が残りますからね。
ただ、絶対に自由がないということではなくて、自分の神に対するイメージさえも偶像なのだとわきまえることで、少し自由になれます。
ぼくは神学部で「仏に会ったら、仏を斬れ」という言葉があるのを教わりました。それと同じだと。自分の中に「悟り」を得た、と思うものが現れたら、それは間違いだから斬って捨てよ、と。
「神を見たら、神を斬れ」ということです。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/26 (Thu) 20:19:34
>なのだとわきまえることで、少し自由になれます
同感(溜息)
そのわきまえが有れば、キリスト教の歴史(特にプロテスタントの歴史)が随分と違ったモノになっていたでしょうねぇ。(以下自粛)

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/28 (Sat) 12:29:44
でもね、トマスさん。
そろそろ愚痴は終わりにして、新しい日本人のキリスト教ってのをさぐってみませんか。
荒唐無稽な可能性も含めて、ここでは自由に話し合えると思うので。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/28 (Sat) 14:00:45
愚痴でもって今月のみんたたが終わるのは確かに後味悪いですな。
>新しい日本人のキリスト教
そりゃぁ突破口はお墓と仏壇と神棚でしょう。
初詣と七五三とお葬式と法事でもいいけど。
いや、吉備団子と濃い茶でやる聖餐式かな。
どれも私の持ちネタに引き込むようで気が引けますが。

Re: Re: 1月のみんたた「ファラ - 爽歌*sayaka
2012/01/28 (Sat) 18:26:15
初詣は教会で
くらいにできたらいいですね。
賽銭箱という名の献金箱置いて
鐘をつけて鳴らせるくらいにして…。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/01/29 (Sun) 16:20:58
教会関係者の間に割って入るのは気が引けますが、富田先生の考えておられる「日本人のキリスト教」とは何なのかなと思いました。クリスチャンの数を増やすこと、でしょうか?文脈からすると、そうではないと思いますが、仮にクリスチャンの数を増やすとしたらそれは「洗礼を受けた人を増やすこと」なのか「教会に集う人を増やすこと」なのか「神に祈りを捧げる人を増やすこと」なのか等々と考えてしまいました。
神は人間の心の中に描かれた幻想だとしたら、その神を信じるという行為そのものがどういう意味を持つのか、ということが引っかかりますし、「神は存在します」と言うにしては聖書は非力で誤解を招きます。そして、神の明確な定義を避けて漠然と「何かを信じる」「良心を持つ」ことが人を強くするのかと考えると私は「むしろ人を弱くする」気がします。
日本人が本気でキリスト教から何か(=積極的に前向きな何か)を学んでしまうことは、アダムとイブが知恵の実を口にして楽園から追放された歴史を再現するように思えてならないです。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/30 (Mon) 10:24:14
>初詣は教会で
以前にもこの掲示板でネタにしたように記憶しますが、そのキャッチコピーを今から30年か40年前に教会で見たような気がするんですね。教会独自でやったのか、もっと大きなところで考えたのか、あるいは1日が日曜だったのか。御記憶の方あれば御教授ください。ちゃんとしたポスターだったから、ウチの教会独自でやったんじゃない気がするんだなぁ。
短い礼拝でいいと思うんですよ。新年の讃美歌を1曲歌い、新年を言祝ぐ祈りが唱和され、今年もキリストの弟子として生きていこう、みたいな短いメッセージが語られ、お餅の入ったお汁粉で聖餐式やって。
え?礼拝のイメージを根本から変えるようなもっと荒唐無稽な話しをしろって?いや、たしかに、朝何時に集まってどうこうするという部分は崩せてないんだけど。現実的にはまずはこれぐらい崩せたら充分かな、と。
いや、もう少し悪ノリするならこういうのもアリかな?お汁粉聖餐式の人数にもよるけど1回の礼拝は15分、その代わり1時間おきに朝から夕方まで8回行われますので、いつ御参りしても何回御参りしてもOKよ、みたいな元旦礼拝…。
