みんたた!

「みんたた!」:みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー

2013年3月のテーマ: 「ペトロの否認」

日本語訳聖書の版権は財団法人・日本聖書協会に帰属します。
当教会は、ホームページ上での聖書の引用に関して、
日本聖書協会の認可を受けています。

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マルコによる福音書14章66-72節「ペトロの否認」


2013年3月のみんたたは、入谷さんのリクエストによりマルコ福音書14章66−72節「ペトロの否認」の箇所です。
新共同訳の小見出しは「ペトロ、イエスを知らないと言う」になっていますけど、「ペトロの否認」としておきます。受難節にふさわしい箇所になりました。


マタイ、マルコ、ルカの3福音書がそれぞれ少しずつ違う話を伝えております一方でヨハネ福音書も概ね同じ出来事を伝えています。福音書以前に「受難物語」が存在したことをうかがわせます。


以下に新共同訳のテクストを貼り付けておきます。




**********************



>66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 

>67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 

>68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 

>69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 

>70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」 

>71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 

>72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。 



**********************



この記事の前提になるイエスの預言の箇所も貼り付けておきます。



**********************




>26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 

>27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。
 『わたしは羊飼いを打つ。
 すると、羊は散ってしまう』
と書いてあるからだ。 

>28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 

>29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 

>30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 

>31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。 


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 入谷
2013/03/04 (Mon) 06:13:16

私は実は、この個所について、「人間だもの、挫折することもあるよね」くらいで、取り立てて感慨はなかったのです。
チェスタートンの探偵小説の一節 :

"and leave us in the darkness, vampires of the night, to console those who really need consolation; who do things really indefensible, things that neither the world nor they themselves can defend; and none but a priest will pardon. Leave us with the men who commit the mean and revolting and real crimes; mean as St. Peter when the cock crew, and yet the dawn came.”
“The dawn,” repeated Mallow doubtfully. “You mean hope ― for him?”
「私たちは人間性の闇の中に、夜にしか徘徊できない吸血鬼のもとに留まります。本当に慰めを必要とする人々、弁護の余地のないことをしてしまった人々、何人も、彼ら自身でさえも、弁護できないことをなしてしまった人々に慰めを、聖職者だけにその権能が付与された慰めを与えるために。私たちが、卑劣極まりなく、怖気をふるわせずにおかない本当の罪責を犯してしまった人々ともにあることを許してください。 聖ペトロスは三度まで主を否認したけれど、それでも夜明けはやってきたのです。」
「夜明けだって、」Mallow は疑わしげに繰り返した。「奴に希望があるとでも?」
(マルヌ城の喪主 (The Chief Mourner of Marne) の一節。訳は拙訳。「私たち」は探偵役のブラウン神父を含むカトリックの聖職者。)

を読んで、ペテロは結構大変なことをしでかしたんだな、と再認識した次第です。

取り返しのつかないことをしでかした人間、癒ることのない傷をかかえた人間、普段は忘れたふりをしていても、一年に何回かは悪夢にうなされて目を覚まし、「夢だ」と安堵とも絶望ともつかぬ吐息をつく人間は、こうした記憶とどう折り合っていくのでしょうか ?

真正面から対峙すべきだ、ペテロのように (ほんまかいな ?)、というのは、言うだけなら、簡単ですが。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/03/04 (Mon) 10:37:28

ぼくはこの聖書の箇所を読むと、自動的にと言いますかヨハネ福音書の終盤の場面を思い出します。
聖書学的にどう関連があるのかは、実はこれについては詳しくないのですが、ヨハネ福音書の末尾で、ガリラヤ湖に現れたイエスがペトロに「あなたは私を愛しているか?」と三度尋ねる。ペトロは「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と言います。
これ、イエスは「アガペーで愛しているか?」で質問しているのに対し、ペトロは「フィリアで愛していることを、あなたはご存知です」と答えています。
そして、ペトロは悲しくなってしまうのですね。
これは、三度の否認の物語をベースに作り上げられたエピソードだろうと思いますが、ペトロの「イエスの事がいつも気にかかりながらも、裏切って自分を守ることしか実際にはできなかった」という痛みがよく伝わってくる物語だと思います。

とりかえしのつかない罪を犯してしまった人間は、自ら命を絶つ事もできないのであれば、全く別の人生を歩んで忘れるか、赦されているということを信じながら生きるしかないような気がします。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 白薔薇
2013/03/07 (Thu) 04:27:40

こんにちは。白薔薇(しろばら)といいます。
こちらはいつも愛読させてもらっていますが、書き込むのは初めてです。
ちょっと緊張しています。どうぞよろしくお願いします。

今回のテクスト(マルコ福音書14章)の最後は
>72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

ですが、 並行箇所のマタイ福音書26章では
>75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
となっていますね。

私はいつもこの最後の「激しく泣いた」という所を読むと胸が締めつけられるような、一瞬息ができなくなるような感覚がします。
富田さんが(別の場面についてですが)「痛み」と書かれていますけれど、まさに私は物理的に胸が痛むんですね。頭というより臓腑が勝手に反応してしまう感じです。そしてその一瞬後で「ああペトロは私だったんだ」と気づかされます。

イエスの受難(passion)の痛みを共に苦しむ(compassion)ということは、教会の言葉やらあれこれに少し慣れてき始めると概念的に頭で分かったような気になってしまいがちなように思いますが(最近の私です)、本来はものすごく生々しい苦痛、肉肉しい苦痛を味わうことなんじゃないかな~と、思い始めた今日この頃です。


…って、全然たたいてないじゃん俺 (苦笑)


余談ですが、J.S.バッハの「マタイ受難曲」の白眉「憐れんでください」(Erbarme dich, mein Gott) はまさにペトロの慟哭の歌ですね。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/03/11 (Mon) 21:51:30

白薔薇さん、はじめまして。

>頭というより臓腑が勝手に反応してしまう感じです
おそらくはそれが元々の弟子たちの反応だったんでしょうねぇ。日本のプロテスタントは頭で考えすぎていることが多いような気がします(自戒を込めて、ですが)。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/03/16 (Sat) 20:39:03

>鶏が二度鳴く前に
>鶏が再び鳴いた
と書くのはマルコだけですね。しかも、68節で最初に鶏が鳴くところは重要な古い写本には無いので後代の付加であろう、とのこと。

たしかに唐突に再び鳴くのは変かも。マタイやルカが改変した気持ちも分かる気がします。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 旧友
2013/03/19 (Tue) 13:29:13

久しぶりの書き込みで恐縮です。

この箇所を読んでいていつも気になるのですが、
この場面、史実だとしたら誰が見ていた(そして
他人に伝えた)のでしょうかね。

もし創作なら、誰が何のために創作したのでしょう。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/03/19 (Tue) 15:51:02

どうもお久しぶりです。

言われてみれば、この記事は何のために書かれているのでしょうねぇ。

何の根拠も無い想像ですが、いったんはクモの子を散らすが如くに逃げた弟子たちの中から、思い直して(あるいは他の弟子の手前?)ペトロが様子を見に行って誰何された(そしてまた逃げた?)。という粗筋そのものは何某かの史実を元にしているような気がします。

様子を見に行ったのがペトロ(一人)である。誰何された場所が大祭司宅の中庭である。焚き火に当たっていた。3回誰何された。ガリラヤ人だと言われた。鶏が鳴いた。ペトロが泣いた。預言があった。のが史実そのままかどうか、それは疑わしいと思ってますけど…。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - エリサベト
2013/03/19 (Tue) 21:29:55

私は、なんとなく、ぺトロ自身の裏切りの罪の告白に、尾ひれがついて福音書の形になったのかなと思います。根拠レスの直感です。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 旧友
2013/03/19 (Tue) 21:35:44

