みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2012年4月のテーマ: 「イエスの復活」

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マルコによる福音書 16章1-8節

2012年4月のみんたたは、復活物語とします。
とりあえず、最初の福音書であるマルコから引用します。新共同訳の日本語テクストです。

*********************************

マルコによる福音書16章1〜8節

1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

*********************************

以上です。
新共同訳聖書ではこの後の記事は「結び1」「結び2」となっていますが、これは後代の加筆であり、元来のマルコ福音書はこの16章8節で完結しているというのが定説になっています。
4つの福音書はそれぞれ異なる復活物語を含んでいますが、マルコにおいては、肉体を持った復活者としてのイエスは登場しませんし、何より面白いのは、「だれにも何も言わなかった」で終わっているわけですから、そうすると、マルコはどうやってこの出来事を知ったのか? という疑問が当然起こってこることですね。
あとはみなさんで叩いていただければ有り難いです。


Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/03 (Tue) 17:23:23
>彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
いろんな可能性が考えられるでしょうけど、男の弟子たちの誰かが後から行く相談ができていたんじゃないでしょうかねぇ。そうでないとこのセリフが浮いてしまうような気がします。女性3人で石を動かすつもりならこんなこと言わないだろうし、かといって、全く当て無しで行くとも思えないし、まさかに行きずりの巡礼者だとか墓を警備している連中に頼むとも考えにくいし(番兵が居ると書くのはマタイですが)。
つまり、「誰が後から来て墓石を動かしてくれるのだろうか?」と話し合っていた、のが元来の会話だった。
と考えると、3人で行ったというのも、場合に依ったら1人ぐらいは伝令役で引き返して他の弟子たちに現場の様子を伝えるつもりだったとか…。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - レギオン
2012/04/03 (Tue) 21:42:45
 僕もトマス様の意見に賛成です。墓穴を塞ぐほどの大きな岩を、女性たちでは動かせないからこそ悩んでいたわけですし。
 気になるのはやはり、「白い長い衣を着た若者」の存在です。この人が弟子の一人であり、しかも天からの使いのようなことを言ってみせたのでは・・・・・・と邪推してしまいますね。キリストがユダヤ教と対立したのは偶然であったにしても、心の支えであった存在が十字架にかけられ更に生き返ったといきなり言われたりしたならば、大抵の人が驚きたまげてしまって信じ込んでしまうと思います。
 持ち込んだ油も遺体を保存しておくためでしょうし、あるいは当時からミイラを作るような風習があったのではないでしょうか?
 エジプトではもちろんのこと、日本にも即身仏として御坊のミイラを奉っていた時期もあります。仮に墓穴の環境が遺体保存に適していたのだとしたら、弟子が遺体を隠してしまったと想像できます。ミイラ化、また屍蝋(しろう)化したキリストの姿など、誰にもみせることなどできませんし・・・・・・。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - まねけん
2012/04/04 (Wed) 01:20:25
いきなり乱入申し訳ありません。
ちょっと話がそれるのかもしれないのですが、「復活」と言うのは
①死んでいたけど蘇った
②天に上り御父の右に座った
③後に弟子たちの前に姿を現した
のどの時点なのでしょうか。
婦人たちは驚いて逃げたのに、その後考えが変わって?復活を喜ぶわけですよね。
そのきっかけはマグダラのマリアがイエス様を見たからなのか..?