もちろん、祈りは全文を唱和します。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - がん子
2012/01/30 (Mon) 20:24:50
自分が以前所属していた教会の前牧師の時は、毎年1月1日の朝6:30から礼拝がありましたよ~。
まさに初詣。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/01/31 (Tue) 12:53:59
>毛利さん
ぼくが「日本人のキリスト教」と言うとき、毛利さんのおっしゃった全部が含まれています。
つまり、「洗礼を受けた人を増やし」たいですし、そのためには「教会に集う人が増える」ことが必要でしょうし、そのためには「神に祈りを捧げる人を増やす」ことが必要です。
でも、そのためにじゃあ人数が集まれば何をやってもいいのかというと、それはカルトになってしまいますし、最終的には「祈る」行為、「教会に行く」行為、「洗礼を受ける」行為が、当人の本当の自由と愛と喜びの源になっていなければ、何の意味もありません。
ですから、教会も、キリスト教も結局は、人が幸福に生きるための手段であり、宗教や宗教活動が生きる目的になっても仕方が無いと思っています。
ひとりでも多くの人が楽になって欲しい、幸福になって欲しい、そのためにキリスト教をどう応用できるのかという視点が強いです。
それを追究していった結果、誰かが結果的に「もう教会という組織は必要ない」「キリスト教という宗教にこだわる必要が無い」ということになっても、それは本人の出した結論だから構わないと思います。
でも、多少形の違う教会であったとしても、やはり洗礼を受けた人に会うと、ぼくは兄弟や姉妹に会ったような感慨深さがあります。
日本ではクリスチャンは少数派なので余計にそう思うのでしょうが、その少数派の生き方をあえて選んでくれた同志として、どの宗派の人であってもクリスチャンの方は特別な家族のような関係だと思っています。
家族がひとりでも増えると嬉しいので、ぼくはクリスチャンの数が増えて欲しいと思っています。誰かが洗礼を受けてくれたら正直言って嬉しいです。
でも、自分がやっているウェブ教会の活動を通して感じるのは、日曜日の朝という「限られた時間」に、牧師という「特定の人物」の説教を毎週聞かされ、教会員という「特定の人間関係」にしばられ、牧師の謝儀や会堂の維持費といった教会「予算」にしばられた献金を要求される、といった教会生活が今後望まれてゆくのかというと、かなり難しい気がしてきています。
それどころか、イエスを信じて生き、神に祈りながら、自由に楽しく強く生きて欲しいですが、その為に今までの教会や信徒や牧師がじゃまになる可能性も出て来ているのではないかという気がしています。
いずれにせよ、これからの時代の人びとの宗教心の変化に、今の日本の多くのキリスト教会が、コンテンポラリーに対応してゆくのは難しい気がします。
そうなると、さっき言った「教会に集う人が増えて」「洗礼を受ける人が増える」というのは、ちょっと成立しづらくなってきます。
ウェブ教会というのは、この2つをすっとばして、「祈りを共にする」領域に行ってしまうんですよね。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/01/31 (Tue) 19:11:43
>賽銭箱
シーズンを先取りする形で受難週の記事を読んでいるのですけど、「やもめの献金」(マルコ 12、ルカ 21)のところで新共同訳は賽銭箱って書いてありますね。とすると教会にも賽銭箱はアリ?(笑)
>ウェブ教会
教会という組織は、頑固に変わらない部分と、したたかに時代と共に変わってきた部分がありますから、ウェブ教会がどのようなポジションを得ていくのか、私は自分も一枚噛みながらけっこう楽しみにしています。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/01 (Wed) 12:08:07
>賽銭箱
ユダヤ教の神殿にはあったということですね。十分の一の献げ物や神殿税とは別に、ということですね。
キリスト教会に移行してゆく時に、無くなったのでしょうか?
