sayaka chapel

夢を見よう

2011年9月4日(日)主日礼拝説教

説教時間:約20分

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〔旧約〕 ヨエル書2章21節〜3章2節(新共同訳)

大地よ、恐れるな、喜び躍れ。
主は偉大な御業を成し遂げられた。
野の獣よ、恐れるな。
荒れ野の草地は緑となり、木は実を結び、いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。
シオンの子らよ。
あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。
主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。
元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
麦打ち場は穀物に満ち、搾り場は新しい酒と油に溢れる。

わたしがお前たちに送った大軍、すなわち、かみ食らういなご、移住するいなご、若いいなご、食い散らすいなごの、食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
お前たちは豊かに食べて飽き足り、驚くべきことを、お前たちのために成し遂げられた主、お前たちの神なる主の御名を、ほめたたえるであろう。
わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
イスラエルのうちにわたしがいることを、お前たちは知るようになる。
わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。
わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない

その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

〔新約〕 マタイによる福音書7章7〜12節(新共同訳)

求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物くださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思う事は何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。


老人の夢

 おはようございます。
 私は、8月1日から、教会実習、夏期伝道実習でこの教会で奉仕をしております。実習の一応の期限は9月の15日です。夏休みいっぱいこちらにとどまることができそうなので、15日を超えてまだいるつもりですし、実習の期限からいっても、私にとっては、今回の実習を総括するにもまだ早いですし、まさか、決別説教なんてまだできる気持ちにはなれません。与えられた時に感謝し、約1カ月をこの地に置いていただいた中での恵み、そして、願いを今日は分かち合っていきたいと思います。
 26日、K牧師がここでコンサートをしてくださいました。私はなんとなく受付にいて、立ちながら手をたたきながら見てました。最後のほうでK牧師が「夢を聞かせて」という曲をうたってくださいました。実は、その前日、9月4日に礼拝説教をせよ、とY牧師から言い渡されまして、ああどうしよう、休暇前後に、最後の説教はこういう話になるかなと考えていたことが、いろんなことがあって、ああこの聖書と説教題でそのまま話すことはできないなあと・・・と思っているところでした。そんなときにその「夢をきかせて」という歌を聞いた瞬間・・・これだ、と思いました。ひらめいた、というより、降りてきたという感じです。忘れないうちに与えられた説教題を目の前にあるボールペンをつかんで左腕に書きました。「夢を見よう」と。
 
ヨエル書の3章1節にはこのように書かれてます。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。息子や娘たちは預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」夢を見ること幻を見ることは何が違うのでしょうか。聖書の世界では、夢も幻もだいたい同じ意味でつかわれているようです。
 しかし、ここで
「若者は幻」「老人は夢」と言われていることに着目したいと思います。私の思う幻とは私たちが生かされている人生の中で、突発的に来て、爆発的に人間を行動に移させるもののような気がします。これは人生を生き急ぐ若者の動きのようです。私の、先ほどの説教題がコンサートの中で降りてきた、そういうことは幻といっていいと思います。一方夢は、もっと長期的展望を描かせるもので、未来の青写真、もしくは神から「あたえられた「預言」に近いのではないかと思わされます。このような長期的な展望を描けるのは、長い人生を送ってきた、「老人」ではないでしょうか。

願う人がいなければ

 本日はもうひとつ聖書を読んでいただきました。マタイによる福音書の7章7節から12節までです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。求めよ、されば、与えられん。私から特にいうこともないくらい皆さんご存知のみ言葉ですし、教会にいったことのないような人でも耳馴染みのある言葉ではないでしょうか。
 今日読んでいただいた中にこういう言葉がありました。
「パンをほしがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚をほしがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は求める者に良いものをくださるに違いない。」(9節、10節)
 私たちは「み心ならかなえてください」という祈りをします。当然と言えば当然です。神の御心に沿わないものであるならば何を願っても叶わないということを知っているからです。ただ、そう思ってしまって、これはだめかもしれないと願わないというのはよくないといます。この被災地にあるせっぱつまった状況の中で本気で祈る、願う、それも、自分のことしか考えない祈りではなく、教会のことを思い、地域のことを思い、知っている人のことを思う祈りが、み心に叶わないわけがないと思います。
 わたしたちの神は「パンを願う者に石を与えるようなことをしない神」であり、「魚をほしがる者に蛇を与えない神」です。パンと魚、というのは日常の食べ物であり、本当に必要なものだというのは争いがないと思います。私たちの命、存在に必要なものは必ず与えられます。
 またそれは、求める者、探す者、門をたたく者、同じ人がやらなくていいのではないかと思うのです。それぞれに神から与えられた賜物があって、「あなたは夢をみなさい」、また別の人には、「あなたはその人の願いに寄り添って実現させなさい」とそれぞれに求められていると思います。
 ただ、夢を見る人、願う人がいなければそもそも夢はかないません。何を知っているか、何を持っているかではなく、何を願って、どのようなあり方で生きるのかが、問題であって、それは神からどのような場面であっても、何を願っていくかは私たちに一生涯かけて問われていることではないでしょうか。