この目で見るまで信じないと言ったトマスがイエス様に会ってようやく信じた時に
イエス様に「私を見たから信じたのか」って言われちゃってかわいそうな気もします。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/04 (Wed) 12:35:25
イースターの出来事の情景のディテールを考えるのと、復活について考えるのと、慎重に分けながら考えた方がいいかもしれませんね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - まねけん
2012/04/05 (Thu) 01:15:33
わぁ!トマス様、申し訳ございません。
そうですね、聖書の記述について考えをめぐらせるのがまず先でしたね。
上手く自分の考えがまとめられなくて、ちょっと文章がおかしくなってしまいました。
みんたたは、読むと楽しいですが、書き込むとなると難しいですね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/05 (Thu) 12:01:48
こちらこそ無愛想な書き方になっていてすみません。情景も、復活も、福音書の記述も、私たちの生き様も、どれも大事なことですから、後先ナシでいいと思います。
書き込むのって確かに難しいですね。でも、それを気にしすぎると何も書けなくなりますから、ドンドン書いてくださいませ。
私の方は情景ネタをもう一つ
>朝ごく早く、日が出るとすぐ
岩波訳やバルバロ訳を見ると、むしろ日出前のような感じがします。明け方のウチに歩き始めたのかもしれません。朝早い時刻に行こうとしたのは、刑死人ということでやはり人目を憚ったのかもしれませんね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/07 (Sat) 22:26:43
ぼくは先月の礼拝説教で、受難物語は史実ではなく、受難週の礼拝のためのプログラムの役割をする式文であるという説を紹介しました。
また、今月の説教(4月15日予定)でも、復活物語も史実ではないと考えていることを明らかにする予定です。
では、この復活物語が示すものは何かというと、「ガリラヤに行けば、イエスに再会できる」というメッセージがその核心ではないかと思っています。
イエスにとって、またイエスの弟子たちにとって「ガリラヤ」とはどういう場所であったのか、ということの意味を考えるべきではないかと思うのです。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/07 (Sat) 22:29:35
ちょっとさっきの書き方は不親切だったかも知れません。
要するに、「ガリラヤ」とは見下げられた辺境の地であり、異邦人と交わる事で汚れているとされた地域であり、人びとが日々なんとか生きのびるために汗を流し、病に苦しむ人、貧しさに喘ぐ人、生涯を持つ人、差別される人、そういう人びとと一緒にイエスが日常を生きた場所という意味があり、その日常の苦楽を共にするところに、実はイエスがいるんだよ、というメッセージではないかと思うのです。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/08 (Sun) 02:27:29
>「ガリラヤに行けば、イエスに再会できる」
>「ガリラヤ」とはどういう場所であったのか
「彼女たちや男の弟子達にとってのガリラヤはもちろん彼らの故郷でもありました。しかしそれだけではなく、イエスと共に過ごした3年間、イエスの教えやイエスの行動に神の国を垣間見た場所でもありました。ガリラヤに行けという天使の指示は、そこで再び神の国の実現に向けて今度は彼女たちや彼ら自身が歩み出さねばならないということでもありました。その歩みを始めてこそ、イエスに再び会えるのです。空になった墓の前にたたずんでいてはイエスに会えない、さぁ歩き出せ、イエスに再び会う希望を持ってガリラヤに行け、とマルコは語り掛けてきます。私たちも(私たちの)ガリラヤに向かって歩み出すことでイエスに会えるのです。ガリラヤに向かう一歩を、踏みだそうではありませんか。」(イースター礼拝の原稿より)
ほぼ同じ方向で考えてましたな(史実性云々は横に置くとして)。
ウチもマルコでございます…。
これがルカだとまた違う落とし方になるから面白い。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/08 (Sun) 17:20:36
そうですね。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、すべて落としどころが違う。
そこが面白さであり、史実性という意味では最も疑わしい根拠であるわけです。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - レギオン
2012/04/08 (Sun) 18:27:32
 1> 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
 2> ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当たらなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣をきたふたりの者が、彼らに現れた。
 3> 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話になったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
 4> そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
 5> ところが使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
 というのがルカの書・第二十四章における「キリストの復活」の記述です。確かにマルコの書では恐れおののいて誰にも話さなかったはずのマグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤたちが十二使徒に思い出したことを伝えたのに、信じなかったのは弟子たちの方になっています。そして後に復活した(?)キシストはエマオの村でふたりの弟子に出会い、自分が甦ったことを信じようとしない者たちを嘆きました。
 読み方によっては、この内容を「女が男の上にいる」ような印象を受けるかもしれません。確かユダヤ経典・タルムードの一説であったと思いますが、アダムの最初の妻たるリリスは“その行為”において“騎乗位”で及んだがために追放され誕生した子供を罰として殺されたそうです。
 史実性の有無はとりあえずおいて置いて、当時は女性を男性よりも劣る存在と見ていたとも言われていますし、それを踏まえてマルコの書の記述を読んでみると「女性は愚か」とも読めるような気もします。どちらが正しいのか判断はつきませんが、ルカの書ではキリストがさらに神聖視されているような印象を受けました。加えてユダの裏切りの接吻は描かれていてもその後のことは記されていませんし、逆に強者に対する悪意が見えて僕には受け入れられませんでした。
 ちなみにキリスト自身が残した教えは、
 1.向けられた悪意に対して、心中でも言葉でも刃向かわないこと。
 2.異郷人と同郷人、ユダヤ人と非ユダヤ人の区別をしないこと。
 3.誰に対しても立腹せず、また軽蔑しないこと。
 4.法廷に立たず、誰の弁護も引き受けないこと。
 5.何があっても、仮に妻が浮気をしても離婚しないこと。
 と、自身のライフスタイルを説いています。我々に与えられる幸福は、自分自身で選択し行動した上で決まるものだということなのだと思います。長々と記述した上に、かなり角度の変わった見方で申し訳ありません。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/08 (Sun) 22:04:30
>レギオンさんへ
マルコにおいて「女性は愚か」というのは、どこから読み取る事ができるのでしょうか?
