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社会派? 教会派?

2012年1月12日(木)

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  使い古された言い回しかもしれませんが、おのおのの教会や信仰の特色を示すために「社会派」「教会派」という言葉が用いられることがあります。大雑把にいえば、社会派とは教会の社会的責任を意識し、御心を求めつつ社会正義のためにさまざまな活動を積極的に行う教会や信仰、教会派とは、伝道を重んじ、個人の魂の救済を重視する教会や信仰のことをそれぞれさすのだろうと思われます。
 教会派の中には「教会は礼拝と伝道の場であるのだから社会的な活動に関与すべきではない」という考えを持つ方もいらっしゃるようですが、果たしてそれは妥当でしょうか?
 それに答えるためには、そもそも教会にはどのような人が招かれるのか、招かれるべきなのか考える必要があります。
 聖書を開くと「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私がきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章12-13)という御言葉が飛び込んできます。罪人とはどのような人のことでしょうか。
 聖書の中で「罪」とは、「的外れ」「道をそれる」という意味に近く、日本語の語感から感じられる「罪」の感覚とはちがうものがあるようです。当時、病気は罪を犯した者がなる「天罰」のように思われ、罪人だと差別されていました。イエスはそのような感覚に切りこみ、「罪」を負う者を「招く」と宣言したよう思われます。
ゆえに、教会は「罪人」がその存在を肯定され、人間性を「回復」されるために招かれるところだと言えます。本人への責任の有無にかかわらず「罪の状態」にある者・・・病気の人、心身に障害のある人、性的少数者として差別されている人、貧しい人、その他あらゆることで抑圧を受けている人が、その存在をそのまま受け入れられる・・・あなたはある面そのままでいいし、あなたの願っていることはそのまま神の御心であると宣言することで人間性を回復される場、もっと踏み込んでその願いを実現するために協力する場、それが教会であると言えるでしょう。
 だとすれば、教会が社会的な問題に関与しないわけにはいきません。幅広く、社会が抱えている問題について学び、そのような問題を抱えている人が教会に招かれた時、問題を抱えている人を肯定することができる場にしていかなかればならないでしょう。
 しかし、現実の教会には限界があります。時間にも限りがありますし、人間である以上学びを行う量にもやはり限界があります。それはそれで教会の個性をつくっていく要素になりえます。また、社会問題に積極的に関与することを望まない、それがかえってつまずきになったという人もいるでしょう。すべての人が同じように招かれる、定着できる教会というのもやはり不可能だと思います。
 それゆえ、教会にも多くの人が招かれるように、受け入れられるように多様性というものが必要です。さまざまなかかわり方の、さまざまな教会があっていいのだと考えます。
 もちろん「教会派」的なところを重視する教会があってもいいのだと思います。ただ、教会が教会であろうとするとき、イエスさまがおっしゃったように本気で「罪人が招かれる場所」になろうとするとき、教会は多かれ少なかれ「社会派」の教会になっていくのではないでしょうか。

 

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