sayaka chapel

慰めの共同体

2012年10月14日(日) 
爽歌*sayaka神学生出席教会 神学校日礼拝奨励

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聖書:イザヤ書40章1節~3節(新共同訳)

 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。


聖書:コリントの信徒への手紙(Ⅱ) 1章3節~7節(新共同訳)

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。



 

 すべての命の源であり、そして慰めを豊かに与えてくださる神の御名をあがめます。
 某神学校2年の爽歌*sayakaといいます。今年の5月の第2週からこちらの教会に出席させていただいております。本日は、神学校日礼拝ということで、このように御言葉の取り次ぎの機会を与えてくださりありがとうございます。本日はイザヤ書とコリント人への第二の手紙から御言葉をいただきました。これらの聖書から聞きながら、私が何を思い、何を願い、何を考えながら神学校に居続けているのか、お話しさせていただきたいと思います。
 S牧師から「神学校日どっかいくの?」と聞かれ、「いるんならやってよ」の一言で、本日の説教となりました。聖書箇所を決めるにあたって、「なぜ私が今、この教会に行かせて頂いているのか」「S牧師と自分のつながりは・・・」なんてことをぼんやり考えていました。9月の4週にあった毎月恒例の教会のお近くの特別養護老人ホームへの讃美歌奉仕に参加させていただいたのですが、そのために教会へ向かう道すがら、札幌時代に毎週木曜日の聖書研究会に行っていた他教派の教会の牧師のことを思い出しました。
 その牧師はTさんというお名前で、その牧師がS牧師と私との「共通の知人」でありました。神学校へ行きたいということを本気で考えるようになった頃、そのT牧師から「某神学校いいんじゃない?そこにはS君っていう僕の友達がいるからなんかあったらきいてあげるよ。」と言われたことも、私の某神学校進学を決める一つの要素となりました。
 大学に入ってすぐ後に受洗教会となる日本キリスト教団の教会に行き始め、そこに通いながら大学3年の秋くらいからか、その牧師の聖書研究会に受洗前から神学校に行くまでの5年ほど通うことになりました。今までの人生の中で唯一ケンカをした牧師でした。その牧師の聖書の読み方に10回に9回は腕を組みながら反発しながらきいていたのですが、10回に1回ほど響くことがあり、涙することがあり、通い続けることになりました。
 ある日、この第二コリント書だったと思いますけれど、T牧師がこんなことを言いました。十回中の一回の響いた言葉で、心に残り、今も私の中で教会というものを考える上で大切な言葉のひとつとなりました。「教会も人間の集まりでいろいろあるけれど、最後には慰めが与えられるのが本当の教会なんですよ。」
 本日読まれました新約聖書の中で、パウロは次のように述べています。
 まず、神について、
「わたしたちの主、イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」(3節)と神を賛美します。その言葉に続いて「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちに及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストに満ちあふれているからです。」(4-5節)と述べます。ここでの「わたしたち」とは、この箇所の直前、第二コリント書の冒頭に書かれてあるところからパウロとパウロと共に伝道旅行の道の上にいた「兄弟テモテ」(1節)のことだとわかります。続いて6節から7節にかけて「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの救いと慰めになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」とあります。「あなたがた」とはこの手紙の送り先である「コリントにある神の教会とアカイア州の全地方に住む全ての聖なる者たち」(1節)です。
 パウロはまず、神が慰めを豊かにくださる神だということを賛美の言葉によって証しした上で、キリストを信じ、宣教することで生じるありとあらゆる苦難があるからこそ、その苦しみによって多くの人を慰めることができるとのべています。そしてその苦しみはキリストの苦しみであり、その苦しみによってキリストに満ちあふれた慰めを得ていると語ります。パウロたちが受ける悩み苦しみが、コリントの教会に連なるひとりひとりの慰めと救いになり、また、パウロたちが受ける慰めがコリントの教会にいるひとりひとりの慰めになると語ります。さらに、それによってパウロたちが受けている迫害の苦しみと同じ苦しみとコリントの教会に連なるひとりひとりが耐えることができるというのです。そして、パウロはコリントの教会に連なるひとりひとりが、パウロたちと苦しみも慰めも共にしていることを信じています。