また、ルカにおいて、「強者に対する悪意」というのはどこから読み取れるのでしょうか?
また「ちなみにキリスト自身が残した教え」として5項目上げられていますが、それらの根拠を全てあげることができますか? 
ちょっと疑問に思ったので、教えていただければ有難いです。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - レギオン
2012/04/09 (Mon) 05:13:19
>tomita様へ
 1:女性への偏見について
 僕は最初にマルコの福音書・16を第8節までではなく、最後まで読んでみました。その続き9~11節、
 週の初めの日の朝早くイエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。
 マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。
 彼らはイエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが信じなかった。
 マグダラのマリアは12使徒の筆頭にして、やがてはカトリック教会において最初の司教と見なされたペテロに匹敵する立場にあった女性です。その彼女が親愛なるイエスの復活を見たというのに信じてもらえないというのは、いささか腑に落ちないところがあります。
 当時のユダヤ教社会において、女性が男性の所有物として扱われていたのに対し、イエスはそれを何ら気にすることなく弟子として受け入れ、ときには病を治していました。しかし、男性ばかりの12使徒。さらに人を差別する方のなかには、女性(エバ)が誘惑に負けて禁断の実を食べたことにかけて、アダムとエバの子孫たる我々に科された罰の許しのために“神の子”イエスが死んだのは女性の所為だという考えを持つ人もいると聞きます。
 それを踏まえて伝道者の一人、パウロの存在も大きいと思います。彼は元ユダヤ教信者でしたが、復活したイエスと接したと信じて回心し、その生涯を捧げました。さらにローマ帝国における布教では、もっとも功を上げた伝道者として有名です。
 パウロは平等と差別、二つのことを「ガラテヤ人への手紙:3章第8節」と「コリント人への手紙:1/11章第4節~8節」にて説いています。
 あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼をうけてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているのです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
(『ガラテヤ人への手紙』3章28節より)
 女は誰でも祈ったり、預言したりする際に、頭にものを被らないなら、その頭を侮辱することになります。それは髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物を被るべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは男が女からでてきたのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
 (『コリント人への手紙1』11章4~8節)
 ガラテア人への手紙では女性の身分を、イエスの前では洗礼を通して得た同等のものだとしています。これは当時の社会では、衝撃を受けた人々が数多くいたと思います。
 しかしその次、コリント人への手紙では状況が違います。つまり、平等を認めることに自ら疑問を持ったからではないでしょうか?