傷によって共に生きる

 先週の日曜日28日には結婚式がありました。U牧師の元同僚の方の結婚式で、教会はバルーンアートで飾り付けをされました。花嫁も、花婿も、牧師も、出席している人も、こんな笑顔みたことないよといういい顔でした。本当に。
 特に、U牧師は・・・もちろん古くからの友人の結婚式というのもあるのでしょうけれど、少なくとも私が実習に来てからこんないい笑顔を人にむけたのははじめてなんじゃないかというくらい、笑顔で奉仕されてました。赤テントにずっと来てくださっているKさんもこんないい顔で笑ってるのみたことないよというくらい・・・でした。
 壁の無い教会の中であげる結婚式に神の光を見た思いがしました。私も、自分が牧会に出た時に、こんないい結婚式礼拝、できないだろうな・・・と思わされるくらいでした。
 しかし・・・説教の副題、おぼえておられますでしょうか。「今日を最良の日としないように」・・・これは、結婚された2人だけでなく、教会にむけられた、神の言のような気がしています。あの結婚式の日が、この教会にとって最良の日だった・・・ついつい言いたくなるくらいいい日だったし、いい結婚式でした。結婚式があったってなくたって、いつでも「最良の日」になるように・・・ここにつどうすべての人が笑顔になれるように・・・そんな夢をみてもいいのではないかと思います。
 震災による津波でこの教会も大きな痛手を負いました。傷ついた教会、傷ついた礼拝堂で今日もこうして礼拝を守ってます。この一か月で、思わされたことというより、説教準備をする中で気付かされたことがあります。それは、この教会に招かれる人は、牧師、教会員、津波、で被災した人、そうでない地元の人、そして、外から来るボランティア・・・それぞれが、多かれ少なかれ傷を持っている、傷を負っている、ということです。傷を持っているという点で私たちは集められるべくして集められたのだと思います。
 週報に下手くそなイラストを描かせていただきましたけど、手話でイエスを表現するときに、手の平の中心にこのように中指をつけて、手のひらに傷のある男、とするそうです。そこに、イエスは傷をもって復活されたという信仰が告白されていると思うのです。
 イエスが傷をもって復活した、ということは、私たちが、自分自身が持っている傷によって、共に生きるようになるため、自分自身が持っている傷、残り続ける傷によって、互いに共感して、互いに苦しんで、共に歩み、私たちはそれぞれ違うけれど、その違いを認め合ったまま、同じ夢をみるために、・・・それを示すためだったのではないしょうか。
 ヨハネ福音書の20章にあります、イエスが復活したということを信じないトマスにイエスは自分の手と脇腹の傷をしめして、信じる者になりなさいと諭す話があります。ヨハネ福音書にしかない話なのですが、この物語をみて、イエスは傷をもって復活されたのだろうとしみじみ思います。何度も聴いている話です。しかし、何度も聞くべき話なのだろうと思います。イエスが傷をもって復活したことを心に刻むために。
私の夢は・・・夢を見るには若すぎるのかもしれませんが、召されていく先々で、「壁のない教会」をつくっていくことです。カトリックだろうが、プロテスタントだろうが、特定の宗教を持たない人だろうが、気軽に来れて、重荷を下ろせて帰ることができる場所にしていきたいです。教会を「知恵なる神の開かれた家」にふさわしいところにしたいです。
 津波が来て壊れたものを人が壊すのは難しいかもしれません。しかし、それこそが、神により頼んで求める「願い」であり、見るべき「夢」だと思っています。
 傷だらけの壁のない教会で、夢を見ましょう。
 祈祷いたします。

祈り

 イエスがすべての命の源である神さま
 今日、こうしてみ前に集められ、あなたをほめたたえ、またあなたのことを思うときをあたえられましたことを感謝いたします。
 私たちは、私たちひとりひとりが持つそれぞれの傷のゆえに、このところへと集められました。あなたは、その傷によって、私たちが共に願い、ともに生きることを望まれていると確信します。
 どうかそのみ旨が、あなたによって、あなたの業によって、あなたの御手によって、実現されますように。そして、これから私たちが願うべきことをあたえてください。
 この地に置かれている教会の宣教が祝福されますように。牧師をはじめ、ひとりひとりとともに神さま、あなたがいてくださいますように、せつに祈ります。願えば叶う神の国をここに実現させてください。
 津波によってこの教会の壁は崩れました。地域との壁がくずれ、ひとりひとりのこころの壁も崩れました。この壁が崩れたままでありますように。また、この世界にあるすべての諸教会にある地域との壁、人と人との心の壁を、とりはらうことができますように。
 この祈りを尊き救い主、イエス・キリストのみ名によってお捧げします。
 アーメン。

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