私も、この話にはかなり脚色があるとは思うんです。だけど、全くの作り話でもなさそうです。基本的に、ペトロさんを決して美化している話ではないので、ペトロさんの仲間やシンパから出て来た話には思えませんし、ましてやペトロさん自身が語ったというのも、どうもなさそうな気がします。この話には「赦し」のモチーフがありませんし。(ルカの並行箇所で、イエスがペトロを振り向いて見つめるという描写がありますが、これは「赦し」への方向付けかもしれません。)

受難物語の一部分なら、かなり早くから知られていた話のはずですが、もし作り話ならペトロさんが否定すれば消えていたでしょう。少なくとも、イエス否認のくだりは史実なんじゃないでしょうか。預言が実現したとか、ペトロが泣いたという部分は、ペトロを擁護するための二次的な脚色のにおいがします。

ペトロ(とエルサレム教会?)に批判的な人たちがリークした話か?


Re: 雄鶏はどうやって朝を知るか? - トマス
2013/03/22 (Fri) 11:12:23

話題が前後しますけど、昨日捕獲した新ネタ。

「雄鶏はどうやって朝を知るか?」

ナショナルジオグラフィック公式サイトより

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20130321002


要点は、
鳴き始めるタイミングは外部の刺激より体内時計の方が強く影響する。
地位の高い鶏が朝を告げる優先権をもつ可能性がある。

とすると、マルコの描く「再び鳴いた」ってのは2羽続けて鳴いたとか?ギリシャ語的にそう読めるのかどうか判りませんが、複数の鶏が居て続けて時を告げたというのは如何にもありそうな話しかも。でもってマルコのギリシャ語作文力では…。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/03/22 (Fri) 14:02:35
私が今読んでる本では、マルコの受難物語はほとんど史実ではなく、3時間毎に区切られて8セクションで24時間に相当する徹夜祭の筋書きをもとにして作られた物語である、ということが論じられています。
で、鶏が2度鳴くというのは、その3時間の区切りの2回に相当するということになっていますが……


>旧友さん
さきほどの書き込みでは、イエスの否認そのものは事実ではないか、というお話ですが、ペトロやそのシンパが否定しようとしてもできなかったから、史実だろうということですか?
もう少し、史実であるということを裏付けるような根拠はないでしょうか?



Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 旧友
2013/03/22 (Fri) 15:57:48

ペトロがイエスを否認したこと自体は事実だと僕が思うのは、

(1) ペトロ自身(ないしその取り巻き)がこの話を創作した可能性は極めて低い。なぜなら、ペトロの名誉回復というモチーフがないから。自分を貶めるような話をわざわざ作り出すとはとても思えない。また、このような作り話をしたところで、「イエスの弟子集団」(=エルサレム原始教会)の信用が高まるはずもない。

(2) ペトロに批判的な人たちから出て来た創作話なら、そのような事実はない、とペトロが否定すれば済んだだろうし、周りもそのような話を受け入れはしなかったはず。つまり、イエス逮捕時の出来事として、結構知られており、ペトロも否定できなかった話だった話だと考えるしかない。

という理由です。一連の受難物語を構成する際に、話にある程度の脚色は施されているはずですが。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/03/22 (Fri) 17:43:36

>徹夜祭の筋書き
マルコ以前に既に何らかの「受難物語」伝承がひとつの纏まりとしてあり、それをマルコが再構成して8場の復活劇(?)に仕立て上げたのは間違いないところでしょうねぇ。ただ、マルコが聞いた伝承の段階で、鶏が鳴いたというネタがあったのかどうか?

現代と違って照明とか暗転とかのテクニックが(全然ではないにしろ)使えない時代ですから、鶏を鳴かせることによって舞台上に夜明けという時刻を示した。と考えるとマルコによる脚色のようにも思います。

けど、ト書きとして「鶏が鳴いた」と入れるのもなんか持って回った表現のような気がするので、マルコ以前の伝承の段階で既に鶏は鳴いていたような気もします(史実として鶏が鳴いたかどうか、それを聞いてペトロが泣いたかどうか、はさらに別の話)。

どっちなんでしょうねぇ。私自身は伝承の核になる史実について「在る」と想定する傾向が強いですが…。それにしても、上手く時期を選んで鶏についての研究を発表していますね。飛びついちゃいましたよ(苦笑)