 そうなると、最初に記した男女平等説との矛盾が生じることになります。僕はここから、男こそが神に似せて作られた存在であり、女性は劣性であるとパウロが主張していると考えました。「テモテ人への手紙1/2章11~15節」は、パウロの弟子たちが師の手紙の形式でその思想を述べたものとされていますが、そこにも、
 「婦人はまったく従順に学ぶべきです。(中略)しかもアダムは騙されませんでしたが、女は騙されて罪を犯してしまいました。しかし、婦人は信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子供を産むことによって救われます」
 と、女性が男性の上に立って教えたり、皆を先導することを拒絶しています。仮にキリストが女性であったり、パウロ自身もそうであったならば、こんな言葉が記されることは無かったでしょう。
 もちろん、現代までの課程においてキリスト教やパウロの教えだけが原因ではありません。それらはただ根源として数えられるだけであって、身近に差別や偏見があっても見てみぬフリをし続けてきた私たち自身の問題であることを忘れてはならないと思います。
 2:イエスの教えについて
 ルカによる福音書:第6章において、イエスはひたすらに弱者にこそ神の国の住民となる資格があり、富める者に対しては災いであると弟子たちに説いています。僕はこれを、ある種の強迫であると捉えました。何故ならば、人間はおそらくは誰しもが褒められたいと考えたり、人よりもできるようになりたいと願う動物だからです。それと同時に、人間は耐え切れないほどの侮辱に対して、怒りを露わにするという本能があります。それは「心」や「尊厳」が傷つけられたからこそ起こる感情であり、まったく当然の姿のはずなのです。
 しかし、イエスは弟子にこう説きます。
 敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたがたの頬を打つ者にはほかの頬を向けてやり、
 あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである
 あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである
 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対しておなじことをしたのである
 と。つまりこれは強者を悪と位置づけ、屈服した自分たちこそは善人であるとして相手を批判するそれに他ならないのではないでしょうか?キリスト教における「罪」や「許し」とは所詮、信じる者側が「自分たちは罪深き者たちだ」という強迫観念に取りつかれ、疑念を抱き思考することをやめて「悔い改めよ」というありもしないデマに惑わされることになるのです。
 聖書自体の内容は、後に弟子たちや教会の僧侶による脚色でしょうが、そんななかにも「これは納得」と思って抜粋してみたのが先に記した五つの項目です。
 まず、1番と3番。これを端的に示しているのが、
 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。(ルカ書6-27)
 です。先に記したことと矛盾しますが、僕はこれを、十字架にかけられることとなったイエスの姿から想像しました。人間の罪の許しを請うためかはわかりませんが、少なくとも自分を嘲笑し殺そうとしている当時の律法者たちに対して反抗することも、自らの権利を主張することもしていません。次に2番と4番。この理由は、
 自分を愛してくれる人を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。(ルカ書6-32)
 自分をよくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。(ルカ書6-33&34)
 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。(ルカ書6-37)
 です。まだ小学校の低学年までなら、多少の我侭を言ってもそれを先生が戒めてくれるでしょう。でもそれは成長して「自分の意見や主張」に目覚めてくると、逆にクラスという小さな社会の中で生きていくための信用が必要になります。そこまでならば仲良しの友人だけで交流することが出来ても、社会に出ることになれば誰とでも接し、かつ自らを律することが必要不可欠になります。多くのことが出来て当然になりますから褒めてもらえることも少なくなるし、逆に現場をコントロールするために空気を読まなくてはなりません。
 また今日において、日本でも裁判員なるものが導入されて、自分で他人の罪を直接裁く場ができました。事件の内容にもよるのでしょうが、人間は感情を持つが故に義憤の感情に駆られた結果、気が大きくなりすぎてより重罰を科そうとしてしまうことが考えられます。すると当然、普通以上に自身をコントロールできなくてはなりませんが、果たして簡単にできるものなのでしょうか?僕にはできる自信がありません。
 そして最後に、5番です。
 すべて自分の妻を出して他の女をめとるものは、姦淫をおこなうものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである(ルカ書16-18)
 これは当時の時代背景を考慮しなくてはなりません。先にも記したように、社会においての女性の地位はかなり低いもので、仮に結婚しても、とるに足らないような理由で簡単に離縁状を突きつけられて家を追い出され、止むを得ずに堕ちるしかなかったのです。イエスはそうした人々の権利を守るために、離婚をすることは許されないと声をあげたのです。
 当たり前のことですが、不倫は相手を深く傷つけることだし、決して許されることではありません。
 以上、五つの項目を考え出したときに何となく見えてきたものは、多くの社会的なしがらみに対する戒めであり、別のイエスの姿でした。
 マタイ、ルカ、マルコなど聖書は様々に存在しますが、所々に出てくるパリサイ人の徴税人、あるいはユダヤ教の律法者に対する言動は現在の社会においてならば、国の政治によっては思想政治犯として逮捕されてもおかしくないことだと思いました。
 それ故に信じすぎること、つまり一つの思想にだけ傾倒し妄信することは危険なことです。先日、出張先のアメリカから帰国したのですが、たまたまケンタッキー州にある“創造博物館”なる場所へ行く機会がありました。何となく想像はしていたのですが、何ともキリスト教思想の強い内容となっており、およそ六千年前に創造されたという「若い地球」では人間と恐竜が共存していて、人間が堕落して罪を犯すまで獣は皆、菜食主義であり平和だったというところから始まって、最終的にはダーウィンの進化論やその他の科学的な思想の齎す害悪について強調されていました。確かに根拠も無い昔であればこれでも通ったのでしょうが、科学と宗教の両面で有益な部分があると知る人々が少なくない現代においては許される存在ではないように感じました。
 最後に話がそれてしまいましたが、以上で僕の主張を終了いたします。正直なところ、キリストに神の国の到来を告げる力や復活ができたと信じているわけではありません。街を歩いていると、東日本大震災に便乗してか、「悔い改めよ」とプラカードを掲げて歩いている人を見かけて腹が立つこともあります。
 そんな僕の文章ですので、かなり不快な思いをされた方もいると思います。
 長々とした文章を記したことも含めて、この場をお借りしてお詫びを申し上げます。これからもどうかよろしくお願いいたします。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/09 (Mon) 09:07:03
>マグダラのマリア
持ち上げるのはグノーシスでしたねぇ。グノーシスをどう位置づけるかというのも難しいところですが。
グノーシスを「異端」視した「正統派」の教会では「ペトロに匹敵する」ようなポジションはマグダラのマリアには付与されなかったですね。一方で(あくまで可能性として)生前のイエス周辺では彼女がイエスの恋人か何かであって、ペトロたちと角突き合わせていたんじゃないか、なんて話しもありますし…。
福音書ではいずれも墓に最初に行ったのは女性たちでしたが、パウロは第1コリントの15章では女性たちが墓に行ったとも会ったとも書いてないですねぇ。これもどう理解するか、難しいところなんでしょうけど。
>「創造博物館」
そういう聖書の読み方、そういうキリスト教の信じ方をする人も居る、ということですよね。アメリカ南部のバイブルベルトと言われる地域が有名ですけど、ケンタッキーってバイブルベルトの中に入ってましたっけ?
一言で言えば進化論を否定する信じ方ということですが、レギオンさんもお気付きのように、30番地教会の常連メンバーはそういう聖書の読み方はしていないです。聖書は今から2千年とか3千年前の人々の宇宙観で書かれたモノであり、しかしそこから時代を超えて我々に語り掛けてくるモノを読もうとしています。時代や洋の東西を越えた普遍性を読み取れるその深みに聖書の凄さを感じている、と言えましょうか。
ついでながら
>2.異郷人と同郷人、ユダヤ人と非ユダヤ人の区別をしないこと。
これはイエスというよりもパウロの発想ですよねぇ。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/14 (Sat) 20:00:21
書き込みが止まってますね。
まねけんさんの最初の質問がそのままになっております。そのウチ誰か答えてくれるだろう、とか思って私も放ったらかしていたんですが(ぉぃ)
コピペしますと、
>「復活」と言うのは
 ①死んでいたけど蘇った
 ②天に上り御父の右に座った
 ③後に弟子たちの前に姿を現した
のどの時点なのでしょうか。
