sayaka chapel

わたしの隣人とは誰ですか?

2012年8月5日(日) 
日本キリスト教団久米田教会 主日礼拝説教

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聖書:ルカによる福音書10章25節~37節(新共同訳)

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 


 おはようございます。某神学校2年の爽歌*sayakaです。
 某神学校には「社会実習」といいまして、教会の業として社会事業を行っている施設、団体で、夏休みに一カ月程度実習させていただくという科目があります。その社会実習のために、教団部落解放センターに来させていただきました。期間は8月いっぱいです。7月30日に大阪に来て一週間になるところですが、楽しく過ごさせていただいております。
 私は北海道出身で、それこそ某神学校に入学するまでのまるまる26年間、北海道から出たのは高校の修学旅行だけ、というありさまで、大阪に来るのは初めてです。こんなに長く「西の国」にいるのも当然初めてで、部落解放センターの近くのスーパーに買い物に行くたびに、「ああ、北海道にも東京にも売ってないものが売っている」とか、「みた事がない自動販売機にあまりなじみがない飲み物が売っている」と毎度毎度驚いています。
 まだ一週間で奉仕らしい奉仕をしているわけでもなく、生野の超教派の教会のキャンプである「生野つながりキャンプ」に出させていただいたのと、本日の礼拝説教が本当に目に見える奉仕らしい奉仕でうれしく思います。
 本日の聖書はルカによる福音書10:25節から37節を与えられました。誰でも一度は聞いたことのある「善いサマリヤ人のたとえ」ですが、ここから聞き取ったことをわかちあっていきたいと思います。

 私は、2003年ですからもう9年前になりますけれど、大学1年のときに教会に導かれました。生まれて初めて出席した礼拝での聖書箇所がこの「善きサマリヤ人のたとえ」でした。札幌の南の方にある夫婦で牧師をしている教会でその日は女性教職の方が説教者でした。大学1年の5月くらい、大学は私学の法学部でしたけれど、その生意気な法学部生は、そこで語られる説教の社会性に、「教会って、こういう面白い話がきけるところなんだ」と感銘を受けました。そんなことは覚えていますが、どういう話だったのかはさっぱりおぼえていないのが残念です。ただ、もうひとつ覚えていることがあります。それは、「このような問答があったら、私も『わたしの隣人とは誰ですか?』と問い返すだろうな」と思ったことです。
 それから3年たって、2006年のイースターにその教会で洗礼を受けることになりました。信仰告白を書いて、水をかけられたあとにそれを会衆の前で読み上げるのが母教会の洗礼式のスタイルなのですが、その信仰告白の終わりに「好きなみ言葉を一つ選んで、信仰告白の最後に言ってね。」と主任牧師に言われていました。そうして選んだのが
マルコによる福音書12章33節でした。
 
「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
 「律法学者にこのように言わせた神さますげえ!!」といいますか「宗教的儀式、いけにえよりも、神と人を大切にするということの方が勝っている」ということを律法学者に心から告白させた神の業に驚くと共に、福音書に描かれる律法学者のいくらきいても見てもわからない頑なさに自分と重なるものを感じておりましたので、せめて私もイエスさまにほめてもらえる―何が大切なのかをわきまえている「律法学者」になりたいものだと思って、ここを選んだつもりです。以来、「愛唱聖句は?」と聞かれたら、この「マルコ福音書の12:33」と答えています。

 さて、このサマリヤ人のたとえでおなじみのルカによる福音書10章25節から37節は、マタイによる福音書22章34節から40節、およびマルコによる福音書12章28節から34節と並行記事であると言われています。
 マタイに描かれているお話も、マルコに描かれているお話も、律法学者が「どの掟が最も重要(マタイ22:36)ですか?」と尋ね、それに対しイエスは、ユダヤの律法の精神そのものと言っていい申命記6章4~5節を印象し、さらにレビ記19章18節を重ね、この二つが最大の掟である、という形で答えています。
 一方、ルカ福音書の記事は、まず、律法の専門家から
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカ10:25)という問いかけがあり、イエスはそれに対し、ラビが弟子を教育する時のような形で「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」(26節)と問い返します。それに対し、律法の専門家が申命記とレビ記から引用して「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)と答えます。
 「いちばん重要な掟」をイエスが述べるのか、それとも律法学者が答えるのかが、マタイ・マルコとルカの最大の違いなのですが、これに関しては、ルカが最もオリジナルに近いのではないかと言われています。

