みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2012年8月のテーマ: 「施しをするときには」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
日本聖書協会の認可を受けています。

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マタイによる福音書 6章1-4節

みなさま、2012年8月のみんたたリクエストがございませんでしたので、一応機械的に、前例に倣って「山上の説教]シリーズを継続してみたいと思います。
マタイによる福音書6章1−4節「施しをするときには」です。
以下に新共同訳聖書の日本語テクストを貼付けておきます。

***********************

マタイによる福音書6章1−4節

1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

***********************

以上です。どうぞお気楽に叩いていってください。ご自由なご意見をどうぞ。

言い出しっぺ - tomita@iChurch.me
2012/08/07 (Tue) 01:19:36
まあ、自作自演のようですが、私はこの聖書の箇所には、一時期非常に悩んでいた頃がありまして……
学校でボランティア活動のコーディネーターなどをやっていると、やっぱり活動報告などをちゃんとやらないと無責任になるし、かといって過剰にアピールすると自画自賛のようになって、それこぞ「偽善者」扱いされかねない。
ボランティア活動に理解が無かった最初のころは、学校の中でもかなり苦労したものです。
今でも、ボランティア活動の報告をウェブにアップするたびに、「これは偽善ではないのか?」といつも自問自答しています。
絶対に人に知られないように、施しを行うというのが美しいのだという事が、共通理解として社会の中で共有できれば、それに越した事はないんだと思います。
秘すれば花、ですかね。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - 入谷
2012/08/10 (Fri) 21:59:16
富田さん。
「しない善よりする偽善」ですよ。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/08/11 (Sat) 20:52:07
>秘すれば花
隠れたことで露わにならないことはない、と言ったのはイエスでしたっけ?パウロでしたっけ?隠した悪事が露呈するというニュアンスで使われることが多い言葉ですけど、隠れた善行もいつか評価されるという意味にとってもいいのかもしれないな、なんて思います。
一方で、偽善かどうかってのは結局は他人から見て判断できることではないんだし(それを判断してしまうのもまた人間の哀しいサガではありますが)、そうすると活動報告をどこまでするか、ってのは確かに難しいですねぇ。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - 毛利
2012/08/12 (Sun) 09:13:18
「見てもらおうとして」、「人からほめられようと」がキーワードではないでしょうか?人前での善行を否定している訳では無いと思います。周囲からの評判を意識して善行をする(かのように振る舞い、なのでしょうが)か、それとも他人に対する哀れみとか優しさで善行をするか、その違いだと私は思います。富田先生の活動報告は事実を伝えているだけで、そこに自慢等は感じられませんから、全く違和感はありません。
かつて私が経験したことですが・・・社内の保健婦が隣に立っていた聾唖(ろうあ)の方を指さして「この方は耳が聞こえないことで周囲から馬鹿にされていたんですよ、でも私は優しく接しました」と言ったことがありました。この発言を耳にした時に私はある種の怒りを感じました。その聾唖の方を馬鹿にして自分の寛容性をアピールする為に利用しているのは、その保健婦だろうに、と。そしてそれを「全く無関係な私」に報告する、「偽善者」とはまさにこういう人達のために用意されている言葉なのでは、と思います。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - 入谷
2012/08/12 (Sun) 12:32:48
人からほめられようと施しをするのも、神様に報いてもらおうと施しをするのも、動機の低劣さに違いは無いような気もします。
「低劣」というのは言葉の綾で、私は動機がなんであれ、施しをするだけえらいぢゃないかと思っています。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/13 (Mon) 13:05:56
入谷さんへ
「しない善よりする偽善」「やらぬ善よりやる偽善」という言葉はぼくも知っていますし、その通りだと思うのですが、「やっている」と言えるほどの事もしていないので、そこまで強気になることもできないわけです。
ちょろちょろと影響力の弱い小さな活動を、声高に報告して自己満足に陥っていないだろうか、という自己検証はいつ必要だと思っています。
毛利さんへ
はい、そうなんです。なるべく淡々と事実を伝えることで、何か啓発の役割が少しでもできたらな、と思うんです。
そういう働きが無かったら、一生例えば釜ヶ崎という地区があることを知らなかったり、ハンセン病差別の現実を知らなかったり、知っていても偏見だらけだったりするかも知れない。けれども、そうじゃないよ、という事をたった1人の人にでも知ってもらえたらいいな、と思うわけです。
せっかく、報道関係者のように、売り上げに貢献するかどうかを気にしなくてもよい立場なのですから、あまり報道されていない事を、見聞きしたまま伝えたいという思いはあります。
あと、ボランティアに参加した生徒さんたちや卒業生たちが、いい思い出になるように、という事も思っています。
トマスさんへ
なるほどね……善行も隠しておけるものじゃないんだよ、ということですか……
先週の火曜日でしたか、京都教区の宣教セミナーで、インターネット教会の宣教について活動報告をする機会がありましたが、参加されたみなさんは皆、相当驚いておられましたね。
性的マイノリティ、心の病や障がいのある人、離婚経験者、不倫経験者などなど、いかに多くの人が教会から拒絶されていて、それでも神への思いをあきらめ切れなくて、悶々としており、偶然見つけたウェブ教会に相談メールを送ってこられる。しかもその相談件数がどんどん増えてきている。そのことに皆さん驚いておられました。
皆さんと言っても、10人にも満たない参加者でした。「インターネットの宣教なんて……」と本気で受け取られていないことがよくわかります。しかし、参加された方々は、今の日本のキリスト教会がいかにたくさんの悩める羊たちを排除し、切り捨て、落胆させ、失望させているかと知って、「この事をもっと知らせなければ」と言っておられました。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - 南三条
2012/08/13 (Mon) 16:36:40
 はじめまして。いつも拝見させて頂いています。
 「山上の説教」のイエスの説教というのは、「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」のように相当オーバーな表現になっていることは確かなので、その字句通りに実践しようとしたら社会が成り立たなくなってしまいます。この施しの件についても、文字通りに「すべからず」と考えなくてもいいのではないでしょうか。
 私は障害者福祉施設での勤務経験もありますが、「タイガーマスク運動」のように、名も名乗らずに、何の連絡もなく突然大金などが送られてきても、送られた方もその後の手続きなどが大変だろうと想像してしまいます(あれはあれで一つの美学なのでしょうが)。
 この聖句は、人間の名誉欲の危険性に対する、イエス流の表現と理解すればいいのではないでしょうか。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - ノンクリ
2012/08/13 (Mon) 20:25:12
 うーん、この聖句そのものについては大して異論、ツッコミはないのですが、現実のキリスト教国ってこんなに奥ゆかしい人たちだったっけ?という疑問が・・。
 むしろ、非キリスト教国以上にアピール上手で自己主張の強い国々、人々の集まりのような気がするんですが、偏見でしょうか?

