みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2013年1月のテーマ: 「ナザレでは受け容れられない」

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マルコによる福音書6章1-6節「ナザレでは受け容れられない」


遅くなってしまいましたが、2013年1月のみんたたテーマを提示します。

今回はノンクリさんのリクエストにより、「ナザレでは受け容れられない」という箇所を選びました。
共観福音書全部に記されているので、こういう場合に基本的なアプローチとして、最初の福音書であるマルコから引用します。

以下がマルコによる福音書6章1−6節の、新共同訳聖書の本文です。



**********************************




1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。



*********************************

以上です。
どうぞみなさん、ご自由にご意見をお寄せください。


Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - 入谷
2013/01/12 (Sat) 19:02:45
*
話をずらして申しわけありませんが、この日本語を見て目を蔽いたくなるのは私だけでしょうか。
どこにかといえば、イエスの言動を全て敬語で表現している部分です (ついでに「イエス」ではなく「イエス様」と訳せばいいのに、憎まれ口を叩きたくなります)。
これをどうにかするだけで、邦訳聖書は随分読みやすくなると思うのですが。
誤解を招くといけないので補足しておくと、私は佐藤研さんの「歴史書として福音書をとらえたかつた。原文のギリシャ語に敬語がない以上、翻訳で敬語を使うのはおかしい」という不見識に組するものではありません。(原文のギリシャ語に日本語にない希求法があるのはけしからん、とはいわないのかと憎まれ口を叩きたくなります。)

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - tomita@iChurch.me
2013/01/15 (Tue) 10:56:16

そうですね……同じことを、宗教学者(?)の島田裕巳さんが「キリスト教入門」(という名の、門前払いの書)で指摘してましたね。
そういう訳し方をした時点で、無言の前提のうちに、イエスは神であるという信仰を読み込んでしまっている、と。
信仰者にとっては当たり前のことが、信仰していない者には不思議でしょうがない。ここに壁があるということでしょうね。

佐藤研さんのおっしゃっていることは、日本語からギリシア語に翻訳する必要はないから、そうおっしゃっているんでしょうけど。

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - masaki tomita
2013/01/17 (Thu) 10:52:41

まあしかし、ここの不自然な敬語を削除し、素直に読み下してみると、そんなに不思議なことが書いてあるわけではないという気もしますね。

要するに、先生という者は、周囲の敬意が無ければ、十分に教育的な効果を発することができない、という現象が書いてあるのではないかと思うのです。

内田樹という方の『先生はえらい』という新書の無いようになるんですが、「先生はえらい」と思っている人が、その先生の言動を見て、自分から大切なことを発見してゆくという面が教育にはあるということなんですね。もちろん、それだけが教育ではありませんけれども。
「先生はえらい」と思っている人は、先生の意図以上のことを学んで、自ら成長してゆきます。
「でも「先生は大した事ない」と思っている人は、その先生から何も学べません。

イエスがナザレに帰った時、イエスの説いている事を故郷の人たちが、「なんだあいつは、大して学問もしたこともないくせに、律法学者でもないのに、生意気に上から目線で俺たちに教えを説くっていうのか?」と反感を買った可能性はあるのではないかと思います。

「大工ではないか。マリアの息子ではないか」という言葉には、いくつか解釈の可能性があると思います。
大工というのは、最底辺労働者であるという見方と、最底辺ではなく、一定の収入がある、豊かではないけれども、最底辺の労働者よりは定収入がある職業だ、つまり木工業/石工業の専門的スキルを持っているという点で、何も手に職がない単純肉体労働者よりは上の層であるということです。
そう考えると、ぼくはずいぶん前から疑問に思っていましたが、イエスが大工のたとえ話をしない、という点とも一致してくるかなと思っています。彼は、最底辺の労働者たちに語りかけるために、大工のたとえを用いる事ができなかったのです。大工のたとえは、手に職を持つ専門業で、最底辺の人の妬みや反感を買う恐れがあったからでは無いでしょうか。

加えて、普通は当時の人の名前は「(本人の名前)+ ベン/バル + (父親の名前)」という呼ばれ方、つまり「イェシュア・ベン・ヨセフ」と呼ばれなければならないのに、何故か父親の名前は伏せられて、「マリアの子」と呼ばれている、ということは彼が父親なしの子どもであった可能性があるのではないかと思います。そして、それはマリアが正規の結婚の手続きを踏まずに妊娠したことを、地元の人は知っているということなのではないかと思います。ヨセフの存在の史実性もかなり疑わしいですし。
ですから、そういう意味でも、イエスはもともと人から蔑まれるような立場にいたということです。

そういう意味で、まず故郷に帰って宣教活動を始めたイエスは、自分の子ども時代のことを知っている人に見下され、父親のない子として蔑まれ、大工として妬まれ、さんざんな目にあったということではないかと思います。
そして、このあとは、二度と自分の故郷には帰らなかったということでしょう。



Re: みんたた1月「ナザレでは受け容れられない」 - トマス
2013/01/17 (Thu) 20:30:07

同じく日本語訳でもたとえば岩波訳は勉強用というニュアンスが強いのに対し、新共同訳は礼拝仕様という違いがあるようには思いますが(『交読詩編』の序文を読むと新共同訳は朗謡を意識した翻訳のようですね)、たしかにいささか敬語が過剰なきらいは有りますねぇ。過剰な敬語のせいで文章がなかなか頭に入って来ないなぁ、と思う時がけっこうあります。だからこそ複数の翻訳を参照することが大事、ということになるのかもしれません。


Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - tomita@iChurch.me
2013/01/19 (Sat) 08:22:59

複数の翻訳を比較するというのは、大切でしかも面白いと思うんですが、それをなかなか普段の説教づくりのなかで、やる余裕が無くなってしまうことがよくあって、反省しきりです。

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - 毛利
2013/01/20 (Sun) 08:15:10

こちらではご無沙汰しています毛利です。

イエスがナザレで留まらなかった…つまり生まれ故郷であっても、イエスの言葉に耳を貸さない場合には容赦なく去っていく、しかしそれ以外の場所で彼に従う者には説いて救う、というイエスのスタンスは、ちょっと大袈裟に拡大解釈すると「ユダヤ人だから救う」「顔見知りだから救う」という限定されたものではなく、もっと幅広く「従う者は、その出身地に関係なく救う」ということかなと思いました。これはイエスが実に寛大であるということの裏返しなのかもしれないと、ふと思いました。

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - tomita@iChurch.me
2013/01/20 (Sun) 08:43:40

うーん、どうなんでしょうね。
福音書の中には、「話を聴かない人が多い町は、足の塵を払って立ち去れ」という教えもイエスは語っていますからね……
それに、他の箇所でも「私はイスラエルのために遣わされているのだ」という言葉も残されています。
イエスが(少なくとも当初は)ユダヤ人のことしか眼中になかったのだろうということを断定している学者もいます。ぼくもそのように思っています。

Re: みんたた1月「ナザレでは受け容れられない」 - トマス
2013/01/20 (Sun) 22:11:55

史的イエスとしては富田先生の言うとおりなんでしょうけど、キリスト教の教義?的には毛利さんの言うとおりなんでしょうねぇ。
それに現実的に考えても、自分が子どもの時に教会学校に通っていた教会で礼拝説教したいとは思わないモンね。ナザレの人が受け容れたかどうかだけではなく、イエス自身もやりにくかったんじゃないかな、と思います。その辺りの微妙な呼吸が悪循環する方向で嵌っちゃったのが安息日のナザレの会堂だった、と…。


ひとつ前のネタに戻りますけど、私がよくやるのは(旧約では持ってないから新約限定)、日英対照の該当ページをコピーして出張の行き帰りの電車やバスの中でチェックしてます。教会に居る時は日中は何かと落ち着かなくて。英語でも翻訳に依るのでしょうけど、いずれにしても日本語よりはそれなりに言語構造や単語の構成がギリシャ語に近いわけで、慣れてくるとけっこうイケます。


Re: みんたた1月「ナザレでは受け容れられない」 - トマス
2013/01/26 (Sat) 12:08:22

>イエスが大工のたとえ話をしない

言われてみれば、建物をネタにした譬え話はいくつかありますけど、大工の仕事の日常そのものをネタにした譬え話ではないような気もしますねぇ。

大工と一口に言ってもピンからキリまであるんだろうけど、当時の社会において一般に大工というのが社会の最底辺を支えた日雇い労働者ではなく、徒弟制度的な修行を経た職人だった可能性は大いにありますね。そうすると確かに、大工の仕事はネタにしにくかったのかも。


Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - masaki tomita
2013/01/28 (Mon) 10:55:06

聖書の翻訳は、英語のほうがすんなり意味が入ってくる場合が多いですね、慣れてしまえば。

その一方で、最近ぼくが気に入っているのは、山浦玄嗣さんの『ガリラヤのイェシュー』(イー・ピックス出版)です。
これはイエスやガリラヤの人びとをケセン語、祭司や律法学者たちを京都弁、商売人たちを大阪弁、などなど様々な立場の人びとを方言で語り分けるという、ちょっと独特な福音書の翻訳です。
これがなかなか「どすん」と腹に入って腑に落ちる感じで、いいのです。
これ、おすすめしますね。

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - トマス
2013/01/28 (Mon) 12:42:00

腑に落ちる、って大事ですよね。
それが方言の強さでしょうか。


Re: みんたた1月「ナザレでは受け容れられない」 - トマス
2013/02/03 (Sun) 01:33:21

我々はついつい故郷のナザレでは受け容れられなかった、という方にばかり目が行ってしまいますけど、よくよく読むと、それでも、何人かの病人は癒されたと書かれていることに気付きます。
ナザレのその状況の中で、それでも癒された人達はなぜ癒されたのでしょうか。ナザレですら癒された人が居ることは現代の我々にとって希望を与えるのでしょうか。癒された人達のその後はどうだったのでしょうか。興味は尽きません。


Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - masaki tomita
2013/02/03 (Sun) 10:56:46

非常に人間的な事態が起こっていたんではないかと思います。
故郷では子ども時代を知っている人がいて、「はなたれ小僧の時代からおまえのことは知っているのに、おまえが自分たちを教えようというのか」という気持ちがあったでしょうし、あるいは、イエスというのは幼い頃から変わった子で、しかも家のことも放ったらかしてヨハネの弟子になり、無責任な長男だという風評も立っていたでしょうし、イエスに対する不信の気持ちはあったのではないでしょうか。
それに対してイエスは、「故郷の人たち、少なくとも同世代の友人くらいは自分のことをわかってもらえるだろう。家族くらいはわかってくれるだろう」という期待を持ってナザレに帰ったのに、近親者や親しい人びとほど自分への反感が強かった、ということではないでしょうか。
それで、「驚いた」という言葉が出てくるのではないかと。
この「驚いた」というのが、どれだけイエスの実感を伴った彼自身の言葉であるかは、検討の余地がありますが……。

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - トマス
2013/02/03 (Sun) 17:02:50

え~と、たぶん、私と富田先生で注目点が違うんじゃないですかね。
非常に人間的な事態が起こったのであろう、というのはその通りだと思います。そこで、それでも癒された人達(大勢の側に組みしなかった人達?)に注目すると何が見えるかな?と考えてみたんですが。
「驚いた」もたしかに微妙ですねぇ。


Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - ノンクリ
2013/02/12 (Tue) 20:25:34

 全くの時期外れ、的外れ、かつ不謹慎な話で申し訳ないですが、この箇所を読むたびに吹き出しそうになるんです。イエスや真面目な信徒さんには悪いけど。

昔の友達「お、イエスじゃねーか、お前、2、3年前に急にいなくなったけど、お前今何やってんの?」

イエス「う、うん、ちょっと宗教関係の仕事してて・・」

友達 「なんだ、神殿かなんかで商売でもやってんの?」

イエス「いやぁ・・そういうんじゃなくて、みんなのメシアになろうと思って・・」 

 友達「ん?よく聞こえなかった、今、メシアっていわなかったか?」

 イエス「だから、その救世主、メシアを今やってんだ・・」

 友達「ハハハハ、ナイスジョーク。ネタはいいから、ホントは今何やってんだよ?」
 
 イエス「だから、メシアを・・」

 友達「馬鹿いってねぇで真面目に働けよ、いい年齢だろ、急に家出しやがって、マリアのおっかさんとヨセフのとっつぁんにどれだけ心配かけたと思ってやがるんだよ!
 なんてこった、コイツ、頭がおかしくなってやがる、ヨセフさんちに知らせなきゃ・・」

 以下、マルコの福音書「この男は頭がおかしいと肉親一同に取り押さえられ・・」の箇所に続く・・。

 多分、こんな調子だったのではないか?と。

Re: みんたた1月のテーマ「ナザレでは受け容れられない」 - masaki tomita
2013/02/12 (Tue) 21:56:52

や、ノンクリさん。その通りだったんじゃないかとぼくは思うんですよ。
イエスがメシアをやろうと思った……というのは、ちょっと疑わしいですが、地元の知人や家族は上記のノンクリさんの話のとおりだったんじゃないかと思います。
「冗談かと思ったら本当にこいつ気が狂ってやがる。いい歳しやがって」という反応だったんじゃないですかね。
まあ、ぼく自身、自分の人生を家族に全く理解してもらえてないので、その思いを投影している可能性は高いのですが……。





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