 ルカ福音書をさらに読み進めていきましょう。律法の専門家がこのように律法から正しい答えを導きだすと、イエスは
「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(28節)と答えます。それ対して律法の専門家は「では、わたしの隣人とはだれですか。」(29節)とイエスに問い返します。ルカ福音書の著者は、この律法の専門家のこの言葉を「彼は自分を正当化しようとして」(29節)と評価していますが、私は、これの「正当化しようして」という記述を見て「ルカさんひどいなあ。」と思います。
 このような問答をしていたら、自分と相手の言葉づかいというか、概念の違いに気が付いたら、それについて問い直すというのが誠実な態度であるとするならば、この律法学者はその違いを理解しようと誠実に問い返しているように思えます。聖書にも触ったことがなく、キリスト教というものをろくに知らないで初めて礼拝に出席した生意気な法学部生が「私も当然にそう聞き返すだろうなあ。」と思ったように、正当化でもなく、「自分の方が当然正しい。」という態度でもなく、「違うということがわかるからお聞きしたい。」という態度だったのではないだろうかと思うのです。
 また、ルカ福音書の記述を信用すると、この律法学者とイエスの問答は、10章のはじめの「72人の派遣」(10:1~12)の記述、そして、その72人が帰ってきて、宣教の実を報告する記事(10:17~20)等のあとにあります。ルカ福音書の著者は、この律法の専門家は、少なくとも72人の派遣の宣教のことを見聞きしていたという風な書き方をしています。律法学者がその場にいて、その宣教の成果を見聞きしていたのであれば、なお一層のこと、ただ単に「自分を正当化しようとして」とは言いきれない「何か」が律法の専門家の中にわき起こったのではないかと感じるのです。「明らかに自分とは違う隣人概念を持っている、それを実践している、そしてそれは自分が持っているよりも明らかに広い。」と感じたら、やっぱり聞くだろうなと思うのです。
 記事の中に直接書いているわけではありませんが、イエスも、また72人の派遣された弟子たちも、垣根を超え、既存の道徳をも超え、律法によって罪人と呼ばれている人たちが集まり、そして罪人と呼ばれる人たちと共に食事をして、癒しを行い、神の国がすでに来ていることを述べ伝えていたことは確かでしょう。既存の道徳、律法を文字通り命がけで守っていると自負している律法の専門家にはやはり驚くべきことであり、「何が違うのか」当然に疑問に思うでしょう。

 こうして律法の専門家の
「では、わたしの隣人とはだれですか。」(29節)の問いかけから、よく知られる「善いサマリヤ人のたとえ」が始まります。
 ある人が、エルサレムにからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺しにされて放置されます(30節)。放置されているその人を見て、祭司とレビ人は
「道の向こう側を通って行」きました(31,32節)。そこに、ユダヤ人が差別してやまないサマリヤ人は、そばに来て、「憐れに思い」(33節)、ここに書かれている通り個別具体的に処置をして、倒れている人を助ける、というたとえ話です。
 律法で、死体、血液に触れると「汚れる」ということが決められています。祭司やレビ人は「汚れ」てしまうと日用の奉仕ができなくなります。それだと仕事にならない訳です。その追いはぎに襲われた人は、服をはぎ取られ、殴られ、半殺しにされているわけですから、遠くから見ると死体に見えたかもしれませんし、わかりやすく血を流していたのかもしれません。
「道の向こう側を通って」というのは、彼らにとっては、律法に鑑みて恥じる事のない正しい行動でした。
 それに対してサマリヤ人は、
「憐れに思って」(33節)、もしかしたら「自分のように愛する」ということを超えるくらいの助け方をこの人にしました。この「憐れに思って」という言葉は意訳で、文字通りに訳すると「腸を突き動かされて」とか「腸をひきちぎられるような思いで」という風になるでしょう。少なくとも日本語の「憐れむ」ということを超えた、もっと切迫した、もっと切実なニュアンスを含んでいることは確かです。「この人をほっておいたら死んでしまう」と長いことばで考えたかどうかもわからないくらい・・・若者ことばでいえば「やばい」でしょうか。