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/14 (Tue) 14:14:51
南三条さんへ
そうですね、文字通りに解釈しなければならないことはないと思います。そういう意味では、「隣人の妻を情欲を抱いて見る者は……」と同じで、文字通り、字義通りに受け取っても、かえっておかしな事になるというのはありますね。
ノンクリさんへ
そりゃあ、「殺してはならない」という聖書に手を置いた大統領が世界で一番強力な軍隊を持っているんですから、かのキリスト教の世界にも、建前と本音がありますよね。
ですから、聖書に書いてある事は正しい!と主張する人に限って、それを実行できる人はいないということになるんだろうと思います。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - がん子
2012/08/15 (Wed) 20:31:00
偽善という時の「善」って、どういうコトを言うのかなあ?と考えちゃいました。
誰から見ても「善」と見えるコト?
それとも一人ひとりの価値観で「善」と思うコト??
なんて・・・
自分は「ボランティア」をしていますが、「こいつ、偽善者じゃないか」と思われたとしても、「こんな理不尽なことが今ここにあるんだ」というコトを知ってもらうことの方を大切にしたいです。
なのであっちこっちで「こんなことしてるんだよ~~アタシ、結構すごいでしょ?一緒に来てみない??」と言いふらします(笑)。
もちろん、「こんなに頑張ってるんだから」(鼻高々)みたいな気持がないかと言えば、アリアリです(爆)。
だってほんとに頑張ってるんだもん。「認めてもらいたい気持ち」があるのも確かです。
考え方は様々だと思いますが、本当に小さく追いやられてしまっている・・・特に目に見えないようにされている方やコトは、誰かが「ねえねえ、聞いて!」と声を出さなくてはその存在自体がなかったコトにされちゃうんじゃないか?という怖さを感じています。
自分のしていることが善なのかなんて全然わかりません。
ただ・・・何かを拠り所として「善なんじゃないかな?」とい思いこまないと厳しいかな?
・・・飲んだ勢いで書き込みました。支離滅裂だったらごめんなさい。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - 毛利
2012/08/16 (Thu) 05:56:23
かつて私は、ある子供を助けるために募金活動をしたことがありました、ま、ボランティア活動と言えばそれに相当するでしょう。殆ど毎週土日は参加していました。
ただ、それを他人に口にする機会は殆ど無かったです。理由はイエスのこの言葉があったことと、そもそも自慢することじゃないしな、という気持ちがあったからです。どのみち募金活動は支援する人数が限りなく多く揃わない限り集まる金額に大差は無いですし、自分に出来ることをするだけで良い、そう思っていました。
結果的にその子の命は助かりまして、それが神からのご褒美だったのかなと思っています。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - ノンクリ
2012/08/16 (Thu) 11:57:18
 この「施し」と現実のキリスト教国家のそれについて。
韓国紙・中央日報の昨日8月10日付の記事のネタなんですが・。
「米国に渡った韓国人養子、市民権与えられないケースも」
http://japanese.joins.com/article/282/157282.html?servcode=400§code=430
http://japanese.joins.com/article/283/157283.html?servcode=400§code=430
 韓国は昔から現在に至るまで、世界有数の養子輸出国で、(行き先は主に欧米)当然、養子の「その後」も関心を持たざるえないわけで、こうした記事が出てくるわけですね。
 ここで話題にしたいのは韓国ではなく、キリスト教文化圏であり、養子受け入れ側の欧米の、実際に「施し」を与える側の事情です。
 欧米では海外の孤児、捨て子を養子として受け入れる人が多いように思います。
 特にアメリカはキリスト教精神なのか、どうかはわかりませんが海外の孤児を積極的に養子として受け入れていますし、ハリウッドスターなんかもファッションなんじゃないの?と勘繰りたくなるくらい、ポンポンと海外から養子をとりますよね。
 確かマドンナなんかはアフリカのどこかから養子を貰おうとして、そこの政府に拒否されたことがあったような。
 それを、さすがキリスト教の精神が根付いた国は違う、と称賛する向きもあるみたいですが、何かこう、話が出来過ぎという、か、すっきりしないものがものが・・。
 もちろん、そのこと自体は素晴らしいこと、立派なことだと思うし、あれこれいう筋合いでもないですすが、気になるのはその動機。
 我ながら下品かも、と思ったりしますが、本当にキリスト教精神とか純粋な善意だけなのか?ってことです。
 長年、子供がどうしてもできない夫婦とかならまだしも、例えばマドンナみたいに、もう養子、または子供がいる人でも結構受け入れているのはなぜ?
 たとえ、お金持ちのセレブでも、子供を一人育てるのは大変なことだと思うのに、非常に気楽に引き受けているような気がするのですが、そんなに気前のいい、博愛な人たちばかりなのか?
 たぶん慈善活動が良き市民の証拠というような心理的強制が少なからずあるのではないか、と個人的に勘繰ってますが、これって下品な勘繰りでしょうか?
 そこに本当に問題はないのか?と以前から疑問に思っていましたが、この冒頭にあげた中央日報の記事を読むと、やはり、何もないわけないよな・・でした。
 記事によれば、「養父母は私を養子にし、社会保障カードの発給を受け、税金の優遇措置を受けることばかり考えていた・・・」寄付金が課税対象から控除されるように養子にも、どうもその種のメリットがあるようですね。
 そういう動機で引き取った「養父母」なら、「ところが一部の養父母は費用と時間がかかるという理由で市民権取得手続きをしていない」・・・そりゃ、そんな面倒なことはするわけが・・・。
 不必要に長くなるので、控えますが、他にもいろいろ問題があるようで。
 もちろん、こんな記事に出てくる例はごく一部、大半の養父母は善意の人々で、養子たちも幸せに育っている、と思いたいですが・・。
 話をなんとか本筋に戻すと、この「施しをするときには」という聖句は、善行がお金持ちのステータスになってしまったり、善行の為の善行みたいな、本来の目的から外れてしまいそうな事態に対する戒め、警告、との意もあるように思えますが、どうでしょう?