その代わりにみんなが財産を持ち寄り合って、間もなく来る終末に備えたんでしょうね。
だから賽銭箱というのは、終末がすぐ来るのではなく、ずーっと歴史に長らえて生きてゆく宗教団体が創ったものと言えるのかも知れません。
>ウェブ教会
最近、礼拝風景などの生中継ライブ配信の反応がよいのです。
別の場所にいても、同じ時間帯に同じ礼拝に参加している、という感覚が喜ばれているようです。
長らく教会から足が遠のいている人、病気やケガで来られない人、遠くに引っ越してしまった人などが、再び教会の人に連絡を取るケースが出て来ています。
ですから、2012年はこのライブ配信に力を入れていきたいなと思っています。機材も少しずつ揃えて。あまり高級な機材は必要ないみたいなんで、何とかなるかなと思っています。
これが、「教会に行かなくてもいいや」という結果につながってゆくのか、「教会にもいつか参加しよう」という結果につながってゆくのか、まだぼくにもわかりません。
ただ、現時点では、無いよりはあったほうがいいサービスだという手応えを感じています。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/02/04 (Sat) 08:33:31
富田先生
遅い返事ですみません。
洗礼を受ける人を増やすとのことですが、洗礼を受ける為には
・イエスの復活を信じる
・イエスが神の一人子であることを信じる
・聖書に書いてあることは全て真実であることを信じる
等の条件があるように思います。これらのハードルを超えることは常人には無理ではないかと思います。
実際、イエスの復活については旧約聖書では予言されておらず、キリスト教オリジナルの思想のようですし、福音書の中でも描写が食い違っています。神の一人子についてはイエス自身が「誰もが神の子になれる」と言い切っていたと思います。更に聖書に書いてあることが全て真実ということは聖書を読めば「あり得ない」ことが分かります。
つまり「最初から理不尽で、あり得ないこと」を信じる、いや、あり得ないことは信じられませんので「思い込む」しか無いのですが、そうすることがクリスチャンになる為の第一歩ではないでしょうか。まず、クリスチャンになることが難しい理由は、ここにあると思います。
次に、仮に上記の条件を満たしたとして人は幸せになれるのでしょうか?確かに聖書の中には沢山の名言や優れた思想があります。2月のみんたたで触れている愛(アガペー)についての理解等は、その典型でしょう。しかし、それらのことと上に出した条件とはシンクロしません。どうすればクリスチャンになることが当人の自由と愛と喜びの源になるのでしょうか?
その辺りについて、どのようにお考えですか。よく分からないので書き込みしています。不快に思われたらすみません。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/05 (Sun) 13:38:46
不快……というか、ぼくはもう毛利さんが既に、その3つを信じ込むことがクリスチャンの条件というわけではない、ということに気づいておられるのではないかと思っていたので、ちょっと皮肉をおっしゃっておられるように感じました。
洗礼を受けるために、
・イエスの復活を信じる
・イエスが神の一人子であることを信じる
・聖書に書いてあることは全て真実であることを信じる
それも文字に書かれたとおりの意味で、ということですが、そんな事を本気で洗礼志願者に要求するのは、がちがちの直解主義者、右派のキリスト教徒ですよ。
あるいはリベラルな教会では、そういうことは要求しません。
私自身も、ここでの色々な話し合いの中で明らかなように、イエスの死体が息を吹き返して墓から出て来たと信じているわけではありませんし、イエスが神の独り子であるならば、我々も神の子だと思っていますし、いずれにせよイエスは人間だったと思っていますし、聖書に書いてある事が全て事実だとは思っていません。むしろ事実の要素はごくわずかでしょう。
そういう共通理解がここの談話室ではできていると思っており、ぼく「も」キリスト教徒であり、牧師としていくつかの教会で説教していることもご存知のはずです。
にもかかわらず、洗礼を受けるためには、先の3条件を満たすことが必要だと、「本気で」毛利さんが思っておられるとは、ぼくには信じ難いです。
毛利さんが過去、右派的、原理主義的教会で大きく傷つけられたことは知っています。
しかし、それが唯一のキリスト教ではないのだということは、もうじゅうぶんご存知ではないかなと思うのですよね。
ぼくは、洗礼というのは、自分が神に愛されているということを信じる人、あるいは「信じたい」と願う人は受けたらいいと思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/02/05 (Sun) 15:18:04
富田先生
皮肉のつもりでは書いていません。私自身、何カ所か教会に行きました。例の原理主義の後でも、リベラルと呼ばれる教会にも行きました。しかし、そこでも牧師や信徒がイエスの復活を信じていたり、イエスが神の一人子であるということが暗黙の了解になっていました。
ですから他の教会で洗礼を受ける為には最低でも「イエスの復活を信じる」ことが条件になっていると私は感じています。「私はイエスの復活は信じられませんし、神の一人子であるとも思えないのですが、神に愛されている/愛されたいと思う気持ちは強いので洗礼を受けさせて下さい」と頼んだとしたら、かなり高い確率で拒絶されると思います(試したことは無いので断言は出来ませんが)。
日本人にとってキリスト教の敷居が高いのは、そうした「あり得ないことを暗黙の前提として信じなければならないから」ではないかと私は本気で考えています。これらの条件を排除して「神に愛されている/愛されたいと思えばクリスチャンです」とすれば、クリスチャン人口は増えると言っても過言では無いだろう、と。
そこが多くのキリスト教会と非クリスチャンの人達との間に立ちはだかる大きな壁ではないでしょうか。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/02/05 (Sun) 16:15:55
割り込みすまんです。
>つまり「最初から理不尽で、あり得ないこと」を信じる、いや、あり得ないことは信じられませんので「思い込む」しか無い
としたらそれは信仰ではないように思います。
私は復活は信じているんだけど、それは聖体拝領の時に唱える言葉の通りで「信仰の神秘」だと思っているんですね。「理不尽であり得ないことを思い込んでいる」のとは全く別物のように思います。というか、そんな風にしか思ってもらえていないのだとしたら、不快というよりも、とても哀しい。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/05 (Sun) 20:03:13
>毛利さん
そうですか。そのリベラルと呼ばれる教会というのが、本当にどれだけリベラルなんかなあと、ちょっと不思議に感じます。
ぼくは長老主義教会の連中からは反キリストのように忌み嫌われていますが、同志社の会衆主義教会の仲間の間では、そんなに浮いていないと自分では思うんですよ。
少なくとも同志社の神学部で学んだ人間の中で、特別にリベラルというわけではないです。まあ同志社の中では中道です。
ですから、「復活」というのは死体の蘇生の意味でとらえている牧師のいる教会のほうがむしろ不思議なんですよね。
手前味噌になりますが、同志社、関西学院、西南学院、農村伝道神学校などの出身者なら、毛利さんでもそんなに違和感ないのではないかと思いますよ。
トマスさんの「信仰の神秘」というのは、ぼくはよくわからないです。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - がん子
2012/02/05 (Sun) 20:51:09
割り込みすまんです(2)。
>ですから他の教会で洗礼を受ける為には最低でも「イエスの復活を信じる」ことが条件になっていると私は感じています。「私はイエスの復活は信じられませんし、神の一人子であるとも思えないのですが、神に愛されている/愛されたいと思う気持ちは強いので洗礼を受けさせて下さい」と頼んだとしたら、かなり高い確率で拒絶されると思います(試したことは無いので断言は出来ませんが)。
重複するのかもしれませんが、そんな教会ばかりではないと思います。
自分も毛利さんと全く同じカンジで洗礼を受けています。
逆にいえば、厳密に「復活を心底信じる人しか洗礼を受ける資格がない」という教会ってそんなにあるのかな?土佐をもいます。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/06 (Mon) 18:10:46
>がん子さん
土佐がどうしたって?(笑)

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/02/07 (Tue) 14:55:20
毛利さんとはこの手の議論を何回かやっているので、けっこう遠慮なく書いてしまいますが、ケンカを売っているつもりではないのであしからず。
毛利さんがいつも言われるのは、「あり得ないことは信じられない」なんですね。周りを見渡すと、プロテスタント教会の中で、集会や礼拝には熱心だし、聖書も良く読んで勉強しているし、だけど洗礼には踏み込まない、という人の中にも同じ事を言う人がけっこう居るように思うんです。裏返せば、プロテスタント教会というモノがそういうことを要求しているのかな?と思うところもあるんだけど、ちょっと別の角度から考えてみます。
前に議論した時に気付いて、その時は書きそびれたことがあるんですよ。「あり得ないこと」と「あり得ること」の判別基準は何かな?と思うのです。それはおそらくは、私たちがドップリ漬かって生活している科学技術とか自然科学とかで説明ないし理解できるかどうかだと思います。そのあたりを書いてみますね。
自然科学というのは、神の創造の神秘に近づこうとするモノだと思います。どこまで近づけたかな?と考えた時、20世紀後半の科学なんてまだまだ大したことないような気がするんですね。現代文明が何処かで破綻を来さなかったら、例えば26世紀の人類が「20世紀の連中はこんなことが解明できてなかったんだ」なんて言う事はいくらでもあると思うのですよ。たかだか150年ほど前、蒸気船を見た人たちが吃驚したのに、今や蒸気船なんて前世紀の遺物です。当たり前の技術や知識が当たり前でなくなっていく、神秘だとか実現不可能だとか思っていることが、そうではなくなっていく。
わたしは自分はサイエンティストだと思って居るんですけど、それだけに、自然科学が解き明かせたことの小ささを思うんです。また、科学がこれからも様々なことを解明していく(コレを進歩と言っていいのかどうか分かりませんけど)だろう事を信じています。ならば、現代の科学で説明できないことに対しては、あり得ないと考えるのではなくて、一定の保留をするべきなのではないかと思うのですね。
前のレスで信仰の神秘という言葉を使いました。それはつまり言葉では説明できないということです。我々の理解とか想像力を超えたモノだということです。わたしはこの言葉を、とても前向きな判断停止だと思って居るんですよ。
プロテスタントの悪いところは言葉で説明したり定義したりしようとしすぎた部分だろうと思うのですけど、それだけに説明しきれないところでは人を追い込む傾向があるのかもしれません。だけど、科学では説明できないところ?あってもいいんじゃないの?ぐらいの気の持ちようでいいとわたしは思うんです。それは、あり得ないことを無理矢理に信じなければならないというような肩肘張ったモノではなく、もっと大らかなモノだと思うんですね。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - がん子
2012/02/07 (Tue) 21:35:07
>土佐
すいません(笑)。
書き込んだ記憶が全くありませんでした(爆)。
個人的な印象ですが、クリスチャンホームに育った方は言葉がどうだろうと「復活」を信じている率が高いように思います。
洗礼を受けていないと聖餐に与れないということと、復活を信じていないと洗礼を受ける資格がないって根っこが似ているように思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/08 (Wed) 14:50:14
>がん子さん
ぼくは、クリスチャンホームに育った人が復活や処女降誕を信じている率が高いというのなら、それはたぶんサンタクロースはいるかいないかということと同じレベルの問題ではないかと思います。
>トマスさん
確かに世界には科学の発展がまだまだ解明すべき余地があると思います。
しかし、これまでのところの方向性は、一貫して「神の領域を狭める」方向で来ているということははっきりしていると思うのですね。
昔は、地下には死者の世界、天上には神の世界があると思われていたわけですが、現在はそこには神も死者もいないことがわかっています。
いまのところ、もっとも神秘的で不可解のは脳の内部ですが、そこもやがてシステムとして解明されるにつれ、神の居場所ではなくなるでしょう。
ですから、この先、神が再発見される確率がどれだけ高いのかなという疑念はいつもぼくの心の中にあります。
それから、科学でまだ解明されていないことは「あり得ない」と決めつけることはできませんが、「あり得る」とも決して言えません。
ですから、科学で解明されていないことを理由に復活を信じるというのも、ぼくには不可解なことです。
むしろ、経験的にも実験的にも、死者が3日後に蘇生するということは、現在のところ全く確認されていないのですし、蘇生しない理由の方が圧倒的に多いのですから、「死者は蘇生しない」という前提で私たちも考えるほうが、現在においては合理的であろうと思います。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - がん子
2012/02/08 (Wed) 22:03:13
>富田さま
刷り込まれているということなのかな?
ただ…不思議なのはサンタクロースはある年齢になると「な~~んだ」ってなるのに、復活は変わらないのはなんでだろう?
自分は中々信じられないので(信じることをあきらめてもいますが)、理屈じゃなくて「感じて信じる」コトのできる方々をうらやましいと思っています。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/09 (Thu) 14:04:45
サンタさんの場合、実は親が……とか叔父さんが……とか種明かしができるわけですけど、復活というのは種明かしは誰にもできませんからね。
でも、4つの福音書を比べて読む限り、事実らしいものは、どうやら「お墓が空であった」ということと「若者が『イエスはここにはいない。ガリラヤで彼に会えるだろう』と言った」の2点くらいしかないように感じるんですけどね。
だから、エルサレムではなく、ガリラヤ出身のイエスのシンパが、彼の遺体を運び去ったのではないかとぼくは推測しています。
あくまで推測の域を出ませんが。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/02/10 (Fri) 08:11:43
>トマスさん
またしても返事が遅れました、すみません。仰っていることは割と一般的なクリスチャンの方が考える発想だと思います。科学は万能では無い、科学では割り切れないことが沢山ある、科学が全てを解明した訳では無い、だからイエスの復活(この場合には肉体が物理的に蘇る)も科学的にはあり得なくても聖書の世界、信仰の世界では考えられる、ということですよね。一方、富田先生は「科学的に考えたら、過去の事例を照らし合わせたら、復活はあり得ない」と仰っており、それもその通りだと思います。
だからこそ、どんなに人類が頑張っても実現できないことをイエスは成し遂げたのだから、イエスは神の子であることが立証され、単なる宗教指導者の枠を超えた、或いは預言者を通り越した唯一無二の存在なのだ、だからイエスの言葉には重みがありイエスを信じれば救われる、というのがクリスチャンの一般的な論理展開だと私は考えています。ですからトマスさんが「科学で割りきれない」ことを「想像を超えている」と書いておられますが、実は「復活は普通の人には無理」だと考えておられるからこそ、イエスの復活が余計に重みを増してきているのではないでしょうか。実際、私がトマスさんに「私も2度ばかり物理的に死にましたが、都度生き返ってきました、イエスを超えました。信じて下さいますか?」と書いた時に、それを信じたりはしないですよね。「イエスが復活した」から信じておられるのではないでしょうか?
ですからイエスの復活はイエスが神の子であることの唯一の証だと私は考えています。その事実を示しているのが聖書の筈で、聖書を紐解くこととなる訳です。
ところが聖書を読む限りイエスの復活は明記されていないではないか、というのが私の感想です。まず福音書自体は富田先生が書いておられるように大半はイエスの遺体が無くなっていたとしか読めないこと。パウロはイエスの復活を本気で信じていましたがパウロ自身は処刑前のイエスと面識が無い上に、復活後のイエスと物理的な対面していないのに復活したと断言していることが不可解。イエスが復活をしたのなら、復活後のイエスの行動についてもっと何らかの形で残っていて良い筈なのに福音書の一部に少し書いてあるのみ。そして復活はキリスト教では最大の出来事の筈なのに旧約聖書ではイエス(或いはメシア)の復活を明記していないこと。
これらのことを考えると科学的にイエスが復活したかどうかよりも聖書の世界を見ただけでもイエスの復活は「信じられない/受け入れられない」のです(繰り返しますが科学的にあり得ないからイエスの復活は無いと言っているのではありません)。
聖書をよく読んだらイエスの復活も信じられます、と口にするクリスチャンは多いのですが、よく読まなければ信じられますが、それなりに真正面から読んでいくと復活はますますあり得ないこと、と私には受け取れるのです。
「あり得ないこと」と私が書いた背景が伝わりましたでしょうか。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/02/16 (Thu) 17:42:05
書き逃げ放置すまんです。
>イエスのシンパが、彼の遺体を運び去ったのではないか
そうすると一番アヤシイのはアリマタヤのヨセフだろうか?なんて話しを前にもやりましたねぇ。アヤシイと私も思っています。そのことと復活を信じている事との繋がりは私の中でも整理付いていないんですけどね(笑)
>毛利さん
私の復活理解(と言うか奇跡理解全般)は、あんまり一般的じゃないと思います。そのあたりは適当に割り引いてください。毛利さんが書いてくださった「クリスチャンの一般的論理展開」に私は当て嵌まっていません。そんなにロジカルに難しくは考えていないんですよねぇ。ヤハウェが創造主でイエスが神の子だ、というのがある意味無条件の前提で刷り込まれていますから、イエスが神の子である事の証しが何であるか?なんてどのみち後付けの議論だから考えたこと無いよ、みたいなところがあります。
>よく読まなければ信じられますが
至言だと思います。
一つには、信じるとか理解するという言葉の使い方が私と毛利さんで違う部分があるんだろうな、と思います。
今一つ、皮肉とかでなく大真面目に言っているつもりですが、私は毛利さんほどマジメに聖書を読んでいないと思います。そう感じたのが
>その事実を示しているのが聖書の筈で、聖書を紐解くこととなる
の部分です。なかなかウマク言葉になりませんが、そう書かれると少し堅苦しく聖書を読んでいる気がします。私自身はもっといい加減に読んでいます。だから旧約聖書に「明記」してあるかどうかは私にとってあまり問題ではないのです、きっと。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - tomita@iChurch.me
2012/02/17 (Fri) 10:58:14
>トマスさん
>ヤハウェが創造主でイエスが神の子だ、というのがある意味無条件の前提で刷り込まれています
……というところが、たぶんノンクリスチャンの人との永遠の断絶になるんじゃないでしょうかね?
