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贖罪論の限界

2013年10月1日(火) 2013年度 某神学校某科目学期末レポート

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 これは、某神学校の「倫理学」相当の科目の学期末レポートです。教科書であった荒井献・本田哲郎・高橋哲哉『3・11以後とキリスト教』ぷねうま社、2013年、の「討議 3・11以後とキリスト教 1 天罰という考え方」を読み、授業中に発表しました。授業中にあった「問い」にも応答するものを加筆訂正し、学期末レポートとして提出しました。

 今回は、「1 天罰という考え方」(『3・11以後とキリスト教』p149~)、を読み返し「贖罪論の限界」について、取りあげたい。
 まず、「『天恵』論と犠牲の論理」(p149~p166)では、司会者が「3・11後の経験から見えたことの1つは、個人的だった『死の経験』が、共同体的・社会的意味を持ち、権力や国家の問題として浮かび上がるようになったことではないか?」という問いを発するところから始まる。それを受けて、高橋が「東日本大震災の死者たちのことをどう受け止めるのかは日本社会の今後に関わる重要問題」であり、「東日本大震災は、近代日本の歴史、近代世界の歴史のスケールで見ても『その意味を徹底して省察し続けるべき歴史的事件になる』のではないか」と述べている。
 その上で、「犠牲」(サクリファイス)がキリスト教の重要問題としてあることを指摘し、そして国家による犠牲の論理がどのようなものであったか、ということを展開する。要約すると以下の通りである。
 「小泉首相の靖国参拝のことから繰り返し考えたが、靖国神社の問題の本質は『国家と国家が要求する犠牲』の問題である。靖国体制を根幹とする戦前・戦中の国家体制はまさに『犠牲のシステム』だった。国家は犠牲のシステムを公然と教育していた。
 その体制は、敗戦で破綻したかのように見えたが、『沖縄の犠牲』『原発の推進』という国策で、戦後も国家による犠牲のシステムが続いてしまったのではないだろうか。
 犠牲といっても単純ではなく、戦前は『犠牲』が『正統教義』だから隠す必要はなく、公然と『美化・聖化』されていた。しかし、戦後は、人権原則からいって『犠牲』を正当化することはできないから、国家が『犠牲』であることを必死で隠そうとする。』
 そして、「国家から宗教に一足飛びに議論を移すわけにはいきませんが、私はキリスト教や宗教における犠牲の観念は、どうしても死の美化・神聖化のニュアンスを帯びているように感じられるんです。まさにサクリファイス(聖化)ですね。」と指摘する。