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - masaki tomita
2012/08/16 (Thu) 15:55:25
なるほどね……
下手にキリスト教が根付いてしまっているために、逆に慈善行為が義務的になっているのかもしれませんね。
ところが全ての人が善意で動くということはあり得ないし、むしろ自発的な善意で動いている人など少ないのかもしれない。でも、「そうであるべきだ」ということから補助金などが支給されるようになっているのかもしれませんね。
高校生の留学などでも、よく問題が起こっています。
お金を目的にホームステイを引き受ける家庭が多いので、引き受けたくせにろくに食事の用意もしないで放置されて、子どもが被害を受ける場合があります。
まあお金持ちのセレブの場合は、自分が世話をするのではなく、家政婦などたくさん雇えるんでしょうけどね。逆に富を見せつけてるというか……
そういう意味では、善行というのは、人に見せるものではないのだよ、という意味で、イエスの話を受け取るのが適切かもしれませんね。

ちょっと視点を変えて… - トマス
2012/08/17 (Fri) 19:10:40
>施しをする時には…
聖書にはそう書いてあるから、そこから考え始めればいいんだけど、ちょっと視点を変えてみると、思考に深みが出る…かな?
たとえばですね、
・施しを受ける時には…
とか
・施しを求められた時には…
 バリエーションでこういうのもあるよね。
 ・施しをするのが当然と思われている時には…
 ・施しを強請された時には…
  (先に釘挿しとくけど献金の強要にあらず)
とか
施しをする時には、をデフォルトにするとどうしても偽善について考えるのがメインになりがちですけど、ちょっとずらしてみると面白いんじゃないですかね。ま、複眼の視点ということで。

ボランティア - 南三条
2012/08/18 (Sat) 15:04:36
 学生の時ボランティア活動を少しだけしましたが、気を付けないと、ボランティアをしない人を裁くような態度をとってしまうことがあります。
 そのことで誰かに誉められたりすると、自分が偉くなったような錯覚を起こしたりするものです。
 仮に人に見られないようにボランティアをしたとしても、自分の心の中でそういう勘違いをしてしまうことはありますから、そういう心の傾向への戒めと考えればいいのではないでしょうか。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - ノンクリ
2012/08/18 (Sat) 19:32:30
 「施し」とは少々方向性が違う話なんですが・・・。
 今回のオリンピックで我が日本のメダル数は38個で史上最高。この快挙にも関わらずメダルを取った日本選手は異口同音に「支えてくれた監督、コーチみんなのおかげです」とか「国民の応援があってこそっていいますね。「これは俺の努力と才能で勝ち取ったんだよ」とか「アホなコーチのゴタクなんぞ無視したってメダルは取れるわい」と言ってのける奴は誰もいません。
 単に空気を読んでる、建前であるといえばそれまでですが、
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」

 という道徳律が歴然と強く存在するわけですよね。
 その点、100M走、200M走を連覇したウサイン・ボルト選手なんか、素直というか正直というか、遠慮がまるでないというか、「俺ってグレイト」「俺ってレジェンド」って言いきっちゃってますよね。 
 ちなみに彼の母国のジャマイカはプロテスタント6割強、カトリックが1割弱、計7割近くの国民の宗教がキリスト教というレッキとしたキリスト教文化圏ですが、どうなってるんでしょう?
 その他、我が日本の外交や企業活動をみても、キリスト教圏であるはずの欧米、特に米国の強い「自己主張」に押されまくっているのは周知のところ・・。
 イエス様、一体どうなってるんすか?と言いたくなるのは私だけでしょうか?

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/20 (Mon) 13:44:44
>南三条
先日、仙台を中心に被災地に行ってきましたが、やっぱり現地に来ているボランティアの人間の、かなり多くの割合の者が、自己満足というか自己実現というか、それを押しつけて迷惑をかけているというケースがあるようですね。
また、あちらで会った友人の1人には、救援事業を専従で主催している担当者が、それが本業でない牧師を「怠慢だ」「気合いが足りない」などとなじるのに閉口しているという話を聞きました。
ある程度、いろんなボランティアに関わってみて思うのですが、ボランティアというのは、結局は相互作用というか、援助する/される、ということになってはいるけれども、援助している方が、何か学んだり、物心両面で得るものがあったり、というのがいい関係なんじゃないかと思いますね。
まあイエスの言葉とは話が外れたかもしれませんが、イエスとしても「勘違いすんなよ!」という直観的な感性でズバッと言ったのではないかなと思います。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/20 (Mon) 13:52:30
>ノンクリさんへ
キリスト教うんぬんで全てが決まるわけではないと思うんですよ。
他にも民族的(宗教が含まれてる場合多し)、人種的、地域的、社会的、経済的などなど、各要素が混じり合っているわけで。
ウサイン・ボルトみたいな選手だと、黒人の置かれた状況とか、彼のアイデンティティの問題も大きい感じがします。
彼を特集したNHK特集を観たことがあるんですが、彼が「We can change!」と自分の着ている服のロゴを見せて、「初の黒人大統領の言葉なんだ」と言ってました。NHKは意図的に「オバマ大統領はヒーロさ」みたいなわけのわからんテロップで訳してましたけど。
東アフリカ勢の長距離ランナーたちも、メダルを取る事が貧困から抜け出す有力な手段であり、メダルを取る選手になれば家族親戚を養うことができるんですよね。
そういうのと日本の選手とは大きく違いますが、宗教の違いで全てを理由付けできないと思います。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - ノンクリ
2012/08/20 (Mon) 21:02:34
>キリスト教うんぬんで全てが決まるわけではないと思うんですよ。
他にも民族的(宗教が含まれてる場合多し)、人種的、地域的、社会的、経済的などなど、各要素が混じり合っているわけで
 実は私もそう思ってます。つまり、宗教とか信仰が人間の行動や性質に与える影響力って大きいようにみえて実は小さい、大したことがないのではないか?という、皮肉というか疑問を表明した次第で・・。
 でも、これ、別にキリスト教を批判しているわけじゃありません。むしろ、キリスト教の弁護につながるところでもあります。
 例えば、巷には、特に日本にはキリスト教のような一神教は唯一神しか認めないから偏狭なんだ、とか不寛容なんだ、みたいな批判に対しては、それは、キリスト教の教えとは直接関係ありません、あくまで個人単位、国家単位の問題です、といえるわけですし・・。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/20 (Mon) 22:59:58
ああ、そういう意味ですか。
すいません、どうもユーモアのセンスがないもので……

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - ノンクリ
2012/08/21 (Tue) 20:34:10
 あ、いや、こちらこそ、なんだか文章が稚拙で。また、もし気分を害されましたら、申し訳ないです。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/08/25 (Sat) 14:33:33
視点を変えて読んでみるというのは取っ付き難かったですかね。
偽善とは何か?の前に、そもそも施しとは何か?を考えることができるかな、とか思ったんだけど。
いつものように荒井献の翻訳と解説からの孫引きですが、トマス福音書の語録6と語録14でも断食や食物規定と並んで施しが批判されています。マタイとの違いは、マタイが偽善にならないようにという批判であるのに対して、こちらではまるきり否定されています。
パウロの後継者たちも善行による救いを否定していくわけですが、否定するという点で似ていても背景とする思想がまるで違うところがまた面白いかもしれませんね。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/27 (Mon) 00:50:03
パウロ派が行いによる救い、または義認を否定するわけですけど、トマス福音書で善行そのものが否定されるというのは、どういうメンタリティなんでしょうかね?
そのあたりまで教えていただけると、助かります、トマスさん。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/08/27 (Mon) 17:45:30
パウロとパウロ派、パウロ(派)とルカ、ルカとマタイ、それぞれに違うのが興味深いところですよね。
>トマス福音書
つまりは異端とされつつも根強い支持者のあったグノーシスの考え方ということになるわけで、私もどこまで消化できているか不安を覚えながらですが…。
・ひとつにはグノーシス派の秘教的性格があるのでしょう。悟りを得た自分たちこそ(自分たちだけ)が救われるのですから、派外の悟りをもたない連中に関わることに意味を見いだせない、そんな連中には施しをするだけの価値はない、ということでしょう。
・もうひとつ思うのは、肉と霊を分けて考えた(霊肉二元論)上で極端に霊を重視していますから、その意味でも肉を養うためになる施しには関心がないのかもしれません。
・荒井献は「初期カトリシズムの「よき業」に対する批判をも含むのであろうか。」と書いていますから、そういう面もあったんでしょうねぇ。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/28 (Tue) 13:04:42

なるほどねー。
ぼくは、そういう意味ではグノーシスにはあまり共感できないだろうなあ。
「肉」重視ですので(笑)。
お腹が満たされること、病気が治ること。
この2つには固執します。この2つに教会が奉仕したからこそ、キリスト教が古代ローマに広がったのではないか(それだけでもないにしろ)と思いたいです。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/08/28 (Tue) 19:56:22
>この2つに教会が奉仕したからこそ
そうですよねぇ。皇帝や地位のある人がパンと娯楽を提供したのはあくまで市民階級が対象でして、当時の教会がローマ市民以外に「肉」の救いを提供したことはホントに大事なことだったと思います。信者の獲得の為、なんてことではなく、教会のやった事が時代の要請にフィットしたから広まったと思うのです。
ところがその一方で、彼岸指向がとても強いグノーシスが、最大の異端といわれるほどに広まったのには、そちらにもある意味それだけの社会的背景というか時代の要請というか、有ったと思うんですよね。
その辺りを立体的に見据えないと我々は歴史を見誤るのかもしれません。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/30 (Thu) 12:58:40
「肉」重視にしろ、「霊」重視にしろ、いずれにしてもニーズに応えていたということなんでしょうか。
そういう意味では、今の日本キリスト教団の自称「伝道する教団」の方々は、誰のニーズに応えてやろうとしているのか、ちょっと首をかじげる事がなきにしもあらず。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/08/30 (Thu) 19:06:36
現代社会あるいは現代人ほど複雑でなかったにしても、社会のニーズというのは一色ではなかった、という事だろうと思います。
その理解を今の日本基督教団に当て嵌めると…、さて、どうなるんでしょうかねぇ。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/08/31 (Fri) 11:41:49
施しについて、また社会のニーズということで、また頭に浮かぶのが、この夏、仙台で聞いた話。
宮城も米所なわけで、米を作って出荷して稼いでいた農家が多かった。まして、自分の家で食べる米なんか自分のところで作って当たり前だった。
それが、今は津波で田んぼがダメになって、家も無くなって、仮設で暮らして、米の寄付なんかもらってる。
米の袋をもらっても嬉しくなんかないっていうんですよね。
もちろん食べていかねば生きられないから、米は必要なんだけど、人様に米をもらうようになってしまった自分が情けなくてやってられないと語る農家の方がいらっしゃるそうです。
それを聞いて、ぼくは釜ヶ崎で今まで炊き出しでボランティアしてきて見たこととかぶりました。
みんなおむすびをもらって、ありがとうと言ってもらってくれるけど、これは決して彼らにとって嬉しいことではないんだろうなと気づいた時がありました。
それは、週1回のバザーの日で、たった10円か50円だかの品物を、「おうっ、釣りはいらねえぜ!」と上機嫌で買ってゆくおじさんたちの姿を見た時、炊き出しに並ぶ時のうなだれた表情と全然違うものを見たわけです。
たかだか10円やそこらの品物でも、自分のお金で買ってゲットするということは、非常に自尊心に関わる重要なことなんですよね。
ですから、それから、炊き出しなんかやってるからって、善い事をしてるなんて気持ちにはなっちゃいけないな、と思いました。
施しなんか無くても済む世の中になるのが一番なんです。
まあだから、施しなんてやってるっていい気になるなよ、とイエスに釘を刺されたような、そんな読み方もできますよね、この聖書の箇所は(なーんて、強引に聖書に戻ってみる)。
あ、宮城の農家の方のお話ですけど、その話をしてくれた東北学院中高の先生が、「その後、行く時には、今度はお米にかけるふりかけを持って行きました。そしたら『ありがとう』って言ってくれました(笑)」とおっしゃって、これは笑えました。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - ノンクリ
2012/08/31 (Fri) 20:18:37
 施しとか、慈善とか、福祉って簡単なようで難しい面もありますからね。つまりは、施しが、本当に与えられる人の為になっているのか?ありがたいものなのか?はなかなかに複雑なところがあるかと思いますから。
 イエスの時代からそういう議論はいろいろあったのかな?と考えたりします。
 例えていえば、飢えた人に、ただ、魚を施すよりは、その時は厳しいように思えても、魚の捕り方を仕込んだ方がよほど為になる・・とか。
 あと、最近の生活保護批判にすべて同調しているわけではないのですが、これだって、働くより、生活保護をもらう方が割がいい、なんてなったら本末顛倒ですし。
 東北の震災についてもボランティアの炊き出しや再建の手伝いも、もちろん大切ですし、重要です。実際に汗を流しておられる方々には頭が下がります。
 ただ、仕事をもち、自分や家族の生活があったり、いろいろしがらみのある人間にはなかなかできないことですよね。
 自分を含めてそういうことができない人は東北の産品を買ったり、連休時には東北地方に泊りがけで遊びに出かけてカネを落として、地元経済に貢献する・・といった感じで、無理なくできることをする、でいいのではないか?「施される」側も余計な気遣いや複雑な思いがなくてすみますし、と思ったりもします。
 あと、第二会議室でネタにした無線による災害ボランティアなんかも、あくまで、自分の好きなこと、普段、楽しんでいることで、何か役に立つことがあれば・・といったスタンスで、仕事ならともかく、これが、はじめから大上段に振りかぶった使命感とか、正義感で、訓練だ、お勉強だ、とやってたら続かないか、と。少なくとも根がグータラな私じゃダメです。
 言いたいことが、誤解されることなくうまくまとめられるか難しいところですが、施しや慈善は、もちろん基本的にはいいことだけど、他人の目を気にしたり、~であらねばならない、しなければならない、といった自分の本音の気持ちや能力を無視したムリのあるものならば、長続きしないよ、どこかで綻びが出ますよ・・って意味も、この聖句にはありそうな。
 もちろん、マザー・テレサだとかコルベ神父並みの利他精神がある人は別ですが、普通の人はムリかと。普通の人は自分が生き甲斐を感じるから、楽しいから(例えば、ボランティア仲間との交流が、みたいな)・・といった程度の動機で十分。その辺が「しない善よりする偽善」「やらぬ善よりやる偽善」ではないか?と。
 ちょっと、いいたいことが、誤解されることなくうまくまとまったか?自信がないですけど・・。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/01 (Sat) 13:58:18
いやー、ぼくはこのノンクリさんのご意見に、全く同意ですね。
無線の話もそうですけど、基本的に楽しまないと、長続きしないですし、「施し(?)」を受ける側というか、奉仕される側の人もうっとうしいんですよね。暑苦しいというか、騒がしいというか。
震災後、被災した教会に、東京からわんさか牧師たちがやってきて、「説教支援」と称して礼拝で話をさせてくれって来たらしいんですよ。
そして毎週違う牧師たちがやってきて、「大変ですね! 大変ですね! しかし、神の愛はここに現れているのです。アーメン!」と言って、実に清々しい顔をして帰って行くそうです。
で、教会の人たちからしたら、なんだか騒がしいなあ、日曜日くらいほっとさせてくれよ、みたいな。
あるいは、東京神学大学の学生たちが、被災教会を巡って歩いてきて、「ぼくたちはグリーフワークがしたいんです」と訪ねてくる。
「グリーフワーク」って言ったら、親しい人や家族が亡くなった方の悲嘆のケアです。それをやりたい、と。
ところが被災直後の教会は、「そんなことより、ここのタンスを運び出してくれ」とか「ここの泥をかき出してくれ」とかそういうニーズがあったわけで。
そうすると、この学生たちは去っていって、また別の教会を訪ねていくんだそうです。
あるいは、石橋とかいう教団議長は、被災教会を訪ねて行って、会堂の中だけ片付いたのを見て、「よし、これで礼拝ができるな!」と喜んだはいいけど、教会の周りの街は瓦礫の山だよ、信徒だって家が片付いてないよ、みたいな。
あるいは、震災1周年ということで集まりがあって、東京からわんさか牧師たちが来て、昼から集会やって、夕方からさあ懇親会だというところで、みんな帰り始めるから教団の偉いさんが「失礼だ!」と怒ったところ、逆に地元の牧師たち信徒たちから「あんたらのほうが非常識だ。こちらは帰るだけでも1時間かかる地域なのに、あんたらは泊まりで来てる。そんなこともわからんのか」と怒りの声が出て、結局、東神大出身者だけが気を遣って居残って、東京の牧師たちとそのとりまきだけで懇親会をやってたとか。
まあ、その手の話はいくらでも掘ったら出てきます。
何かいい事やってるんだ、なんて思い込みはやめておいたほうがいいですよ。
遊びに行くような気持ちでいいんです。
援助されるより、やっぱり自立した生活を再建する事の方がいいに決まってますから、遊びに行って、小銭を落として、楽しんでお客さんになってきたらいいと思います。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/02 (Sun) 21:06:08
阪神淡路の時も、仮設店舗で食料品を買い込んだボランティアの人が、被災者の食料を横取りするみたいで申し訳ない、と言ったら、いやちゃんと買い物してくれるのも大事なことなんだ、と言われて気付かされた、なんて話しがいくつもありましたよね。
>小銭を落として
現地で落とせるのが小銭で、現地に行く費用が決して小銭ではないところが落ち着き悪い?