結局、クリスチャン・ホームに生まれて、子どもの頃からキリスト教的ムードの中に暮した人にしか、キリスト教信仰はわからない、と言ってしまっているような気がしますが……
話がズレるかもしれませんが、昨日、「牧師館」ブログのほうに、「創造主としての神に対する信仰」と「神は愛である」という命題は矛盾するのではないか、というエッセイを書いたので、もしお時間が許すのであれば、お読みいただければありがたいです。
そしてご意見をいただければ嬉しいです。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - トマス
2012/02/18 (Sat) 15:23:09
あ~、そう読めちゃうか。むしろ、クリスチャンホームの人も判ってないんじゃないのか、というつもりなんですけどねぇ。そこがまた溝の深いところ?
前々から思っているんですけど&自戒を込めて書いておりますが、プロテスタント(に限らないけど)の、この、理解できなければならない、説明できなければならない、という強迫観念的なモノは何なんでしょうねぇ。私なんか説明できませんということを縷々説明しているというから相当に重傷だと自分でも思っています…。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 毛利
2012/02/18 (Sat) 18:33:47
トマスさん
復活について真正面から受け止めて頂き、ありがとうございます。
まず、理解できなければならない、説明できなければならない、というのはキリスト教特有の「信じなければならない/信じる」という思想が消えない限り、永遠に取り除けないものではないでしょうか?
日本の葬式仏教(と敢えて書きます)のように、最初から最後まで理解不能な儀式は一般人も受け入れることが出来ます、いや正確には我慢できます。そういう文化/伝統だということで処理します。信じる/信じない以前の問題です。しかしキリスト教の場合には「今も脈々と受け継がれている神からの教え」として「分かりやすい言葉」で噛み砕いて説明をします。だからこそ「理解できる」「理解できない」の二択が生じます。僧侶の念仏は「意味不明だけれど何やら有り難いお経らしい」と受け流して、そこに思考は発生しませんが、牧師/神父の語る言葉はそうではありません。
ところが、聖書の言葉を読み続けていくと明らかに考えられないこと・・・イエスの復活・・・に到達します。そしてトマスさんが上で「サイエンティスト」と書いておられる通り、色々と合理的な説明を足すことでイエスの復活について信憑性を持たせようとする訳ですが、結局は「唯一無二の絶対的な説明」はつかないのです(トマスさんを非難しているのではないです)。富田先生の言葉に要約されてしまっていますが、クリスチャンホームで育った人が持つ特有の感覚が「イエス復活を信じている理由」なのでしょう。或いは「無条件の前提条件」、まさにトマスさんが書いておられることがクリスチャンの実態ではないでしょうか。そこに理論も論理も科学も通用しないのかな、と。
とは言うものの、それ(=イエスの復活)をクリスチャンホームで育っていない人に伝えることは厳しいと思います。結果として「復活を信じないと天国には入れないから」と脅すか(結果として信徒は無理矢理思い込もうとします)、「復活には深く触れない」か(復活についてはタブーになるのでしょう)、そのどちらかになるような気がします。富田先生のように復活は無かったでしょうと、ほぼ断言する牧師さんは珍しいと私は思います。
イエスの復活はキリスト教の大きな救いになっていると同時に、大きな障壁になっている、私にはそう思えてならないです。
富田先生のエッセーについては別途感想を書かせて下さい。

Re: 1月のみんたた「ファラオとイスラエル」 - 入谷
2012/02/18 (Sat) 21:01:46
「科学で説明できない」から奇跡なので、後はこれを信ずるか、信じないかの決断の問題だというのが私の理解です。
信仰なんて、それが、メシアであれ、弥陀の本願であれ、鰯の頭であれ、そんなものだと思っています。
それで救われるかどうかはわかりませんが。
復活はありえないから信じませんなら、キリスト教はいくつかの寓話と道徳の説教の寄せ集めということにはなりませんか ?
それが駄目だといっているわけではありませんので、誤解なきよう。
ところで、「科学」といわれているのは「自然科学」という理解でよろしいんですよね。





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