私なりに書いてみますと…、
勝手な憶測ですが、富田先生の考えは③に近いのでは?パウロの第1コリント15章を素直に読むと③の読みが説得力を持ちますよね。それに復活しても弟子たちの前に現れなかったら意味ないような…(言い過ぎ?)。
②は、それこそ何を以て「天に上り」とするか、ですが、実は復活までの3日間は「陰府に降り」(使徒信条)とされています。つまり天に居たのではないのですね。ですから古代以来の聖画でもそうなっています。むしろイエスが天に昇るのは復活から40日後、昇天木曜日の出来事となる。のだと思います。ということで、②と考えている人は少ないんじゃないでしょうか。
そこで①ですが、多くの教会は①と答えるでしょう。新約聖書の何処に書いてあるか?と思われるかもしれません。難しい説明は省略しますが、これも使徒信条(「死人のうちからよみがえり」)がその根拠だと考えていいです。もちろん、①を具体的にどうイメージするか、というのは人に依ってそれぞれだと思います。そこを追求し始めると、とてもややこしいことになるハズです。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/16 (Mon) 08:46:58
富田です。
ちょっと今時間がないので、ていねいに書くことはできませんが、ぼくの考えは①でも②でも③でもありません。
①②③すべて、イエスの死後間もなくできあがった信仰告白的な語りであり、事実として何が起きたのかは、詳細は不明ですが多少は推測できる、というものです。
昨日の礼拝説教でそのことについてお話しました。
近日中にUPしますので、もしご興味とお時間があればお読み/お聞きいただければ、と思います。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/16 (Mon) 19:29:04
勝手な憶測書いてすみません。③そのままとは思いませんでしたが、「姿を現した」という言葉のニュアンスを広めに考えればけっこう近いかな、と思いましたのです。
>事実として何が起きたのかは、詳細は不明
全く同感。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/18 (Wed) 08:28:42
なるほど……
まあ「姿を現した」というのは、かなーり広い意味ではそうですけど、そういう意味ではぼくにとっては新島襄も、弟子たちにとってのイエスほどではないとは思いますが、ぼくのそばにけっこうリアルに姿を現しますよ。
ぼくは③に「後に」と書いてあって、あらかじめ順番が決まっているのが当たり前のようにしてあったのが、気にかかってしまったんですよね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/18 (Wed) 19:05:23
なるほどなるほど
>後に
そう言われればそう読めますねぇ。それは確かに微妙かも。
私自身はこういう分け方をするなら①だよね(謎笑)

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - ノンクリ
2012/04/22 (Sun) 21:05:49
>「だれにも何も言わなかった」で終わっているわけですから、そうすると、マルコはどうやってこの出来事を知ったのか?
 「誰にもいうなよ」とか「ここだけの話だぞ」といいつつ、噂が次から次へと、尾ひれがついて広まっていく・・というのは「よくある」話では??(笑)
 それにしても、なんだか推理小説みたいな話ですよね。謎の遺体消失事件。常識的に「白い長い衣を着た若者」が怪しい、怪しすぎる、、こいつが遺体をどっかに持ってったんだろ・・といった俗で下司なことしか考えられません。
 皆さんのようにメッセージを引き出したり、背景を考えたりする、推理力・想像力が全然ないです。
 なんだか、コンプレックスを感じます・・。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/23 (Mon) 07:55:35
ぼくは、受難物語そのものが初期の教会による創作だと思っていますから、もっと想像力が無い手合いかもしれません。
「誰にも言うなよ」「ここだけの話だぞ」と言われつつ広まるというのは、確かによくある話ですが、マルコがそういう事を暗示しようとして書いたのかなあということは疑問に思います。
マルコはわざと「誰にも何も言われていない」という結末を用意することで、自分の書いた物語が事実ではないということを、あえて示しているのではないかと思うのですね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/04/23 (Mon) 13:45:27
>「だれにも何も言わなかった」で終わっているわけですから、そうすると、マルコはどうやってこの出来事を知ったのか?