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/03 (Mon) 13:27:13
だから、東北自動車道の無料化を切り上げるのは、早すぎると思うんですよね。
それに、JR東日本ももう少し考えろよと。
でも、いくつもの県の社会福祉協議会などが、ボランティアバスというのをチャーターしてて、ボランティアに行きますと言えば、どの団体でも乗り合いで東北に連れて行ってくれるというのはやっているみたいです。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - がん子
2012/09/03 (Mon) 22:28:05
現地に行く費用もひろ~~く考えて「日本の経済を回すんじゃっ!」っていうのはどうでしょうか(笑)。
苦難の中にある方、小さくされてしまっている方・・・
ほんとにたくさんいらっしゃるのだと思います。
どの方の支援も大切だし、知らなくてはいけないし、何とか関わりたいと思いながらも限界があります。
全部には関われない。
ただ・・・「意識して知る」コトが大切なのかと。
そしてどの「場」でもいいから関わり続けることが大切なのかもしれないと思っています。意識する苦難の中にいる方々、それがどの「場」であったとしても、関わり続ける、忘れないことが大切なのではないかと、(今は)思っています。
その「場」にいる方と関わり続けるからこそ、喜びや楽しさをもらえるのではないかな?って。
東北を旅行してお金を落とすのも大切だと思います。
これは自分の勝手な思いですが・・・
宿はひとつにして、地域は広いのですが「東北支援」する時にはその宿に泊まる。
そうするとその宿の方との関わりが生まれます。
リピーターになってくださるコトはその宿の方にとっても「実感できるうれしさ」であり、泊る側も「その方」を個人として思うことができる。
何だか支離滅裂ですが・・・
「この人・この場」とい関わりって大切なような気がします。漠然とした支援ではなく、「この人がいるんだ」と思うコトって力になるもの。
酔っ払いでごめんなさい。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/04 (Tue) 20:34:03
>支離滅裂、酔っ払い
いやいや、がん子さんの仰るとおりですよ。
中でも、
>忘れないこと
>「この人・この場」という関わり
ってのはホントに大事なことだと思いますねぇ。
話しが飛躍しますけど、
今の日本のプロテスタントキリスト教の抱える数多の問題の一つが、リアリティの無さなんじゃないかと思います(もちろん逆に聖霊のリアリティに走りすぎてこの世のリアリティから逸脱してもダメですけどね)。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/05 (Wed) 12:16:47
>施し
別の調べ物をしていて気が付いたんですけど、6:1-4で施しと訳されている名詞と、5:7で憐れみ深いと訳されている形容詞(英語ではcompassionではなくmercyの方の憐れみ)と、原語では同じ動詞から派生していますね。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - 南三条
2012/09/06 (Thu) 14:34:12
 詳細は書きませんが、私はエホバの証人の方と関わりがあったりします。
 被災地支援で思い出すことがあるのですが、今回の震災で、エホバの証人の「王国会館」も幾つか使用不能な状態になったようです。
 岩手県の沿岸地域にあった王国会館は、津波の襲来を受けて壊れてしまいましたが、エホバの証人たちの建設ボランティアが国内外から駆け付け、いち早く建て直してしまいました。
 その機動力はすごいものがありますし、大した情熱だと思いますが、周囲に全く建物がない中、王国会館だけが建っている写真を見た時、穿った見方なのかもしれませんが、少し異様なものを感じてしまいました。
 本当のボランティアって何なんだろうと考えさせられる出来事でした。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/07 (Fri) 09:11:34
東日本ではどうかは聞いていませんが、奥尻島の震災と津波のときは、「キリストさんは来んでくれ」と言われることがあったそうですね。
なんでも、被災直後にやってきて、「これは神の裁きだ。悔い改めなさい」と説いて回って、人を集めて説教して、話を最後まで聴いた人だけ、お米をやる、みたいなことをやったグループがあったみたいです。
今回の東日本ではネットの噂でだけ、そういう「伝道」して回った外国人2人組がいたことが耳に入っていますが……
まあ、ダメなことばかり話しても愚痴っぽくなるだけだけど、キリスト教さんパッとしませんね。
ちゃんとした活動というのは、地味なので目立たないのでしょう。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/07 (Fri) 11:20:39
>奥尻島
うろ覚えなんですが、その話し、
ドンデン返し的な後日談があったのでは?