>ペトロ(とエルサレム教会?)に批判的な人たちがリークした話か?
おもしろそうです。その線で読み直してみます。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/03/25 (Mon) 10:48:32

ざっと読み直してみましたが、たしかに、ペトロの否認の物語が無くても、あるいは極論すれば無い方が、受難物語の流れはよいですねぇ。

以下参照

>63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。 
>64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。 
>65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。 
>01 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。 

むしろたとえば「バラバを釈放か?」の一件の方が中抜きしにくいです。

とするとこのペトロのエピソードは何だったのか?
66−72節はイエスが全く出て来ませんね。ひょっとすると元来の受難物語にマルコが挿入した部分か?


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/03/26 (Tue) 10:38:19

>旧友さん

期待通りのお答えが聞けて嬉しいです。そういう風に説明してもらえるとわかりやすいです。
そうなんですよね、否定しようにも周知の事実だから消去するわけにはいかないんですね。
イエスが洗礼者ヨハネの弟子になったという事実と同じですね。都合が悪いからなかった事にしたいけど、当時すでに周知の事実だった。

逆に、ペトロの否認が消せない事実であるが故に、後にペトロの復権のために、イエスの赦しの「眼差し」の文言や、ヨハネ末尾のガリラヤ湖畔での3度の「愛しているか」のエピソードなどによる赦しのモチーフなどが、出来上がってきたのではないでしょうか。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/04/09 (Tue) 20:04:54

>ペトロ(とエルサレム教会?)に批判的な人たちがリークした話か?

混ぜっ返しているようですけど、批判的な人達にリークした人が居る、という可能性が出てきますね。最初にペトロと一緒に居て(一緒に誰何された?)のがペトロ寄りの人物なのかどうか、でもありますが。

いずれにしても、初代教会の中での派閥争いというか、本流争いというか、泥臭いモノがあったことを窺わせる話です。教会が聖人君子の集まりなのではなく、むしろ聖人君子になれないからこそ教会に集まっているのだ、ということを考えると、それは初代教会の頃からそうなのね、という妙な安心感のようなモノを与えてくれるネタでもあります。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - ノンクリ
2013/04/09 (Tue) 21:01:39

 ペテロの行動をみてると、専門的な信仰とか歴史、事実関係の話よりは、適切なたとえといえるかどうかはわかりませんが、ドン臭かったり、変わっていたりで、トップや周囲からつらく当たられたり、苛められている人間をみて「かわいそうだなぁ」「ひどいなぁ」と思いつつも「俺に(私に)に火の粉がくるのはイヤだから御免ね」と知らん顔をする、学校や職場のイジメにありがちなパターンを思い出してしまいます。

 つまり、「見て見ぬフリ」というのは、現代の子供や人間が特別モラルが低いとか下がったっていうのではなく、古今東西、いつでもどこでもありがちな人間の行動なんだぁ、ってことで非常に納得がいく話です。

 イジメ事件なんかで、あまりにも後ろめたさなく、関係者を糾弾している人をみると「じゃあ、お前はいつでもどこでも、苛められている人、つらく当たられている人間をみたら体を張って、自分に火の粉をかぶってでも助けてるんだな?」と聞きたくなります。
 
 いえ、完全無欠とか一点のくもりもない人間じゃないとイジメとか弱者救済についてを論ずるな、ってことではなくて「自分だって虐めたことがあるかもしれない、現場にいたら見て見ぬフリをしたかもしれない、知らずに踏み台にしたこともあるかも」という罪の意識、奥ゆかしさが感じられない人は問題だし、気に食わない、ってことですね。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/04/10 (Wed) 11:05:27

まあそういう意味では、このペトロの否認事件を、ペトロは黙っておきたかったけれども、そういう噂をリークした人物がいて、この事実が広まったということは、客観的にはよかったことなのかもしれませんね。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - ノンクリ
2013/04/10 (Wed) 19:42:55

 専門的な根拠も知識もないけど、ペテロのこの部分は多少の脚色があるとはいえ、書いてある通りが事実のような気もしますね。
 ペテロって基本的には人がいい、働きぶりも非常に真面目で、そういった部分はイエスも評価し愛していたのでしょうが、一方で、大局的な視点とかイザっていうときの胆力とか器の大きさには欠けるところが、イエスにとってイライラさせられるのか、時々、ペテロにはキツイこと言ってますよね。

 パウロもペテロに関してはほぼ同じ評価だった、というかその胆力のなさ、大局観の無さという欠点ばかりが目についたのか、後に対立してしまってますよね。

 もっとも、私個人は多分にペテロ的な人間ですので、上から目線でああだこうだ言ってるつもりは全然ありませんけども。
 聖書って「主役」のイエスやパウロより、ペテロみたいな脇役を中心に据えて読んだ方が「ああ、そういえば俺も・・」的に共感できるところが多いなぁと思ったりします。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/04/11 (Thu) 12:21:57

そうですね。
また、そのパウロも、いろいろと人間関係では苦労していて、エルサレムの教会の人びとと対立して、相手の伝道した場所を避けて通ったり、「手紙は力強いが、会ってみると大したことない」とか言われたらしく、傷ついたりもしていますよね。

だから、そういう人間らしさの面から聖書を読むと、案外、きっちりしたことばかり書いてる他の宗教の聖典と比べると、泥臭くて面白いと思います。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/04/17 (Wed) 21:55:44

>一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 

どのみち後付けの預言であるわけですし、福音書記者達が過越祭の習慣に通じていたかどうかの問題もあるわけですが、

「新約聖書」を読む我々も過越祭の食事の実際についてちゃんと知らなきゃぁいけないよな、と思わされる箇所の一つです。

実際にはどんな順番で何を食べて、その席上では何が語られて、何がどのように歌われたのか、具体的なイメージを持った上で、最後の晩餐の再現としての聖餐に向き合わなきゃいけないのでしょうね。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 旧友
2013/04/20 (Sat) 21:32:52

>実際にはどんな順番で何を食べて、その席上では何が語られて、何がどのように歌われたのか

これについては、J. エレミアス『イエスの聖餐のことば』(日本基督教団出版局、1996年)に載っているのではないかと思います(本がいま手元にないので確かめられないのですが)。

それから、訳者なので手前味噌ですが、P. シュトゥールマッハー『ナザレのイエスと信仰のキリスト』(新教出版社、2005年)の177-178頁にも簡単な説明が出ています。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - masaki tomita
2013/04/22 (Mon) 00:11:08

>旧友さん
『イエスの聖餐のことば』は1974年刊行のものしかAmazonでは見つからないのですが、もっと新しい訳があるのですか?

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/04/22 (Mon) 10:42:17

ホントだ。Amazonは74年版だけですね。しかも値段はプレミア付き。

エレミアス、持っていると思うんですけど、本棚に見当たりません。図書館で見たのかなぁ。見たことはあるんですが。エレミアスの研究だと間違いなさそうですね。実は私は私でこういう時によく見ている本があるのですけど、どちらかといえば啓蒙書っぽい本で、学問的検証という意味では冷や冷やモノ。とても面白い本ではあるのですが。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 旧友
2013/04/22 (Mon) 16:22:59

エレミアスの本ですが、3版が1999年6月に出ています。慌ててそれを1996年と誤記したみたいです。すみません。

新版も中身は初版と同じであるようです(チェックしてませんが)。研究室の本棚にあるはずなので、調べておきます。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/04/22 (Mon) 17:05:12

出版局から新版が出ているのなら、出版局に直接聞いてもいいかも知れませんね。
まあ、そこまでしなくても、キリスト教書店に聞いてみようかな。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 旧友
2013/05/01 (Wed) 12:50:41

エレミアスの本、チェックしました。やはり第3版が1999年に出ていますが、中身は初版と同じなようです。

最後の晩餐が過越の食事だという前提で(これが過越の食事だということの論証は13-126頁で延々と行われています)、食事の順番が127-134頁で解説されています。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/05/01 (Wed) 13:36:50