まるっきりマルコの作文だと言ってしまうなら別ですけど、
彼女たちが死ぬまで黙っていた、と書かれているのではないのですから、とりあえず墓から戻ってきた時に吹聴して回るようなことをしないでおびえて黙っていた(弟子たちに知らせろと命じられていたのに)、ということを書いているだけなんじゃないですかねぇ。
日曜の朝イチかどうかを別にすると、墓に行こうと思ったのは彼女たちだけじゃないでしょうし、そしたら「墓石動いてたぞ」「墓ん中は空っぽだったぜ」「香油の瓶が残ってたし」「最初に行ったのは誰だ」てな事になって問い詰められて口を割った。
という状況を描写するのに「そして、だれにも何も言わなかった。」と書くのは無理がないように思うんですがねぇ。
ま、墓参りという習慣を前提にした想像・発想ではありますが。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/23 (Mon) 18:24:00
トマスさんの意見とは異なることになってしまいますが……といっても、同じウェブ教会をやってる仲間同士が、異なる意見を持っていてもよい、というのがこのウェブ教会のスタンスなので、別に何も問題無いんですが……やっぱり、ぼくはこの受難と復活の物語は、全てマルコの……というより原始キリスト教会によって作られた礼拝の中の物語だと思っているので、女性たちがどうしたこうしたという推測はあまり意味をなさないのではないかと思っています。
十字架によって処刑された犯罪者が、ちゃんと墓穴に埋葬されるということ自体がありえない想定なんですよね。
イエスの遺体は、捨てられて野犬の餌になった、というのが一番自然な推測でしょう。
むしろ、「墓穴を塞ぐ扉の石が転がされて取り除かれた」ということの象徴的な意味が重要でしょう。
つまり、死者の世界と生者の世界の壁が取り除かれた、死者との交流が可能になったということでしょう。
イエスの死の瞬間、神殿の至聖所と聖所を隔てる幕が引き裂かれた(そのことによって、神の世界と人間の世界の壁が取り除かれた)のと同じように、ここにも象徴的な意味を読み取ったほうが良さそうだと、ぼくは思います。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - ノンクリ
2012/04/23 (Mon) 20:08:02
 聖書の文脈の解釈、分析の趣旨からは外れるかもしれませんが(こんなのばっかですね、すみません・・)、皆さん、「復活」をどうお考えでしょう?今さら・・としか言いようのない話ですが。
 クリスチャンが信じているイエスというのは、なんというか、神様へのアクセス、コミュニティの出現、協力を許すプラットフォームみたいな存在、なのかな?と。
 崇めているのはプラットフォームとか信仰の集合体、象徴としてのイエスであって現実の人間を崇め奉っているわけではない、というのが「人であり神であり」という話なのかも、と思ったりします。
 で、問題の「復活」とか「永遠の命」も死人が蘇る、ではなく、リアル人間としてのイエスは死んで終わってしまっても、なんていうか、プラットフォームとしてのイエスは永遠に存在する、生き続けるみたいな話だったのかも。
 福音書にイエスの人生の説明が極度に少なかったり、パオロが、いくら会ったことがないとはいえ、現実のイエスの人生に全然関心を示さないのも、これで説明がつく・・かな?
 以前、ダ・ビンチの「最後の晩餐」などが全然、リアルでない、時代考証がなされてない(テーブルで食事してる、など)とか、金髪・碧眼のイエスなんて絶対ヘン、なんてツッコミを入れましたが、ナンセンスだったかも?
 だって、みな、リアル・イエスについて追究したり、描いたりしようとしているわけではないのですから・・。
 ただ、何しろ古代世界の話ですから、そういった概念を説明するボキャブラリーが非常に貧困であったために、うまく表現ができず、いろいろな「誤解」を招くことになった・・と思えるのですがどうなんでしょうね。
 前述した神様へのアクセス、コミュニティの出現、協力を可能とする・・、などの「機能」をなくしたとき、それこそが本当のイエスの「死」なんでしょうね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - tomita@iChurch.me
2012/04/24 (Tue) 08:28:18
まあそういう言い方もできるんじゃないかなあと思います。ノンクリさんの言っているプラットフォームという言葉をぼくがどこまで理解できているか、ちょっと自信が無いですが、たぶんぼくの感覚に近いんじゃないかと思います。
ただ、多くの信者は、「リアル・イエス」と「プラットフォーム・イエス」の区別を意識的にしていないんじゃないかとは思いますけどね。ていうか、はっきり言って混同していますよね。

Re: 4月のみんたた「復活物語」 - トマス
2012/05/01 (Tue) 22:07:08
>原始キリスト教会によって作られた礼拝の中の物語
マルコ福音書の物語の形に整えられたのは初代教会の礼拝式文として伝承されたからでしょうねぇ。私もそこは同感。
復活物語に限らないんだけど、私と富田先生の読み方の違いって、信仰的立ち位置の違いもあるかもしれないけど、聖書に限らずそもそも古典や神話を読む時の読み方に違いがあるのかも。つまり福音書の記事のバックヤードな伝承(直接的には文字で福音書記者に伝えられただろうけど元来は口承伝承)に歴史的な核をどれぐらい想定するか、の違いがあるんでしょうねぇ。
ます。





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