sayaka chapel

自分とは何か

2012年9月27日(木)

 "Sayaka Chapel"入口に戻る
三十番地キリスト教会・礼拝堂に入る
三十番地キリスト教会・案内図に入る
 

 これは某神学校2012年度「宗教学」の学期末レポート課題「K・ドュルクハイム『肚―人間の重心』(麗澤大学出版界、2003年 原著ドイツ語1954年初版)をふまえ、授業の前のエクササイズ(呼吸体操、椅子に坐ってできる座禅、吐く息を数える「数息観」等)の体験をふまえて、『自分とは何か』について論述してください」として提出したものを加筆訂正したものです。


 私にとって「自分」とは、「記憶」であり、「心の傷」である。
 
 私には軽めの言語障がいがある。保育園から小学校3年まで「ことばの教室」に通っていた。しかし、それも結局完全には治らず、途中で終了することになった。「き」と「ち」がうまく言えないようで、今でも慣れない人には聞き返される。私には本名の姓である「K」という名前は最悪で、必ず名乗ると聞き返される。直したいけれど、直せたらそれだけで生きやすくなるような気がするけれど、どう直したらよいのかわからない。また、それもあって、またかなり「変わった」子ども(今でもきっとそれも含めてそうなのだろう・・・「変わった子ども」のままである)で学校時代はかなりいじめられた。それでも、中学までは勉強ができたので、気にしてはいたけれど、得意なこと、好きなことでがんばればいいくらいの感覚(運動が苦手で運動会ではいつも最下位でも、学芸会では劇や音楽があるんだからそれでがんばればいい、というような)があり、折々「死にたく」なりながらも自尊感情は今ほど低くなかったような気がする。自己診断は良くないのだろうが、自分では軽めの「アスペルガー障害」だったり、「注意欠陥多動性障害(不注意優勢型)」なのではないかと思っている。勉強ができた、というのは「耳に入ったものは一字一句そのまま覚えていられる」一種の特殊能力があったからである。小学校の社会の教科書は読んだらそのまま覚えていた。小学校の劇の台本も他の人の台詞まで全部覚えていた。書いていて、もしかしら本当に「発達障害」かもしれないと思えてきた。しかし、そうだったとしても、中学までは「幸せなアスペルガー」だった。
 その自尊感情が完全に壊れてしまったのは両親の離婚がきっかけである。
 両親は、私が高校に入る直前に離婚した。直接の原因は母の不貞である。しかし、それに至るまでの18年くらいの結婚生活の過程の中でそうならざるを得なかった細かい事情もあるようで、一筋縄ではいかないものをはらんでいる。結局子どもとしては、よくわからない。母の実家が結局私たちの生家であり、父の実家は隣町で、高校に通うには電車通学になってしまう。幼なじみも近くにいて結局ひっこししたくなくて、妹2人ともに母に引き取られ、母方の姓になった。小さい町だったから違う中学校でも同じ塾に通っている高校の同級生がそこそこいた。中学から同じ高校に進学する人も当然いる。その人たちにもとものの名字である「Hさん」から「Kさん」と呼び名が変わるのがなれなくてとてつもなく嫌だった。
 両親の離婚の前から、母の間男が頻繁に出入りしていた。離婚してから、うちに「帰る」ことが多くなり、夜になると二人で外に出ることが多かった。一番下の妹は7つ下で当時は小学生だった。私の父のことを「外面だけはいい」とののしっていたが、その間男は「外面すら良くなかった」。良く一つ下の妹は殴られていたし、母もたまに暴力の被害を受けていたらしい。「機能不全家庭」とはどうやら私の家のことのようである。
 高校では成績が良くなかった。進路のことも母に口出しされ完全には自由にならなかった。北海道の外には出られなかった。母に反抗する気にもならなかった。大学は札幌にある2つの私大法学部を受験した。どちらも合格するだろうと思っていたけれど、一つ不合格になった。その高校ではそこにすら行けなかったら人でないような扱いをされるので、私のショックはそれなりに大きかった。それでも、もう一つの完全に滑り止めとして受けた大学が受かったので郷里から札幌に出られたことは大きかった。あのまま実家にいたら自殺していただろう。
 大学は楽しかった。ただ、いつも「大学に居る間に自殺しよう」とずっと考えていた。