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/07 (Fri) 22:51:54
ほほー、そのどんでん返し的な後日談とは何ですか?

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/08 (Sat) 00:51:47
えぇ、余りにもうろ覚えなので、確認できるか近日中にちょっと探してみます。
どなたか御存知でしたら代わりに書いていただければありがたく…(ぉぃ)

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/08 (Sat) 08:20:22
是非知りたいです。どうかよろしくお願いいたします。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/10 (Mon) 18:07:55
わかりました。別ルートの情報で、知りました。
キリスト教関連団体であることを伏せて奥尻島に入ったという話ですよね? そして、他の団体が期限が来て撤収してゆくなか、そのキリスト教関連団体が最後まで残った(そして、最終的にはキリスト教関連団体であることが知れていた)、という話ですね。
どこの団体なのか、確定する術が今のところありませんけれども。
でもね、これはキリスト教系の組織の悪いところでもあるような気がします。
キリスト教会系の組織って、「期限を切る」ことができないんですよ。
洗礼を受けて入会する儀礼はあるけど、退会する儀礼がないでしょう?
結婚式をやるけど、離婚式は原則的に無いでしょう?(まあこれは他の宗教も同じだけど)
基本的に「永遠」志向があるから、「やめる」「終わる」という発想に欠けているんじゃないかと思うんです。「終わり」をもたらすのは神のみであって、神にストップをかけられるまでは、どこまでも行ってしまうという傾向が歴史的にも見られるように思います。
それに発展主義的ですね、良い意味でも悪い意味でも。
アメリカ的なキリスト教主義に限ったことかもしれませんが、無限に進歩、発展、拡大し、撤収するとか終了するとか縮小するという発想に欠けています。
ですから、これも被災地で聞いた話ですが、キリスト教関連の被災者救援活動のある指導者が、「この救援事業が、今後ますます発展し、広がってゆけばいいと思っている」と抱負を述べて、「それはおかしいんじゃないか」と言われているんですね。
救援活動というのは、できるだけ早く救援する必要が無くなるために努力するものであって、その活動そのものの発展、拡大を望むというのは本末転倒ではないか、と。
これを聞いた時、もちろんその活動の指導者が自己満足で悦に入っているということもそうなんですが、やっぱりキリスト教会系の悪いところが出ていると思いました。
反差別の解放運動でもそうです。解放運動そのものの盛り上がりや維持が主目的のようになってしまって、思い切った方向転換や視野の切り替えができないでいたりするグループがあります。
いや、しかし、これはキリスト教の問題ではなく、日本人の問題なのかも知れないけど……