 それをふまえ、高橋は、3・11で出て来たものとして「天罰論」があるとする。3・11でも宗教者から「天罰」という発言がでているが、そこで内村鑑三が関東大震災の時に書いた「天災と天罰および天恵」という文章のことがとりあげられる。内村はそこで関東大震災が「天罰」であると受け止めているが、そこにはキリスト教の犠牲の観念がある。それは、「キリスト教の贖罪論そのものの問題性」へと結びつくのではないか、と指摘する。
 それを受けて本田は、「内村鑑三はキリスト教に共通した加害者性を、宗教としての加害者性を、しっかりと引き受けているのではないか」と指摘する。本田は、「聖書のコンテキストを読めば、従来教会が教えてきた贖罪的理解は出てこないという実感がする」と言い、その上で「無辜の方たちが亡くなったということが、なぜ犠牲・代償になるのか。そういう判断は赦せない、と私は思います。」とする。
 本田は、ヨブ記は、「神は与え、神は奪う」という思想の否定だとする。そして「すべてを神様とのかかわりの中で意味づけしようとするのは、教会が持っているもっとも悪い点ではないか」とする。
 荒井は、同時代の類似の思想として、矢内原忠雄の発言があるとする。そして、「国家に身を捧げることが、キリスト教の流れの中には伝統的にあるのかもしれないのです。」とする。その一方、ボンへッファーのように贖罪論の応答としてのヒトラー暗殺計画の例をあげ、国家における犠牲の論理とは別の事例もあることをあげる。
 そして、「パウロは贖罪というとらえ方を原始キリスト教から受け継ぎながらも、十字架の死の意味はそれとは区別されている」ことを指摘する。青野太潮『「十字架の神学」の成立』は、「十字架での絶叫はは弱さの露呈であり、逆にそのことが神の子であったことを示す逆説である」理解をしている。パウロが言いたかったことはこの逆説であり、贖罪は原始キリスト教からうけついだものである、その両者の関係は混在している、とする。コンテキストから踏まえ、贖罪はユダヤ教から受け継いだもの、であるとする。
次に「贖罪への応答」(p166~169)で、荒井は、ガラテヤ書5:1をあげ、「律法からの自由」というものをパウロが言っていると指摘する。それによるとパウロは「愛に生きろ」といっている。そこから出る自由を倫理化していけば、「隣人を愛する、あるいは敵をも愛するということに、そちらの方に賭けるという応答を促しながら赦すのだ」ということになるとする。それを鑑みれば、ホロコーストのような思想は赦されない、パウロの教えとも逆行していると指摘する。
 「『宗教』の功罪」では、高橋は、ここでの冒頭で、「犠牲の論理」はキリスト教に限らず、さまざまなところにあること、キリスト教でもそれがど真ん中に残っていて、死を美化したりすることがある。
その上で「死に向かう論理はイエスから出るのか?」という問いを発している。イエスはいのちを無条件に肯定することが根本であり、なぜそこから「死に向かう論理」がでてくるのか?とする。「犠牲の論理は必ず生き残った者によって語られる。」(永井隆の長崎原爆のとらえ方、靖国神社での死者の美化)「死ななくてよかった」ということも贖罪論や犠牲の論理が入り込めば、そういう単純な感覚も否定されてしまう。
これを受けて本田は、「その通り」だとし、キリスト教は社会に対してすばらしい役割を果たしてきたが、それ以上に害をもたらすという役割をしてしまった。宗教としてのキリスト教とイエスが命がけで伝えたかった事はもう乖離している。解放は「福音の実践」でしか得られない。宗教になったとたん争いが起こり、真理には到達できないのではないか、と指摘している。
荒井もこの点には同意している。
「イエスの人権」(p174~178)で、荒井は、妻、荒井英子の指摘するところを紹介する。「らい・メシア」論(わたしたちの代りにらい者になってくださったというとらえ方)によって、一方で人間の尊厳について描きながら、一方で断種手術をする。そこに乖離がある。らい・メシア論はらい者を神にしてらい者の人権を侵している。
荒井は、これがイエスのついてもいえるのではないか?とする。「イエスの死を贖罪論によって美化することは、やはりイエスの人権を侵すことになります。」と指摘する。
最後に「贖罪論の限界」(p179~184)で、高橋は、ボンヘッファーのような事例をどうように考えるべきかということを話題にする。ボンヘッファーの意思決定の根拠は、きっとボンヘッファーは「キリスト」というだろうが、キリストとは何だろうか。少なくともこれを殉教とたたえてしまうと、「みなあとにつづけ」になってしまい、「それはまずい」と指摘する。
さらに、内村鑑三の議論は「死刑肯定」にも結びついていることを高橋は指摘する。贖罪の論理から死刑肯定が導きだされる。しかし、イエスの教えは死刑に結びつくとは考えられない。キリスト教はそのあたりをもっと議論するべきだ、とする。内村は偉大な思想家であるから、その現代的意味をきちんと検証するべきであり、非戦論者と言われながら、弟子に「戦争にいって倒れてこい」という事実、結果的にはそれが靖国神社や「カルバリ山における十字架」に繋がっていったという現実があるのだから、という趣旨である。
一方、同時代に矢部喜好というセブンスデー・アドベンティスト派のクリスチャンが、良心的平和拒否をしていた事例を紹介している。矢部の例がボンヘッファーの例と同じかどうかはともかく、少なくとも内村鑑三の態度だけがクリスチャンの態度だったとは言えないとする。内村の言説も、矢部の行動もすべて隠蔽せずに受け止めておく必要がある。私たちがそういう場面に直面したときに、どう判断しどう生きるか、それを考えるための参考になるから、とする。

