sayaka chapel

教会が必要なくなるその日まで

2012年8月12日(日) 
日本キリスト教団いずみ教会 夕礼拝説教

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聖書:エレミヤ書31章31~34節(新共同訳)

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 


 本日は夕礼拝の説教奉仕に招いてくださり、ありがとうございます。某神学校2年の爽歌*sayakaといいます。某神学校の「社会実習」で野崎にあります教団部落解放センターで8月末までの一カ月間実習させていただいております。出身は北海道で某神学校に入学するまでずっと北海道で生まれ育ちました。某神学校に入学するまで、北海道から出たのは高校の修学旅行で東京、奈良、京都を回った時だけで、大阪に来たのはもちろん初めてです。「西の世界」にこんなに長くいるのも当然はじめてで、見るものすべてに驚いています。
 先週、キリスト教学校人権教育セミナーという主にキリスト教主義の学校の先生が集まって人権教育の課題を分かち合うという趣旨のセミナーに実習の一環で参加させていただきまして、その2日目にフィールドワークで釜ヶ崎の街を歩きました。
 昼食は新世界の昼間開いていた食堂にそのフィールドワークに参加した人たちと共に入って、私は天ざるを頼んだんですが、注文を受けてくれたお姉さんに「うどんにしますか?そばにしますか?」と聞かれました。天ざると聞いたら蕎麦だろうという先入観が私の中にあったので、うどん・・・と聞いて一瞬驚きました。あまり北の世界では聞かないように思います。そして、お蕎麦がきたのですけど、薬味の中に殻の上を切った生のうずらの卵がありました。これにも驚いて、思わず携帯で写真を撮ってしまいました。おいしかったですけど、うずらのたまごを蕎麦のたれの中に入れるという発想がやはりなかったので、驚きました。

 本日の聖書は、エレミヤ書の31章31節から34節が与えられました。この預言から、神の願い、キリスト教会の持つべき役割について、ご一緒に考えていただきたいと願います。
 本日読まれたこのエレミヤの預言、何度読んでも、聞いてもじんとくるものがあります。
「新しい契約」(31節)とは、キリスト教徒にとって、イエス・キリストの生涯と十字架の死、そして復活によって示された神の御心と救いの約束です。イエスの言葉とふるまいにそれはすべて現わされています。
 そしてその契約は、
33節「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す。」とあります。その律法は、石盤に刻まれたものでも、聖書の文字の羅列でもなく、神の民であるその人の心に刻まれ、生きて働き、律法を受けたものを動かすというのです。そして34節で、「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。」と言われます。「主を知れ」と教え合う必要がない。すべての人が神を知って、新しい律法によって神の御心を生きているから・・・と述べられているのです。
 この預言の言葉が成就する日が一日でも早くきたらいい、とさえ私は思います。教会が「主を知れ」「イエスの生涯と教えと業とを知って行え」とわざわざ宣言しなくてもよい、そんな日がいますぐにでも来てほしいとさえ思っています。
 「イエスが再び来られて、新しい天地が与えられて、永遠に神の国が来る」という文字通りの「再臨」の教義を信じることは私にはできませんが、「いつか終わりが来る」「いつか神の御心がなって、すべてが完成する時が来る」という希望を持ち、この地上に一日も早く神の国の平和が実現するために、イエスの言葉とふるまいとを宣べ伝えるのが、ひとつ教会の役割なのではないでしょうか。
 教会は、イエスのことばとふるまいによって示された福音を告げ知らせる、もっと言うならば「神と人を愛する」ということ、これがもっとも大切な掟であるということを宣言することが教会の存在意義であって、教会という組織を残したり、大きくしたり、ということが本来の目的ではないことをわきまえておく必要があるように思います。福音を宣べ伝えるのが教会であり、教会を大きくするのが教会の目的ではありません。教会を大きくするとか受洗者を増やすためというのは、何か違和感があります。