 大学に入ってすぐキリスト教との出会いがあった。教会はいいところだと思っていた。しかし、洗礼を受ける気はなかった。すぐ聖歌隊に入ることになって礼拝前に聖歌隊練習があった。賛美歌を歌っているときだけ「信じていた」。聖書と讃美歌をわりとすぐいただいたが、聖書を開くたび傷ついて、なかなか読みすすめる気にはならなかった。主の祈りの「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という言葉がひっかかった。「神は(人間が)赦さないと赦さないのか?」とずっと思っていた。「全能の神」というものがどうしても信じられなかった。「神は全能なのにどうして世界にはいかんともしがたいことがはびこっているのか」ということを「解決」することができなかった。
 大学3年の待降節に受洗を決心することになった。「もういいんだ。信じたんだ。小難しいことはどうでもいいんだ。」という心境だった。翌年のイースターに洗礼を受けた。今思えば、受洗を「生きるための口実」にしたのだと思う。
 大学を卒業して新卒で外回りの営業の仕事についた。3ヶ月で退職した。交通事故を起こした。幻覚が見えていた。自分ではそんなに狂っているようにも感じていなかったのだが、私が就職した直後くらいに妹が札幌に来てくれたのだが、そのとき「姉ちゃんおかしい」と思ったらしい。
 その仕事を辞めてから、精神科への通院が始まった。母親が信用できる病院を探してくれた。投薬治療が始まり、幻覚は改善された。それから検査も兼ねて10日くらい入院した。知能検査をしたら、前IQ109、言語性IQ125、動作性IQ79という結果が出た。言語性IQと動作性IQの数値がここまでかけ離れているのはそこそこ稀で「出現率は1000人に1人」と心理士さんに言われた。言語性IQの項目の「言語理解」と「社会常識」のできがよく、逆に動作性IQの項目の「視覚統合」がものすごく低かったらしい。視覚からの情報の取り込みが苦手らしい。「私の感覚」そのもので逆に安心したのを覚えている。
 退院してから仕事がうまくいかず、3ヶ月働いてはドクターストップがかかり、仕事をしたりしなかったりが続いた。仕事が覚えられなかったり、上司からの叱責がそのままストレスになり、耐えられなかった。私の中で決定的だったのは札幌のある牧師から無認可幼稚園の職員の仕事を紹介してもらったのに、1年で解雇されたことだった。自分以外のせいにするのはよくないと思いながらも、私のせいだけだったのかとも未だにどこかで思っている。そこで「排除」されたという思いが強く、間違いなく大きな傷になっている。
 それから1年間、仕事を変えながらもダブルワークをし、なんとか「東京進出」をはかろうとした。「人間やりたいことをやらなければ刷新されない」と感じて神学校へ行くことを決意した。うちに帰れば寝るだけの生活を半年していた。食生活も狂って、仕事のつなぎ目の時間に菓子パンを買って次の仕事の休憩室で食べるのが楽しみだった。カレーパンにはまって胃を壊した。
 なんとか東京進出を果たし、神学校に入学した。それから半年たたず、夏期実習で東日本大震災の被災教会のひとつである教会に行くことになった。「夏期伝といいながらボランティア」のつもりだった。しかし、行ってみたらそうはいってられない入り込み方をしてしまった。私には荷が重すぎた現場だったのに逃げ出さない口実を自分に課して居続けた。今までさんざんいろいろな事を中途半端に投げ出してきた(いちばんは仕事)から、逃げて帰りたくなくて無理をした。実習の途中に来てくれた母教会の牧師に「投げ出さないで帰ったら絶対成長できるから・・・」と言われたことも引っかかっていた。昨年の夏期伝の2ヶ月のことに関して言えば、もう誰のことも恨んでいないし、誰のことも憎んでいない。ただ、「もう少しなんとかならなかったのか」という思いと、「悲しみ」だけが残っている。
 その夏期伝から帰ってきたあとも「後遺症」で迷走し続けた。そこで受けた傷は神学校入学前に仕事を解雇されたこともどうでもよくなるような大きな傷となって残り続けることになった。しかし、自分も含め誰もがその傷を軽く見ていた。自分自身も軽く見ていたから仕方がない。すぐに精神科にかけこめばまだよかったのかもしれないけれど、「精神科にかかってもどうしようもない」という思いがあり、そのまま放置した。夏期伝から帰ってきたあと、出席教会が決まった。間口が広く、居心地がよく、礼拝と説教で癒される思いがした。しかし、そこでどうふるまってよいかわからなくなってしまった。信仰の内実が壊れているのに、「神学生」と見られるのが恐ろしかった。自分の言葉がキリスト教信仰に関する「判断基準」になるのが恐ろしかった。恐ろしくて仕方なかった。その教会も6ヶ月通って逃げ出すように辞めることとなった。