 私は、本田の「教会は、これまで歴史や社会に対してすばらしい役割も果たしてきたけれども、同時にそれ以上に世の中に害をもたらすという役割も果たしてしまったのではないか。」(p173)という言葉に同意する。また荒井の「イエスの死を贖罪論で美化することは、イエスの人権を侵すことになります。」(p175)という言葉にも共感する。
 キリスト教は、イエスの十字架による非業の死を、「贖罪のための神の業」とすることで、結果、キリスト教のうちにある者に過剰な自己犠牲を強いてきた面があるのではないか、と考える。つい最近、教会で映画「パッション」の映像を流していたとき、ふとある女性の信徒が、「わたしこれを観て、苦しくても耐えようと思うようになったの。」という趣旨のことを言っていた。「キリストが十字架にかかられて苦しみに耐えられたのだから、それを模範としよう。」ということなのであろう。その信徒がそのように信じていて、平安を得ることができているのであれば、それを否定するつもりはない。しかし、それが教会や教役者からの「おしつけ」によって、「耐えられないものを耐える」ように仕向けられていたなら、それは「暴力」であるし、十字架による贖罪論がそのように利用されてきたことは否めない。そのような面がありえるならば、伝統的な贖罪論を見直さなければならない。そのような「暴力」は生前のイエスが否んできたものであろう。イエスの死が利用され、イエスの教えから乖離し、それこそ「暴力」のために用いられているとするならば、それこそ「イエスの人権が侵されている」といってよい。
 そもそも十字架は「贖罪」のためなのだろうか。十字架を「神の業」といってよいのか。聖書の中には、初代教会の十字架理解の中に「十字架はあくまで人の業であって、神の業は、十字架をよしとしなかったがゆえの『復活(神がイエスを「起こした」)』というものがあった、という痕跡がある。例えば使徒言行録2章23節(新共同訳「このイエスを神はお定めになったご計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」私訳「神のあらかじめ決められた予定と計画において引き渡された彼(イエス)を律法を持たない者の手を通してあなたがたが十字架につけて殺しました。」)である。この言葉は、「十字架につけて」という言葉によって、「十字架につけて殺した」のはローマであり、「あなたがたが殺した」ということは、「仲間」であるイエスを助けることができなかったという「自己批判」であるとする。ここには「十字架は神の業」というニュアンスはなく、「十字架は人の業」という理解があるという。初代教会の十字架理解もまた、現代の我々が見知っているより多様性に富み、一様ではないということを知らなければならない。
 私個人としても、「神が赦すために、犠牲は必要なのか?」という思いがする。しかも「神の子」である「人間のいけにえ」という残酷極まりないものを神は必要とするのか?とも思う。代償を求める神は、信じるべき神なのか?

 とはいえ、授業中に出された「贖罪論が今日まで残っているのは人々の必要であったからではないだろうか?」という問いにも真摯に向き合いたい。人間が生きていく以上「罪悪感」も生じるであろうし、それゆえ「神の子という究極の犠牲によってすべての罪が赦されている」と信じた方が「生きやすい」というのは正直なところであろう。
贖罪論を「十字架」を根拠とせず構成できないであろうか、ということを考える。十字架によらずとも「神はすでに赦している」のではないか。「イエス・キリストの十字架での贖い」ということを持ち出すまでもなく、神は先行して赦しを与えてくださっているのではないかと、私は旧約聖書を読んでいて思うことがある。ヨナ書ににじみ出ている救済観はそのようなものではないか。神の言葉を受けて、預言者ヨナはニネベに滅びの預言を携えて行くが、ヨナが滅びの預言を行うと「ニネべの人々は神を信じ」(ヨナ3:5)身分の高い者も低い者も悔い改め。それを見た神は思い直し、災いを下すのをやめた。(3:10)また、イザヤ書にも「わたしはあなたを贖う」(イザヤ43:1等)という神の言葉が幾度も幾度も繰り返されている。「赦しを願うまえにすでに神は赦しておられる」ということが旧約聖書からも言うことができるのではないか。
福音書では、罪の赦しと病の赦しが結びついているところがマルコによる福音書2章1~12節(中風の人の癒し)とヨハネによる福音書5章1~15(べトザタの池での癒し)にある。いずれもイエスは罪が赦されていることに言及している。イエスが十字架にかかる前からすでに「罪が赦されている」という記述に注目してもよいのではないだろうか。


 


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