sayaka chapel

いのちの方を選ぶ道

2011年7月7日(木) 某神学校修養会 朝の礼拝説教

説教時間:約5分

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〔旧約〕 ミカ書6章8節(新共同訳)

 人よ、何が善であり
 主が何をお前に求めておられるかは
 お前に告げられている。
 正義を行い、慈しみを愛し
 へりくだって神と共に歩むこと、これである。

〔新約〕 ヨハネによる福音書14章5節~14節(新共同訳)

 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
 フィリポが「主よ、わたしたちに御父を示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
 わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないのなら、業そのものによって信じなさい。
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとに行くからである。
 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
 こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


  東日本大震災からもうすぐ4ヶ月になろうとしております。あの日、あらゆる人がそれぞれの場所で体験したことを、今でも手に取るように思い出せると言う方も、少なくないのではないでしょうか。3・11は多くの人にとってわすれることができない日になった・・・。それは間違いないでしょう。
 私は、あの日から決定的に何かが変わってしまった・・・そして、あの日以前にはもうもどることができないという感覚があります。3・11の前と後で何が変わったのか・・・簡単には言い尽くすことはできませんが、直接被災した人もほとんど何もなかった人も、日常が壊れる体験をしたあの日から、やはりあの日以前にはもう戻れない、変わってしまった日常の中で、世界の中でどうやって生きていくべきか、頭に上ったのではないか・・・と私は思っています。
 日常が壊れてもう戻ることができない、と思わされた一つの大きな原因は、原発事故だと思います。今まで日本では体験したことがないような大きな事故・・・連日のようにテレビから映し出される映像に不安を感じないはずがなく、またそのニュースの中で伝えられることも歯切れが悪く、政府も電力会社も何か重大なことをかくしているんじゃないかという疑いがぬぐえず、安全だ、安全だといいながら、実はもう人が住めるような状態ではないのではないか・・・と思わされてしまいます。本当のことはわかりませんがそういう思いにかられてしまいます。
 震災被害や原発事故への対応がすべて後手後手に回っていて、この期に及んで小さくされた人との願いに応えられないのかと、漠然とした、どこにぶつけたらいいかわからない怒りがこみあげてきます。もう取り返しのつかないことが起こってしまった。そして、そこから向きを変えられず、-そこから、というのは「死」といってもいいのではないかと思いますが-滅んでいくのではないかと思わされるのです。
 そのような時だからこそ、そのような世界だからこそ、そのような私たちの日常だからこそ、「死」ではなく「命」の方を選んでいく、どの道が、人の命を生かす道なのか、選んで行動する必要があると思うのです。

 本日の聖書で、イエスご自身が、自分自身のことを「道であり、真理であり、命である」といい、また「私をとおらなければ父の元にいくことができない」と言っています。
 宗教的にイエスが神であると信じれば救いがある、彼岸的救済というか、天国にいけるとか・・・そういう風にここは読まれてきたし、キリスト教という宗教である以上そのような読み方も悪くはないと思います。しかし、イエスの生き方そのものが神の御心にかなう道であり、真理を反映し、そして命を大切にしていく生き方である、と言い切ってもいいのではないでしょうか。
 福音書を注意深くよんでいけば、十字架にかけられる以前のイエスが、誰とともに生き、誰の願いこたえ、癒しを行っていたかよくわかると思います。イエスは社会の中で小さくされた人と共に生き、その願いにこたえ、癒しを行っていた・・・そのことは明白でしょう。
 私たちにはイエスのような劇的な奇跡を起こす力はありません。しかし、小さくされた人の願いに寄り添い、それに応えていくことによって、命を与えられているひとりひとりを大切にすることで、小さな奇跡といっていいようなことを起こしていける、そう信じています。
 今こそ、命の方を選ぶ決心をしましょう。

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