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/10 (Mon) 21:00:00
あ~、それです。その話し。すみません。私の方はまだほとんど探せてないのでいずれにしてももう少し探してみます。
で、何がドンデン返しかって私が聞いた(読んだ)話しでは最終的に「最後まで居てくれてキリストさんありがとう」になっていた、という…。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/16 (Sun) 17:50:48
私がスレ長時間停車させているかな?探しますと言ったのだけど、案外に見つかりません。この2年のウチに教会関係の何かの雑誌で読んだように記憶するんです。震災前だったような気もするんだな。
さて、
書き逃げになりそうな予感のするネタではありますが、以前にネタを振ったのは書きたい気があったからでして…
>施しを求められた時には
私たちが施しをする時、って施しをしようとする気になる動機はなんでしょう?イスラム社会のように施す側にも施される側にも、これはアラーの命令だという共通理解があるのならある意味簡単だと思うのですよ。どちらにとっても生活上のごく当然のことになっています(地域によってかなり違うらしいけど)。
だけど日本では状況が違う。施しという行為を後押しする動機なり気持ちなり気分なり計算なり、何かあると思うのです。
イエスの奇跡をここで引き合いに出すのも烏滸がましいのかもしれないけど、イエスがcompassionしたかどうかが奇跡の始まりになっている事例がけっこう多いじゃないですか(信仰の有無を問われる場面も多いけど)。施しってのも同じじゃないですかねぇ。違うのかな?
施しを求められる!?事の多い生活をしていると、全然compassion出来ない話を長々聞かされた挙げ句、何か食わせてくれなんて言い出すのはまだいい方で、「何処其処まで行くお金下さい」とか「貸して下さい」とかいうところに話しが行くことが多いんだけど、それって施しではないような気がするんだよな。施しでないなら何なんでしょうねぇ。
すみません。愚痴でした。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - tomita@iChurch.me
2012/09/17 (Mon) 10:26:02
施しを求められることの多い教会関係者の人の実感がこもっている言葉ですね(笑)。
ぼくは教会で暮らしているわけではありませんが、大阪クリスチャンセンターの前で(クリスチャンが来るところ、という頭が働いたんでしょうね)1人のおじさんにたかられたこともありました。
まあでも、compassionにかられたのでなかったとしても、ちょっとだけでもあげたら向こうに行ってくれるから、という動機でも、いいんじゃないですかね。
向こうから見れば、これも「仕事」でしょう。
どこかに勤めて月給もらうのも「仕事」でしょうけど、空き缶集めてなけなしの小銭に交換するのも「仕事」だし、キリスト教の信者と思しき人に近寄ってねだるのも「仕事」ですよ。
人が生きるために何かをするのは「仕事」だと考えたら、たとえば人の良さそうなクリスチャンをつかまえて、その人の情を引き出してお金をもらうというのは立派な「仕事」です。
そこでお金を出した人は、お客さんです。貧しい人を助けてやったという自己満足を味わう対価としてお金を払ったのです。
もちろん、お金がない時や、心を動かされなかったら、お客にならなくてはならない義理もないので、自己満足は買わないと決めてお金を出さなくてもいいのです。
相手の人はそれが「仕事」なので、次のお客さんをゲットしようと努力するだけです。

Re: 8月のみんたた「施しをするときには」 - トマス
2012/09/20 (Thu) 08:04:16
実感です(笑)
でもね(酔っ払いが絡んでるみたいな言い方だなぁ)、前にもこの話題が出た時にも思ったんだけど、富田先生の言うこともわかる(特に彼らも「仕事」だという辺りはとっても同感)けど、ちょっと違うんだな。
玉造のクリスチャンセンターの前なら、センター職員の人を別とすれば、たまたまの訪問者だから、施しをしてもしなくてもその場限りですよ。
渡したくなければ今日は持ち合わせがないからと言って(言わなくてもいいけど)逃げればいいんです。渡したところで、小銭と一緒にトラクト渡したりしない限り、金をくれたのは○☆教会の牧師だ、なんてことにはなりません。
彼らにしても、次に行った時にセンターの前におんなじ人が居るかどうか分からない、ぐらいの計算は当然します。かと言って相手が誰か分からなければ、じゃぁ次は直接○☆教会に行こうか、ということにもならないでしょう。
ところがね、教会の場合には、やっこさんたちは既にこっちの本丸に乗り込んできているわけですよ。ということは、諦めてお引き取り願うか、満足して帰っていただくか、こっちは選択しなきゃいけない。彼らの客になる気がなくても、振り払って逃げるという選択肢はないわけです。
そして、満足して帰っていただいた場合には、○☆教会はケチな金額だけど幾らか呉れたぞ、という情報が回ることを覚悟しないといけないんですよ。
だから compassion 出来ない話を長々聞かされるのはそもそもストレスフルなんだけど(街頭と違って最初からお金くださいとは普通は言わないからね)、一方こちらにはこちらの腹づもりと計算とがあって、要するに話しの行き着く先は分かっているのに「人生相談」とか言われて延々とお涙頂戴話を聞かされる。だいたい30分から1時間。
こちらから言えば、時間を喰われているだけなんだけど、立場上最初っから人生相談お断りとは言えないでしょう。話しを聞いてみて、本当に然るべき行政やNPOに送り込まなきゃいけない場合が有り得る以上はね。そこを見計らってオッちゃんたちが来てるのが見えてるのがまた勘にさわる。
早い話が compassion の訪問販売ですよ。
そうと分かっていてこちらは一旦はドアを開けざるを得ない。
相談事と言われりゃぁお茶の一杯も出さなきゃいけない。
やりかけの事務仕事を中断しなきゃいけない。
読みかけの注解を閉じなきゃいけない。
思いつきかけてた説教のネタを忘れる。
彼らの客にならない為の手間とエネルギーが半端じゃないんですよね。
しかも面と向かって言われることはまずないけど、電話(予約?)の時点でお断り申し上げたらクソミソに言われたりするんですよ。
すみません。また愚痴になりました。
だけどまぁ考えてみたら、だからこそ施しは compassion ではなく mercy なのかもしれないよねぇ。
そして、本当にここで関わらなきゃいけない人かもしれないという僅かな可能性を考えて長話を聞くのって、ヒット率ゼロを覚悟でトラクト撒くのとどこか似ているかもしれないよねぇ。





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