キリスト教書店に注文しました。
お取り寄せでした。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/05/06 (Mon) 11:33:00

ペトロの否認の箇所から外れますけど(って、最初にハズしたのはわたしか…)、

3回否と言ったといえば、使徒言行録のあの箇所もそうですよねぇ。天から布に包まれた動物が降りてきて、屠って食べよと声が聞こえたという。(10章9-16とその前後、ヤッファの幻の箇所)


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - masaki tomita
2013/05/06 (Mon) 21:41:10

なるほど、そこには気づきませんでした。
ペトロの説教の論法だったのかもしれませんね、3回否と言ったが……とか、3回イエス様に問われたのだ……とかね。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - 入谷
2013/09/02 (Mon) 19:56:28

別のスレッドで触れましたが、田川建三さんの「ヨハネ福音書、訳と注」を読み終えました。

で、情報共有。21: 16 の注が以下です。

前者の愛するは agapao, 後者は phileo。ここでもまたこの二つの動詞がまったくの同義語として用いられている。その証拠に、同じイエスが同じ質問をするのに、17 節ではイエスの方が phileo を用いている。これはもちろんこの書き手だけの特色ではなく、ギリシャ語としたはごく当たり前の現象。11・5 の注参照。

とあります。

富田さんの所論への異議申し立てではありません。
(著者にその真意を問えるわけではないのだから)読みたいように読むしかない、という部分は残ってしまいます。
ただ、いろいろな読み方があることを紹介しておくのも無意味ではなかろうと考えました。
季節はずれの投稿ですが、ご容赦を。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/09/13 (Fri) 08:52:52

田川先生もそうですし、私の恩師の橋本先生も、ヨハネの末尾の「agapao」と「phileo」は同じ意味だとおっしゃてたので、ギリシア語の堪能な尊敬する先生方がそうおっしゃるわけですから、ぼくが間違っている可能性が高いでしょうね。

ただ、イエスはペトロに対して、1度目は「agapao」で、2度目も「agapao」で、そして3度目に「phileo」で問いかけ、3度目に悲しくなったとありますから、文芸的には、ここにイエスの赦しが表されたと解釈するのも、面白いかなと思っていたわけです。

Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/09/13 (Fri) 14:55:05

>同じ意味

難しいところですよね。学術論文を書く時なら、意味と単語が輻輳することはない(させてはいけない)ワケだけど、福音書にしろ手紙にしろ黙示録にしろ、論文じゃないワケで、そこで書き手が何を考えているかということから考えるならば、

・単語が違えば意味が違うに決まっておる。
・同じ意味だけどニュアンスの違いを汲んでほしい。
・同じ単語ばかりを使うと文章がダレるから置き換え可能な単語を使ったんだけど、なにか?
・語呂合わせしたり、韻を踏んだり、けっこう苦労して選んだのよ。
・気分と勢いで書いたからそんな難しいこと何も考えてない。

といった可能性があるわけですよね。
しかも
・同じ書き手でも意味合いの細かい違いにこだわっている時もあればこだわってない時もある(それこそ気分の問題?)
てな状況も考えられるわけで、そこをどう読むかというのはすぐれて語学的問題であると同時に、やっぱり文芸的問題なのでしょうねぇ。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - tomita@iChurch.me
2013/09/25 (Wed) 12:17:07

はい。
ですから、学問的には疑問視されるけれども、実際の人の信仰というのは、学問で定義された意味を超えた解釈によって拡大してゆく可能性もあり、それがその人の人生を意義深くするのであれば、それはそれでいいではないかとぼくは思うのです。
学問的になりきれないことも言い訳めいてもいますが……(笑)

時に学問研究の結果の助けを受けながら、時には文芸的に自由に解釈を広げるということを、教会を舞台に行ってゆくほうが、ぼくには向いていると思います。


Re: 3月のみんたた「ペトロの否認」 - トマス
2013/09/25 (Wed) 20:08:38

>それがその人の人生を意義深くするのであれば

同感同感。






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