 それでは、「主を知る」とはどういうことでしょうか。
 まず、「主がどういう方であるか知る」というのがあげられます。
 主である神とはどういう方であるのか、
出エジプト記の3章を見てみましょう。みなさんよくご存知の「モーセの召命の記事」です。3章7節で、モーセを招いた方がこのように言っております。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」
 ・・・ここで描かれている神は、エジプトの地より、抑圧を受けている民の苦しみをつぶさに見て、痛みを知って、その民の解放を決意する神です。小さくされた人の本当にすぐ傍にいて、その苦しみをつぶさに見て、叫び声を聞く神です。遠く離れたところではなく、すぐ傍にいる神です。すぐ傍にいると言いきれるのは
「つぶさに見、叫び声を聞き」という表現があるゆえです。苦しむ人のただ中にいなければ、このようなことはできないからです。
次に「主が何を願われているのか」という点から「主を知る」ということを考えてみたいと思います。そこで読まなければならないのは
創世記の第1章です。美しい韻文で神の創造の業をたたえるこの詩の中で、創造の業を終えられた神の言葉としてこのようなことが書かれています。31節「神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」神は「極めて良かった。」とご自分の業を称賛されます。「極めて良い」というようにこの世界を創造されました。「極めて良い」と言えないこの現実世界において、「極めて良い」世界を願い、そこに戻していけるよう、働き、願うのが、ひとつ教会の役割のように思います。

 さらに、イエスの宣教から「主を知る」ということを考えてみたいと思います。
 イエスの生涯と宣教、ことばとふるまい、十字架の死と復活、そのすべてに神の御心が現れているとキリスト教では教えています。
 福音書の記述を信用するならば、イエスは本当の父親がわからない子としてこの世に生を受けました。ルカ福音書の記述によると、住民登録のためにヨセフの故郷のベツレヘムに里帰りをしたのですが、身重の臨月の母親を泊めてくれる宿もなく、家畜小屋で生まれざるをおえませんでした。神の子はもっとも小さく、もっとも弱い、人の助けが無ければ生きることさえできない赤子の姿を通してこの世に与えられたのでした。
 成長し、石切りであったと言われておりますけれど、その家業を捨て、宣教を始めたイエスは、「癒しと共に食事をする」ことによって「宣教」を行いました。
 共観福音書と呼ばれる3つの福音書に共通して、12人の弟子を選び、宣教の業につかせる話があるのですが、例えば、マルコによる福音書の中にこのような記述があります。
 
12・13節「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って、多くの病人を癒した。」
 「悔い改めさせる」の「悔い改め」とは後悔するというよりも「生き方の方向転換」をするという意味です。また、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。」とあるように、言葉によって教えるというより、具体的な業、癒しが伴う奇跡によって宣教をしていたということが福音書から読み取れます。

 イエスを知る上で必要なエピソードは枚挙にいとまがないのですが、マタイ福音書から可能な限りあげていきたいと思います。
 まず、9章9節から12節で、マタイという徴税人が、イエスの弟子となり、その家でイエスは食事をしていたとあります。
「徴税人や罪人も大勢やってきて、イエスや弟子たちと同席していた。」(11節)それを見て、ファリサイ派の人たちが非難をします。イエスはこれを聞いて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。『わたしが求めるのは憐れにであって、いけにえではない。』というのはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(12~13節)
 「わたしが求めるのは憐れみにであって、いけにえではない。」という言葉はホセア書6章6節からの引用です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)
 ここで言う罪人とは、簡単にいうとさまざまな事情から律法を守れず、社会から排斥された人たちのことです。職業差別であったり、病であったり、また貧しく罪を清める儀式の為に用いる動物を買えず、汚れを引きずったまま生きざるを得ない人たちのことです。
 イエスは「罪人を招くために来た。」と言いました。また、イエスもその弟子たちも社会の中では罪人と蔑まされた人たちであったというのも想像に難くありません。そのイエスがホセア書の預言の言葉を引用して「必要なのは愛であっていけにえではない」、儀式ではなく憐れみであるのだ、ということを示しています。