 これらの記憶全てが「私」であり、今まで生きてきた中で受けてきた「心の傷」が「私」である。

 「私」というのは『肚』の中でいうところの「自我」であろう。記憶がなくなったらどんなに楽か、心の傷がすべてなくなって、すべて忘れ去ることができたらどんなにいいかと思う。それができればきっと「私」は「私」でなくなるのだろう。傷が癒えないまま抱え込んでいるというのは、どこかで「癒えたら私ではなくなる」という思いがあるからかもしれない。それが『肚』でいうところの「生命の根源」ICH BINにつながることを阻害させているのかもしれない。今回学んだ「呼吸体操」+「数息観」で「坐ってみる」ことがあっても、やはり15分で表に出てくる雑念は主に昨年の夏期伝のことである。終わったら泣いていることがある。
 私にとって物を書いているときがいちばん「自由」である。正直、「肉体なんてなければいいのに。脳だけになれればどんなに楽だろうか。」と幾度と無く思ったことがある。私にとって肉体は不自由である。自分で肉体をどうにもすることができない、ただの「足かせ」のようにしか感じない。肉体を低く見ているのかと自問する。『肚』の中に描かれている現代人は、まさに私の姿である。固いが柔軟性がない。抱え込むがそこから自由になれない。身体と心が断絶しているという感覚をずいぶん前から持っている。しかし、精神的に抱え込んでしまうと「体調が悪くなる」し文字通り「動けなくなってしまう」。精神科にも通った(今年の三月から通院を再開した)がそれで症状が改善される感覚はないし、症状が抑えられたとしても、根本的な解決にならないのもわかっている。
 良くも悪くも「理性中心」「頭でっかち」なところがあるから「プロテスタント」という宗教に導かれたのだろうと感じている。私の母はこの世のものでないものが「見える」人だった。妹にも霊感があるらしい。私にはその類のものがない。「見えない」というものに「コンプレックス」というか「見えない」ことが「下等である」という意識があった。それで「見えなくても大丈夫」という良くも悪くも学問中心、疑問が出たら聖書を読んで牧師に聞けばいいというリベラルなキリスト教に惹かれたのだろうと自分でも思う。
 このまま、抱えたまま生きていけるのかわからない。抱えたまま生きていくのか、癒されていくのは全くわからない。いろいろ書いたけれど自分の増え続ける心の傷の元凶は結局「親の離婚」である。それから12年経つがその癒し方がまだわからない。その根本が癒えなければ、これからも生きることが困難なことであり続けるだろう。確実に言えるのは私自身が「御手の働き」を全く信じていないことである。『肚』でいうところのICH BINを信じることがやはりできないのである。受洗前からもっていた「神への不信感」がここにきてまた再噴出している。
 それでも祈祷で「すべての命の源である神さま」と今でも変わらず呼び続けているのは、「神は命である」という信仰告白にどこかでまだ期待しているからだと思う。「神は生命の根源」であることを・・・どこかで信じたいのだと思う。私の「召命の言葉」の一つは、詩編118:17・18「死ぬことなく、生きながらえて/主の御業を語り伝えよう。/主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。」である。「死なないで生きる」ことが私の第一の召命であったことを思い起したい。
 
 そろそろ、自分の傷から自由になることを自分の努力でしなければならないところに来ているのだと感じている。「自分でなくなる」ことを恐れず、平安に人を傷つけず生きていく方法を模索しなければならない。そのための第一歩として「肚」=丹田中心の「心身一如」の生き方を身につけなければならない。自分の傷にこだわって生きるのも一つの生き方で「自殺しなければいいじゃないか」と思っていたけれど、それでは人を再起不能なまでに傷つける可能性があることを知ってしまった。自分の傷で人を傷つけることだけは避けたいし、もともとの私の願いではない。
 「努力」という言葉にも「修行」という言葉にも嫌悪感があった。それを今でもぬぐうことが難しい。「この世に無理矢理適応させる」というニュアンスが感じられて仕方がない。しかし、それは私が「あるべき状態」というものを全く知らないからだと思う。「あるべき状態」がわかれば「修行」という言葉もそれほど恐くないのかもしれない。
 パウロも肉体を軽視していたわけではなかった。第一コリント6:19で「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、」と述べられている。パウロもユダヤ教の身体感覚を持っていたのだろう。「からだ」は「肉体」と「精神」で「ひとつ」ということを思い出せるようにしたい。「肉体」がある以上「肉体」から自由になることはできず、また「肉体」抜きでものを考えるのは非現実的である。また、肉体を肯定的に見ることができたら、生きるのが楽になるのかもしれない。


 

爽歌*sayaka神学生のホームに戻る

三十番地キリスト教会・礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→三十番地キリスト教会・牧師あてメール