 34節、35節を見ると、そのサマリヤ人は、
 「近寄って、
 傷に油とぶどう酒を注ぎ、
 包帯をして、
 自分のろばに乗せ、
 宿屋に連れて行って介抱した。
 そして、翌日になると、
 デナリオン銀貨2枚を取りだし、
 宿屋の主人に渡して言った。
 『この人を
 介抱してください。
 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」


 傷に油とぶどう酒を注ぐというのは当時の応急処置であります。また、デナリオン銀貨2枚を、とありますが、デナリオンは当時の1日の労働賃金と同じ額だと言われています。2日分の労賃と同じ額を先に渡して、さらにかかったらさらに払うというのです。
 そのことを含めて考えても、見ず知らずの他人のためにここまでできるだろうか?と考えあぐねてしまいます。「憐れむ」「腸を突き動かされる」ことはこういう事だということを示されています。
 このたとえをイエスは語った上で
「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(36節)とこの律法の専門家に問い返します。論理的にも感情的にも、このサマリヤ人しか隣人になったと言える人がいません。
 この律法の専門家が
「この人を助けた人です。」(37節)と答えたとき、どのいう思いを持ったのでしょうか?
 私には、この律法学者の涙が見えるような気がします。この律法学者は、イエスに律法を超えて、ある面捨てて、隣人のために具体的に行動しなければ、「隣人を愛する」ということは達成できないということを突きつけられています。「最大の律法、神と人を愛するということを達成するためには、律法の細則を破れ」という風に聞こえない訳でもありません。律法の遵守が何よりも大切で、もっともこだわるべきであり、アイデンティティそのものであったこの律法学者にとって、律法を文字通り守ることが命そのものである訳です。自分の中で何かつき崩れるものを、この律法学者は感じたのではないでしょうか。

 よい話の代表例である「善いサマリヤ人のたとえ」は、よくよく読み進めてみると、厳しいものをはらんでいます。
 今日も、私たちはイエスに問われています。「あなたの隣人とは誰ですか?」と問い返されています。自分たちに都合のいいような隣人概念をつくってないだろうか?自分たちに都合の悪い人間を排除していないだろうか?自分が愛せる人しか愛していないのではないだろうか?と自問するのです。
 たとえの中に出てくる「憐れみ」は、ましてすべての人を隣人として。この憐れみを、腸が突き動かされる程の憐れみを、本当の意味で持つことが出来るのは神だけかもしれません。はたして人が、腸をつき動かされる愛を、限りなくすべての人に持つことができるのか、疑問です。しかし、それが、イエスにとってひとつの理想の愛であり、その中に神の国があり、「永遠の命」と言い切ってよいものがあると、いうことはできるでしょう。
 いつも「わたしの隣人とは誰ですか?」と神に、そして自分自身に問うものでありたいと願います。

 祈ります。
 すべての命の天の神さま、御名をあがめて賛美いたします。
 あなたは私たちに、常に「隣人とは誰か」と問われています。私たちもそれに答え、あらゆる人の隣人となっていくことができますように、限りなくすべての人に、どんな献げ物やいけにえに勝る愛を行うことができますように、そこから逃げることがないように、助け導いてください。
 語る時を与えてくださり感謝します。この久米田教会に集うおひとりおひとりをあなたがかえりみ、また、この教会の宣教の業が祝福されますように祈ります。
 言い尽くしえません願い、感謝を、ここに集うすべての人の願い、祈りに合わせ、私たちの救い主、イエス・キリストによって御前にお捧げします。
 アーメン。



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