 また、
18章12節から14節にこのようなたとえ話があります。「あなたがたはどう思うか。ある人が、羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 多数派ではなく、少数派である方を積極的に選ぶ生き方をこの言葉によって指し示しているのではないでしょうか。多数決ではない、また「多い方がよい」というこの世の価値観に対抗して「一匹」を選ぶことができる生き方を示すのは「教会の存在意義」ではないでしょうか。

 また「神の御心を行う」ということに関して、直球で述べられているように思うイエスのことばに
マタイ福音書25章31節から46節があります。かいつまんでいうと、終わりの日にすべての民族が集められて、「羊」のグループと「やぎ」のグループにわけられ、羊のグループが「人の子」にほめられ、やぎのグループが神に叱責され、裁かれるというお話です。王である人の子は羊の人たちにこのように語りかけます。
 
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに助けてくれたからだ。」(34~36節)
 その人たちは身に覚えがないと言います。それに対して王は
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)と言います。
 ここではっきりと、「最も小さい者のひとりにしたのは神にしたことである」と述べられていることに着目したいと思います。しかも神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と言っています。小さくされた人が「神の兄弟」と言われていることを覚えるとき、世にあって小さくされた人のために、小さくされた人の本当の願いにそって、その願いにこたえることが神の御心です。これも、教会が宣べ伝えなければならない大切なことです。

 イエスは、文字通りの律法の遵守にこだわる律法学者や権力者には、手厳しかったようですが、一方、イエスの優しさが垣間見られる記事も有ります。
マタイ福音書の15章の32節から39節にいわゆる「四千人の共食」の記事ですけれど、その記事の冒頭は、このように書かれています。「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。』」(32節)
 イエスはそう言って、弟子にパンはいくつあるのかたずね、7つのパンと小さい魚があるとわかると、感謝の祈りを唱えて裂き、弟子たちに渡すと、そこに居た人たちは満腹したと書かれています。
 ここにいる群衆とはどのような人たちだったのでしょうか。やはり、その社会の中でさまざまな事情で小さくされ、イエスの宣教の他、頼るものがない人たちが圧倒的なのではないだろうかと私は思うのです。
 イエスは、やはりその人たちの苦しみ、悲しみをつぶさに見ていたと思います。「かわいそう」という言葉は、その人たちの傍にいたから出た言葉であると思うのです。「かわいそう」という言葉自体は遠いところからでも言えるのかもしれませんが、ここでのイエスの「かわいそう」はそうではないと思うのです。その「かわいそう」という思いから、祈ってパンを裂き、分け与えるという具体的な行動に出ているからです。単なる同情ではなく、群衆が願っていた、群衆にとって必要なことをイエスはしました。「群衆にとって」というのが大事な点だと想います。「自分はこうすべきだ」「こうあるべきだ」というおしつけではなく、その人たちの本当の願いに沿って行動することが本当のことで、イエスはそれができる人でした。

 そのイエスも最後には世の権力者に嫌われ、十字架刑という大変苦痛を伴う、そして忌み嫌われる刑罰でむごたらしく殺されてしまいます。福音書の中で、雄弁に語り、数々の奇跡を行い、癒しの徴を行ったイエスのこの最後の死にざまを考えるとき、やはりイエスも踏めば簡単につぶされざるを得ない弱く小さくされた人だと言わざるをえません。そのイエスを神は復活させるのです。その神もまた、十字架からイエスを救うことのできない無力な神でした。その無力な神はイエスを復活させることによって、イエスの言葉、振る舞い、生き方すべてを肯定したのでした。生まれおちてから十字架で殺されるまでのイエスの生涯すべてを神は認めたのでした。
 そのイエスには傷が残っていたとヨハネ福音書に書かれています。24節から29節の、疑い深いトマスが、イエスの手の釘の跡に手をいれなければ、脇腹に手を入れなければ、イエスの甦りを信じないとだだをこねる話です。のちにイエスはトマスにも現れ、ご自分の手と脇腹の傷を示して、トマスに
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)と勧めます。
 なぜ、イエスが傷をもって復活したのか、神が傷を消さないで復活させたのか疑問に思います。完全な甦りというのなら、傷のない身体でもいいのではないかとも思います。そこに私たちの取るべき生き方が示されているように思うのです。それは「傷によって共に生きる」ということです。生きている中で、すべての人と言いきっていいと思いますが、傷を負う事になります。そして、その傷が癒え切ることはきっとないのだろうと言えるでしょう。それぞれが持つ「傷」によって、共感して、愛し合って生きる、そんな生き方に招くために、イエスは傷を持って復活したのではないかと思うのです。

