sayaka chapel

爽歌*sayakaの教会観-小さくされた者の願いにこたえる教会

2012年1月18日(木)

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 2011年10月27日、某神学校を受験しました。
 試験科目の中に小論文がありました。「あなたにとってキリスト教とは何ですか。キリスト教会はどのようにあるべきだと考えますか。あなたの経験を踏まえて書いてください。」という問いでした。「経験を踏まえて」ということなので教会に行ったきっかけとなったことを思い出しながらだいたい次のような趣旨のことを書きました。

 『教会に初めて行くことになったのは2003年の5月頃。大学1年の春だった。たまたま履修した環境問題の科目の担当教員がのちのち私の母教会となる教会に出席していたキリスト者だった。授業の中でイラク戦争の劣化ウラン弾被害のことがとりあげられ、その講義の中でバザーをしてイラクに送金したいという声が起こり、その教員と相談して教会の礼拝に出席し献品をお願いすることになった。たくさんの献品をいただき、バザーをすることができ、少ないながらもイラク医療ネットに献金することができた。その体験がなければ教会に行き続けることはなかったように思う。

 教会とキリスト者に対しては良い印象を持ちながらも、キリスト教と神に対しては怒りに似た気持ちを持っていて、なかなか信じることができなかった。神が全知全能ならなぜ不幸なことがなくならないのか?神を信じるという者が引き起こす戦争をなぜ止めないのか?聖書の中には教会が持つ平和への思いを真っ向から否定するような箇所もあり、現実の教会と聖書の間に著しい乖離を感じ、苦しんでいた。

 このような問いの答えはまだはっきりとはしていないし、一生かけてもわからないのかもしれないけれど、キリスト教が証する神は、いのちを大切にし、小さくされた者と共にある神であることを知っている。そして、すべての人の御心に適う生き方を認め、励ます神であると信じているし、ゆえにいのちをないがしろにする戦争は言語道断であると断言できる。

 ゆえにキリスト教会は、あらゆる人のさまざまな御心に適う生き方を認め、神と同じ感性を持っている小さくされた人たちに寄り添い、その人たちから学び、その願いに応え、この世を出来るだけ天の国の先取りとなるように働けなければならない。「救われるためにする」のではなく、「救われていることを知っているからする」のであり、「イエスに出会ったゆえにする」のである。

 礼拝も大切であるし、新しい人を招く伝道も必要だが、それだけでは御心をなしえないように思う。例えば、社会の諸問題(戦争と平和、男女差別、性的少数者、障害者、部落問題、ワーキングプア等)に関する学びを行い、常に問題に対応していく必要がある。

 聖書を読めば、イエスは小さくされた人々と共におり、その願いに応えていたことがわかる。私たちはイエスのように劇的な奇跡は起こせないが、小さくされた人々の願いに応えることによって「小さな奇跡」を起こしていくことはできるのではないかと思う。』

 

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