sayaka chapel

あなたがたと共に、信じてかつ疑う者と共に

2012年6月27日(水) 

 "Sayaka Chapel"入口に戻る
三十番地キリスト教会・礼拝堂に入る
三十番地キリスト教会・案内図に入る
 

招詞:イザヤ書43章18-19節b

 初めからのことを思い出すな。
 昔のことを思いめぐらすな。
 見よ、新しいことをわたしは行なう。
 今や、それは芽生えている。
 
聖書:マタイによる福音書28章16-20節(新共同訳:新約p.41-42)

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
聖書:私訳

 さて、十一人の弟子たちはイエスが彼らに命じた場所である山に登った。そして彼ら(弟子たち)は彼(イエス)を見てひれ伏した。しかし彼ら(弟子たち)は疑った。そして(イエスは)彼ら(弟子たち)に向かってきて言った。天の中と地の上の権威は私に与えられた。行ってすべての民族を弟子にしなさい。彼ら(すべての民族)に父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けて。私が命じたすべてを守ることを彼らに教えなさい。そして見よ、私はあなたがたと共にいる。すべての日に、世の終わりまで。

 


 今学期の新約聖書原典講読は、新約聖書の復活の記事を通説の年代順に読んでいくことになりました。本日の聖書であるマタイの復活の記事を読んだときのことです。ギリシャ語のY先生が、こう言いました。「あなたがたとともにいるって書いているでしょ。『あなた』ではなく『あなたがた』なんですよ。クリスチャンはひとりじゃだめなんですよ。」その日の夕方、オルガンの練習のためにこの礼拝堂に入りました。薄暗い中でふと、聖餐卓のレリーフが目にとまりました。ずっと読めなかったレリーフのギリシャ文字をやっと読むことができました。Idou ego meth’humon eimi ・・・これはマタイ福音書の最後の弟子たちへの約束の言葉であった・・・「見よ、私はあなたがたと共にいる」(マタイ28:20直訳)ということに気がつきました。そのとき、改めて「いつか教会に戻らなければならない。」と思いました。

 その頃、昨年秋から6ヶ月間通っていた出席教会を辞め、特定の出席教会を決めずしばらく「のら」になろうと決め込んだところでした。理由をかいつまんでいえば年明けからの体調不良で、神学生として奉仕することが私の中でできなくなったからでした。日々の奉仕に追われる牧師の姿を見て、「忙しい牧師の足をひっぱる神学生なら、いるべきではない」と思ったこと、もっと言うなら、信仰が壊れ、教会に対する全幅の信頼を失ってしまった状態で、また人間的な内実が全く伴っていない自分自身をして「神学生と見られるのがこわかった」から逃げ出した・・・すべて私の弱さがゆえのことでした。あの教会でなくても辞めることになったと思います。牧師も教会員も、私がなぜやめたのか本当のところはわかっていないでしょう。離れてみて、「居るだけでよかった」、居るだけでそれなりに喜んでもらえていた、居るだけでそれなりに愛されていた、なによりそれを信じることができなかった、・・・そのことに気がつきました。私が突然離れることを決めたゆえに、多くの人を悲しませたと思っています。

 少なくとも「神学生として見られる」ことに私の中で恐怖を感じなくなるまで、次の出席教会は決められないと思いました。献身前には「あくまで私はこう思う。こう信じる。」と言えていたことが、「神学生として見られている」ことで言えなくなりました。牧師だろうが神学生だろうが、神の前では平等ですし、一人の人間ですから「自分を無にして聖書を読む・信仰を語る」ことは不可能で、どうしてもその人の価値観が入り込みますし、またそれが人間の持つ信仰の「面白さ」でありましょうが、この神学校ではある意味あたり前のその「価値観」が、現実の教会では「通用しない」と正直思いました。牧師が権威を持つように、神学生も権威を持ってしまう・・・もしかしたら私の錯覚かもしれませんし、むしろ錯覚だと思いたかったし、また、もし「権威」があったとしてもそれは間違いなく徹底的に「仕える」ための「権威」なのですが、「私が誠実にあくまで私の信仰で、私の価値観で語っているものですから・・・」というつもりで言ったとしてもそうは取られず、それがひとつの「価値判断基準」となってしまう。極端な話、私が「嫌いだ」と言って切ってしまったものが、ある人には「救い」になるかもしれないわけで、私が一つの読み方を選ぶだけで他のものを結果的に切り捨ててしまうことになる・・・その現実が、私にとってはおそろしくて仕方ありませんでした。

