sayaka chapel

G・グティエレス『解放の神学』を読んで

2013年2月26日(火) 2012年度 某神学校実践神学特論学期末レポート

 "Sayaka Chapel"入口に戻る
三十番地キリスト教会・礼拝堂に入る
三十番地キリスト教会・案内図に入る
 

 これは、某神学校「実践神学特講」という科目の学期末レポートを加筆訂正したものです。
 半期を通じてG・グティエレス『解放の神学』(岩波現代新書、1984)を受講生で通読しました。その感想です。

■新共同訳:新約聖書
 「『正統な行ない』とは、(中略)むしろその目的とするところは、ほとんど独占的な優位を得ていた教養をキリスト者の生活全体の中で位置づけ直すことであり、時にはその優位の排除をも辞さず、何よりもまず、しばしば陳腐な伝統やあいまいな解釈にしがみつくだけのことにすぎないような『正統な教え』にこだわりつづける、強迫的な態度を避けることである。」(p13-14)
 「しかし、教会は何世紀もの間、真理を型にはめることに熱心で、世界をよりよくするためには、ほとんど何もしなかった。言い換えれば、教会は正統な教えの方にだけ集中して、正統な行ないの方は教会外の人々にまかせていたのだ。」(G・グティエレス著、関望・山田経三訳『解放の神学』岩波現代新書、1985年、p13-14)

【論考】

 私の友人(と彼は私のことを言ってくれる。私にとっては「師匠」ということばが近いか)のある牧師が、つい最近「教会で今時、今のままの状態で社会に存在する価値なんかあるのかな?」と言った。私は彼の言葉に返す言葉がない。「私もどこかでそう思っている」からである。
 聖餐式のパンをとれないくらい、今私は、キリスト教と教会に絶望している。その私に「教会」は何もできない。何もできない教会、何もできない牧師、何もできない神は、やはり「何もしない」とは言えないとしても「何もできない」のだ。何もできないものに「価値はある」のか?

 一方で、既存の教会が「何もできない」なら、その問題・課題に気づいた「お前がやれ」という声も聞こえてくるような気がする。また別の牧師から「修羅場を見たあなただからこそ、石ではなくパンを与える牧師におなりなさい。」と言われた。そういうことなのかもしれない。
 
 大学を卒業してから紆余曲折ある中で、派遣会社を通して食品工場で働いていた。そこで派遣仲間として出会った友人は精神疾患とそれに加えまた別の疾病の影響で働くことができない。自宅で親に頼って生活している。どちらの疾病も治る見込みはない(むしろ精神疾患でない方の疾病で産婦人科医師から働くことについてドクターストップがかかっている)。彼女はここ2年ほどで3回、向精神薬の過剰服薬で3回救急車を呼んでいる。意識が回復せず長期入院したこともある。それに対して私は何もできない。今でも毎日のようにかかってくる電話にでることしかできない。彼女も「宗教心」のある人間であるが、それにも関わらず、キリスト教も含め既存の宗教は何もできないだろう。「解放の神学」の舞台である南米でなくても、それと較べて問題が軽かったり重要ではないと感じるかも知れないが、この国でも、この社会でも、教会の中でも、もちろん外でも、歴然と問題はあるのである。
 毎年自死者が3万人を越えるか越えないかというこの国で、本当にそれをとめたい、減らしたいと思うなら「その人の痛みを、気持ちを否定せずに聴く」ことをしなければならない。本当は万人にその役目は課されているといっていいはずなのに、誰もがそれを自覚しない。せめて、宗教者が、教役者が、プロテスタントなら牧師がそれをしなければならないと考える。しかし、その役目を担える人は少ない。その課題を自覚している人は少ない。悲しいほどに少ない。課題を自覚していたとしても簡単にできるわけでもない。
 「召命」を自覚しているなら、「やれ」という声が聞こえる。誰も理解できなくても、誰も私のことを理解しなくても、誰も理解しないからこそ、避けられない十字架を覚悟して先鞭をきってやらなければならないのだ。私が生きているうちに私の願っていることは爪の垢ほどにも実現しないかも知れない。まともに生きて、私の寿命はあと50年といったところであろうか。
 一昨年の夏、三浦綾子『ちいろば先生物語』を読んだ。いいか悪いかはおいて置いて、そこには間違いなく「私の知らないキリスト教」があった。よいか悪いかは判断できないし、するべきではないが、現在のキリスト教会とは別の日本のキリスト教会の姿があり、倫理があった。「50年たったら世界は変わっている」と思わずにはいられなかった。
 今から50年後、どのようにこの社会が、そして教会が変化しているかわからない。できれば成熟して、ありとあらゆる人が「生きやすい社会」になっていてほしいと願う。
 
 グティエレスの「教会は・・・ほとんど何もしなかった。」という言葉は、もしかしたら「希望」を含んでいるのかもしれない。「全く」ではなく「ほとんど」なのである。全くの無力ではなく「微力」なのかもしれない。その「微力」に賭けたいという気持ちはある。それに賭けることができなかったら、もう神学校も辞めなければならない。でなければ不誠実すぎる。

 50年後、成熟した社会をつくっていくために、「生きやすい社会」をつくっていくために、自分の「解放の神学」を構築していきたい。「解放の神学は、中身は自分で調理しなければならない。痛みを伴う人との関わりと、イエスに従うということから『つくっていくもの』」という最後の講義の言葉も、また印象に残った。
 すべては、これからである。絶望に押しつぶされすぎることなく、歩んでいきたい。


 

Clip to Evernote



爽歌*sayaka神学生のホームに戻る

三十番地キリスト教会・礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで(爽歌*sayaka神学生に転送します)→三十番地キリスト教会・牧師あてメール