 聖書の中から語りつくすことはできませんが、「主を知る」ということのほんの一部を示そうと挑戦したつもりです。
 よく、「聖書は今でも新しい」と言われます。私も、聖書にとりつかれて献身した者のひとりです。しかし、一方で「聖書がいつまでも新しい」ということは不幸なことではないかと思うのです。聖書が記述された頃と、現代では、実は人間の中身が変わってないということなのではないでしょうか。
 「奴隷は現代にはいない」と言いますけれど、はたしてそうだろうかと思うような現実が転がっています。原子力発電所を維持するために、釜ヶ崎や山谷の寄せ場から半分だまされるように連れて来られる日雇いのおじちゃんたちが、被曝をさけられないような作業のさせられ方をして、殺されていっています。そういう例をあげるまでもなく、巷には非正規雇用の若い労働者があふれていて、先の見えない働き方をしています。私もかつて、という程そんなに昔ではありませんが、食品工場で働く派遣労働者でした。類は友を呼ぶのか、その派遣労働者時代にいっしょだった友達たちは今も非正規雇用で働いていたり、持病を悪化させたりしております。どうにもならない現実が転がっています。

 先週、キリスト教学校人権教育セミナーの分科会で、生まれて初めて釜ヶ崎の街を歩きました。職安、炊き出しをする公園、支援をするNPO、シェルター、そして、飛田遊郭をまわるたった三時間の出会いでしたが、消化できないほど、いろいろなことを考えさせれています。
 講師に釜ヶ崎で生きる日雇い労働者の方が来てくださったのですが、その方が言われた最後の言葉が、刺さるように印象に残っています。
 
「この街に来る人は、競争が好きではなく、誰かを蹴落としてまで生き残ろうと思わない人たちで、競争になじめないからここに来た。そして、釜ヶ先に残っている人は誰かを蹴落としてまで勝ち残ろうとは思わない優しい人たちだ。勝ち残ろうとする人はこの街に流れ着いても出ていく・・・」
 本当にその言葉通りなら、これほどやりきれないことはありません。「優しさ」ゆえに不当な苦しみを受けている・・・そんなことがあってたまるかと思うのですが、その現実を認めざるを得ないのです。
 優しい人が、不当に苦しめられることのない世界をつくっていきたいと願います。優しい人が、イエスのように人の苦しみがわかる優しい人たちが、苦しめられることのない世界が実現するとき、今日聞いたエレミヤの預言が本当の意味で成就する日なのだろうと思います。その日まで、本当の意味で、聖書から読み取らねばならないことを読み続け、発信していくために、教会は必要です。いつか聖書が読まれる必要がなくなる日まで、教会が必要なくなるその日まで。

 祈祷します。
 すべての命の源の天の神さま、御名をあがめて賛美します。
 今日聞いた預言が一日も早く実現しますように、「主を知れ」と教えあう必要のない日がきますように、本当の意味で神の御心を知っている人に仕え、神の国の実現のために、送り出してください。
 神と人を愛するということをいつも刻み、そこから逃げることのないようにしてください。
 言い尽くしえません願い、感謝を、ここにいるすべての願い、祈りに合わせて、私たちの模範である、キリスト・イエスの御名によって祈ります。
 アーメン。



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