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長血を患った女性の話

2012年10月27日(土) 2012年度 新約特講春学期末レポート「長血を患った女性の話」(マルコ5:25~34)

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■新共同訳:新約聖書
▼マルコ5章25~34節

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしてもなんの役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止って病気がいやされたことを身体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『誰がわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起ったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

▼マタイ9賞20~26節
 すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄ってきて、イエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき彼女は治った。

▼ルカ8章43~48節
 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、誰もからも治してもらえない女がいた。この女が近寄ってきて、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているので。」と言った。しかし、イエスは「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 
■新共同訳:へブル語聖書 出血の穢れに関する規定
▼レビ記12章1~5節

 主はモーセに仰せになった。
 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
 妊娠して男子を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なるものに触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
 女児を出産したとき、産婦は月経委による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家に留まる。

▼レビ記15章19~25節
 女性の生理が始まったならば、7日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。整理期間中の女性が使った寝床や腰掛けはすべて汚れる。彼女の寝床に触れた人はすべて、衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。もし、男が女と寝て月経の汚れを受けたならば、七日間汚れる。またその男が使った寝床はすべて汚れる。
 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中試用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。

【論考】

 今回は、「長血を患った女性の話(マルコ5:25~34、マタイ9:20~26、ルカ8:43~48)」をとりあげたい。
 この物語の中で、この女性は、男性優位社会の中で女性であるというだけで差別されているだけでなく、出血のけがれによってもさべつされているという二重の差別の苦しみを味わっている。レビ記15:19~25における月経期間の女性のけがれに関する規定が準用され、けがれた者として扱われていたのは言うまでもない。それが12年続いたとある(マルコ5:25、ルカ8:43)。
 この長血の女性のエピソードを挟む形でヤイロの娘の話が出てくる。この娘も12才である(マルコ5:42、ルカ8:42)。12才というのはこの社会では結婚適齢期である。一人の子が成長し、結婚するくらいになる期間、この女性は苦しみぬいてきたことになる。またルカ福音書には「医者に全財産を使い果たした」(8:43)という表現が出てくる。12年間、手段を尽くしても、誰もこの女性を救うことができなかった、ということが言える。彼女は、彼女の病気から解放されるために、その疾病の癒されることを願っている。祭儀的に解放され、彼女自身の全体性を回復することを願っている(絹川久子『女性たちとイエス』日本キリスト教団出版局、2006年 p86)。
 彼女の願いは、病が癒されるのは当然のことながら、病から癒され、差別から解放され、社会に復帰することであった。そういった意味では、彼女もユダヤ教の「けがれの倫理規定」から自由になったとは言い難いが、それはその時代の中での彼女の率直な願いである。

 彼女はあるひとつの確信によって、掟破りともいえる「非常識」な行動に出た。群衆の中で、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったから(マルコ5:28)と書いてある。
 もし群衆の中に入って、彼女が動き回れば多くの人をけがすことになる。浄・不浄の境界線破りである。イエスに気づかれてこの女性は「震えながら進み出てひれ伏し」(マルコ5:33)たのであるが、自分のふるまいが、この社会でどのように評価されるかよくわかっていたから、恐れてひれふした。しかし、この女性には、それだけののっぴきならなさがあり、それしか手段がなかった。
 イエスはこの女性を叱責するどころか賞賛した。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して暮らしなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(5:34)この言葉は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。苦しみから解放され、全き状態でありなさい。」とも訳せる。彼女の信仰が彼女を「全き状態」にした。
 ここで用いられている「苦しみ」は、マルコ福音書の中ではイエスとこの女性にしか用いられていない(マルコ5:26、8:31、9:12)。イエスの受難とこの女性の12年間の病による差別と苦しみが重ねられていることは大変興味深い。

 また、講義の中で「信仰」ということばを巡ってたいへん白熱した議論となった。イエスが「あなたの信仰」というときの「信仰」とは何だろうか。伝統的なユダヤ教の信仰でもないだろうし、もちろん今日の伝統的なキリスト教の信仰理解でもないことは言うまでもない。「信仰」という言葉は手垢にまみれているから「信」という言葉がふさわしかろうという意見や、またpistisは「信頼」とも訳せる言葉であることも示された。
 講義の中では結論らしい結論には達し得なかったように思うが、少なくともこの女性は「この方の服にでも触れればいやしていただける」ということに確信があったろう。疑うとか疑わないとかそういう次元を越えて、それにかけるしかなった。真剣すぎて、また深刻すぎて、そんなことも考えていなかったかもしれない。「いやしていただける」と思い、群衆をかきわけ、イエスにふれる、その一連の行動すべてが、彼女の「信仰」彼女のpistisなのではないだろうか。彼女のこの行動によって、浄・不浄の規定が無実なものであることを体をもって提示し、イエスはこの行動に同意した。彼女の行動が、そして信仰が彼女を全きものにしたのだった。


 

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