 しかし、その「あなたがたと共にいる」というその御言葉を、新約原典で読んだ直後の日曜日、出席教会が決まりました。この神学校からいちばん近い教会で、次の出席教会は現実的にはここだろうと考えていた教会でした。手持ちのお金もつき、そろそろ行ってみようかくらいのつもりで行きました。その教会の牧師は札幌時代にお世話になったある牧師と同じ教会に居た人で、またその教会に出席している教務教師は母教会の牧師と神学生時代、神学校は違えど同じ出席教会だったということもあり、なんとなく気楽に話せる人で、また昨年度中国語の授業を聴講に来られていた婦人がいらっしゃったり、なんとなく親しみがありました。規模も母教会に近いような気がしました。今までそこを出席教会にしなかったのは、先に通っていた神学生もいて、また母教会とはカラーの違う教会に行きたかったというのもあって、結果的に避ける形になっていました。

 朝、教会の玄関につくなり、牧師に「やっと来たか。待ってたよ。」と言われました。礼拝堂の後ろの席に座っていたら涙があふれてきました。牧師に声をかけられ、礼拝前の子ども会をしている部屋に連れていかれました。子どもがシャボン玉で遊んでいました。礼拝後、子ども会のスタッフ会に出て欲しいと言われました。スタッフ会が終わった後、役員会に呼ばれました。固定の出席教会にまだするつもりはなかったのですが、とりあえず来年三月まで出席神学生として奉仕することになりました。右にも左にも行けない状態の私に、うかがい知れぬ力が働いて、転がっていくような感じがしました。神さまに「のらは許さねえ。」「ひとりでいることは許さない。」と言われたような気がしました。

 次の週、説教を聞いて号泣してしまいました。説教の中で東日本大震災のことが語られたからです。昨年夏の夏期伝で見たものとオーバーラップして涙があふれてとまりませんでした。礼拝後の報告で、牧師から挨拶を求められ、静まりかえった会衆の前で泣きながら挨拶をしました。
 そのあと、二人の婦人に声をかけられました。一人は高齢の元牧師婦人でこの神学校に大変思い入れのある方でした。もう一人は会計の役員をしている婦人で、ひとしきり私の話を聞いてくださり、泣きじゃくる私を抱きしめてくれました。どちらの婦人にも「1年と言わずずっと居て。」と言われました。また中途半端に投げ出したらいろんな人を悲しませることになる・・・今度は辞められないと思いました。

 考えてみれば、この教会はこの神学校の「お膝元」の教会で、この神学校の諸行事には駆けつけてくださる方の多い教会です。昨年の入学式で「神さまとけんかしに来ました。」と泣きながら挨拶する私を見ていた方もいる、私が昨年学報に載せたものを御覧になってくださっている方もいる・・・「神学生」として見られているとしても、それに「この神学校の」と頭につくことで、これほど安心できるところはないのかもしれないと思いました。
やっとひとりの信徒に戻ることができるかもしれないと思いました。もう一度、少しだけ「教会」を信じてみたいという思いに至りました。

 イエスが「あなたがたと共にいる」と約束してくださった「あなたがた」とは誰のことだったのでしょうか。言うまでもなくその場にいた11人の弟子たちのことです。本日の聖書には、彼らは「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(17節)とあります。ここは「そして弟子たちはイエスを見てひれ伏した。しかし弟子たちは疑った。」とも訳せるところでもあります。その場にいる全員が信じて、その場にいた全員が疑ったとも読むことができます。癒しと共食の宣教を行ない、十字架につけられて殺され、三日目に神によって起こされる、その一連のイエスのご生涯すべてといっていいほどのことを間近でみているのにも関わらず、弟子たちは疑います。その疑う弟子たちに、イエスは「あなたがたと共にいる」と呼びかけられるのです。また他の福音書に比較すると、マタイにはイエスの昇天の記事がありません。かつて「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とかつて言われたように、死から起こされたイエスは、イエスを信じてひれ伏し、かつ疑う弟子たちと共にいるのです。

 人である以上、信じているけど疑うのは自然の姿のように思います。疑わずに信じ切っているという信仰というのはありえないのではないでしょうか。そして、「ひれ伏すほどに信じているけれど疑う」という信仰に大いに恵みがあるように感じます。
今日も「信じてかつ疑う者たちの中」にイエスはいるのです。

 祈ります。
 すべての命の源である天の神さま。御名をあがめて賛美いたします。
 今こうしてマタイ福音書から聞き、信じながらも疑う弟子たちに「あなたがたと共にいる」とイエスが言われた通り、私たちにもまた「信じながらも疑う」信仰を示してくださりありがとうございます。これからも疑いながらも信じ、神と人と教会に仕えていくことができますように導いてください。
 この祈りを死んで起こされた私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。
 アーメン。



“Sayaka Chapel” 爽歌*sayaka神学生のホームへ

“Big Chapel” 礼拝堂/メッセージライブラリに戻る
“Small Chapel” 小礼拝堂/ショート・メッセージ・ライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール