sayaka chapel

ヘンリー.J.M.ヌーエン
『傷ついた癒し人-苦悩する現代社会と牧会者』
を読んで

2014年2月21日 2013年度 某神学校牧会学期末レポート加筆訂正版

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 (これは、某神学校「牧会学」の期末レポートを加筆訂正したものです。課題は、ヘンリー・J・M・ヌーエン(西垣二一・岸本和世訳)『傷ついた癒し人-苦悩する現代社会と牧会者』日本基督教団出版局、1981年、を読んで感想を書くというものでした。)

 ちょうど一年ほど前に、札幌に帰省した。その時会いにいった友人の一人から「ヘンリー・ナウエンの『傷ついた癒し人』を読んだらいい。」と勧められた。昨年秋くらいにたまたま復活書店で古本を見つけてそのままになっていた。この度、やっと読むことができ、よかったと思っている。「傷」、「孤独」そして「癒し」という現在の私のキーワードにひっかかるところがいくつもあったからである。「読め」と薦められたのもわかる気がする。
 通読していくつか胸に刺さる箇所があった。それについて考えてみたい。

 「苦しんでいる人を不安にさせる態度があるとすれば、それは、よそよそしい冷淡さであろう。キリスト教のミニストリーの悲劇は、非常な困窮に陥っている多くの人が、注意深く聞いてくれる耳、支援の言葉、許しの抱擁、力強い手、優しい微笑みを求めているのに、あるいはまた、もっとなすべきであったのにすることができなかった無能さを、たどたどしい言葉で告白しようと思っているのに、彼らの牧師が、しばしば自分の手を汚したくないので、遠くの方にたたずんでいる人のように見えることである。そのような牧師は、愛情や怒り、敵意や同上の感情を表現することのできない人、あるいはそれを欲しない人なのである。」(p104)
 「このような牧師にはなりたくない」ということをまず思いたい。何よりも自分自身が「苦しんでいる者」であって、善意の人の心からの心配を受けとりたいと思っているのにそれを受けとることができない者であった(いや今もそうである)ということを忘れることがないようにした。「感情を表現できない」というのは人間としての限界であり、ゆるさなければならないところも多いだろうが、後半の「それを欲しない人」というのは、「そんな人は果たしているのだろうか?」と思う。牧会に出て現実に打ちのめされ心が冷え切ってしまった牧師は、もしかしたらそのようになってしまうのかもしれない。それだけは避けたいと願う。
 その隣の頁には「巻き込まれることなしには人は救えない」ということが述べられている。この本の中心的なメッセージのように思われる。そしてそれは、その通りであり、牧師になるなら「巻き込まれる覚悟」をもった牧師でありたいと願う。
 「指導者が自分の個人的な感情や態度で、助力関係を妨害していないかを注意する必要を十分に強調した後に(中略)巻き込まれることなしに、人はだれも助けることはできない。全人格をもっと苦しむ情況に立ち入ることなしに、感情を害され傷つけられ、途中で殺されそうになる危険を犯すことなしに、人は他者を助けることは不可能であるという、基本的原理を再建する必要があるように思える。すべてのキリスト教的指導性の最初にして最後の基本は、あなたの生命を他者に与えよという点である。真の殉教とは、泣く者とともに泣き、笑う者と共に笑い、自分自身の苦痛と喜びに満ちた経験を、他者のそれの明確化と理解のための源泉として提供することから始まるのであり、この証しの意味を自覚せずに殉教について考えるのは、逃避にすぎない。」(p105)

 牧師は「傷ついた癒し人」である。「彼は他の人びとのために、解放の最初の痕跡を明白にする責任を負っているので、彼が必要とされる時が来ることを予期しつつ、彼自身の傷を注意深く包まねばならない。彼は、傷ついた癒し人と呼ばれる。つまり彼は、自分自身の傷の手当てをせねばならないと同時に、他の人びとの傷を癒す備えをしていなければならないのである。」(p115~116)
 その一方、傷に拘泥することの危険性も指摘されている。「他方、霊的露出症を弁護するために、傷ついた癒し人の概念を誤用することは非常に簡単である。牧師が自分自身の個人的な問題を説教で語ったとしても、それは彼の会衆には何の役にも立たない。(中略)この霊的露出症は、新しい展望を創る代りに、不信仰に不信仰を重ねて、偏狭さを創り出す。むき出しにされた傷は、癒すどころか臭くて鼻持ちがならない。」(p124)
 端的にいうと「傷は共感するためにあるのであって、傷を持ち出せばそれだけで癒えるのではない」ということなのだろう。「傷をさらけ出される不快感」ということに対して私は鈍感であるし、「人の傷を見るのが好き」であるゆえに、自分の傷もさらしてしまっているのでろうと述懐する。心に刺さる一言である。

 最後に傷が癒されなければどうなるのか、傷を癒すにはどうすればいいか考えたい。
 「この話は、私たちが自らの罪を忘れることは、罪を犯すより大きな罪である、ということを示している。何故そう言えるのか。それは、忘れ去ったものは癒すことができないし、癒されない者は容易により大きな悪の原因となるからである。」(p148)
 「この隠れた場所で、つらい思い出は癒されることからまぬがれて多くの害をもたらすのである。」(p152)
 「しかし、思い出さないことによって、忘れ去った記憶が独立した力となり、人間としての私たちの働きを疎外する効果を発揮することを許しているのである。(中略)苦しい思い出に直面することを拒否することによって、私たちは心を変え、悔い改めて成長する機会を逸するのである。」(p152~153)
 だから「傷は癒されなければならない」という。忘れようとすることで、無自覚な害をもたらすことをありえるということである。
 傷が癒されるにはどうしたらよいか、ということについては、このような記述がある。
 「私たちの傷つき痛んでいる記憶は、どのようにして癒されるのか。まず第一に、それを手元に置くことによって、忘却の片隅から引き出すことによって、また私たちの生活経験の一部として思い起すことによって、私たちは癒されるのである。忘れ去ったものはもはや手元にはないし、手元にないものは癒されえない。」(p153)
 その上で、牧師の役割は「過去の傷ついた記憶にふれ、恐れずにそれを光の中に取り戻すことができる場を提供することである。」とする。さらに、「人間の物語と神の物語とを不断に結びつけることである。」(p155)「日々私たちが聴かされている数多くの痛ましい傷は、孤立から解放され、神の私たちに対する関係の一部分として示されるのである。癒しとは、私たち人間の傷が、神ご自身の苦難に最も密接に結びついている、ということを明らかにすることを意味している。」(p155)そして、「私たちに痛みをもたらす、忘れられた思い出を、自己中心的な、個人的な、私的な領域から引き上げることによって、イエス・キリストは私たちの痛みを癒し給うのである。彼はそれを全人類の痛みに結びつけられる。そしてその痛みを自らに引き受け、変え給うたのであった。だから、癒すということは、もともと痛みを取り去ることなのではなく、私たちの痛みはより大きな痛みの一部であること、私たちの悲しみはより大いなる悲しみの一部であること、私たちの経験は『キリストは必ず苦難を受けて、栄光に入るはずではなかったのか」(ルカ24:26)と言われたお方の大いなる経験の一部であることを明らかにすることなのである。」(p155~156)
 苦痛が「神の物語の一部」であり、痛みを全人類の痛みに結びつけ、それをキリストが引き受けてくださった-そしてそれにより癒されるのである、という結論は、ともすると「苦痛を正当化する」または「苦痛を強いる」ことにつながりかねない恐ろしさを感じ、完全に同意できるわけではないが、「記憶を明るみに出すことで癒しが起こる」ということは確かなように思う。
 牧師の働きのひとつが「癒し」であるならば、真剣に自分の傷と記憶と向き合い、真剣に傷の癒しを願わなければならないと感じた。


 


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