 ここで「慰め」という言葉について考えてみたいと思います。ここで「慰め」と訳されている言葉の元の意味は「側へ助けを呼び寄せること」であり、懇願、頼み込むこと、願い、励まし、慰めることという意味を含むものであるようです。またパウロは第二コリント書の中でこの「慰め」という言葉を、人間が危機に陥ったときに与えられる神からの豊かな助けであるという意味で使っています。それは神が働きかけてくださるという体験、苦難が祝福になるという体験であり、信仰には人を慰める力があることを示しています。
 こちらの教会に通い始めて今週でちょうど6ヶ月目に入りました。その前は、ある別の教会に今年の4月まで約6ヶ月間、出席させていただいておりました。前の教会に通っていた日々とだいたい同じくらい、こちらに通っていると思うと、時の流れの早さを感じます。
 4月、イースターの次の週の役員会で、前の出席教会の出席神学生であることを辞めさせていただきたい旨を告げました。昨年の夏期伝で東日本大震災のある被災教会に行ったのですが、そこにいって以来、ずっと「後遺症」に苦しみ続け、精神と体調に異常を来し、また信仰が壊れ、神学生でいる根拠を失い、神学生としてみられる事に恐怖を感じ、絡まっている糸をほどくことができずはさみで切るように、逃げ出すように辞めることになりました。イースター礼拝の日、牧師のささいなひとことから夏期伝の間のことを思いだしフラッシュバックを起こしてしまい、こんな些細なことでフラッシュバックを起こすならやめたほうがいいと思ったのが辞める直接のきっかけとなりました。
 被災地から神学校に帰って来てから、ずっと自殺を回避するための行動を私なりにとり続けていましたが、今年に入って精神状態が悪化して、2月にはほとんど睡眠がとれなくなり、眠れないまま単発派遣の仕事に行ってその仕事をクビになって、もう後がないと思いました。もう神学校のあの桜の木にひもをかけて首をくくろうと思い、結局twitter上に自殺予告ツイートを流して、ネット上では「早まるな」といろんな人に声をかけられ、またそのつぶやきを見ていたある方が寮まで来てくださって思いとどまったということもありました。それだけ追いつめられていました。
 夏期伝では、「私が福音だと信じていること」に従って行動していたつもりです。それが否定されるような二ヶ月を過ごしました。「私が最初に聞いた福音が間違いであったら殺してください。」とまだ神をまがいなりにも信じていた時には祈っていました。そのうち、神の像すら描けなくなりました。
 結局、教会を飛び出したのは、あの夏期伝以来、教会が慰めの共同体であることを信じることができなくなってしまったからでした。あの教会が悪いわけでもなく、あの牧師が悪いわけでもなく、むしろよい教会で、良い牧師でした。きっとあの教会でなくて別の教会に行っていたとしても同じように逃げ出すことになっていただろうと思います。牧師も教会員も、私がなぜ辞めたのか、本当のところはわかっていないでしょう。私の弱さゆえに多くの人を傷つけたと思っています。
 出席教会を辞めた後、少なくとも神学生として見られるのが恐くなくなるまで特定の出席教会は決められないと思いました。しかし、あの教会をやめてから3週目にこちらの教会に行ったら、そのまま出席神学生になることになりました。現実的に次の出席教会はここだよなとは思っていましたけれど、もう少し彷徨ってから出席教会にと考えていました。でも、出席神学生になるのは勘弁してくださいよと言える気力すらなく、また、きっと私自身も教会に戻りたかったという思いもあったのでしょう。そのまま通わせていただくことになりました。
 この半年を振り返って見て、この教会に通い出して、教会の中で慰めを得ることができるようになったように思います。
 前の出席教会に通わせていただいている間は、やはり「神学生として見られている」という気負いがあったのでしょう。着ていくものは襟の付いたものしか着ていけなくなっていました。今は、今日は説教奉仕ですからこんな格好していますけど、母教会に通っているときと同じようにTシャツとジーンズで教会に通うことができるようになりました。
 この教会に連なる多くの方によって慰めを与えられています。前出席教会を辞めた後、現実的に次の出席教会はここだろうと思ったのは、この教会に連なる方々の中に、つながりのある方が少なくなかったからです。主任のS牧師もそうですけれど、某神学校の理事で関連幼稚園の園長のH先生は私の某神学校入学式のときに、神学生時代に私の母教会の牧師であるF牧師と同じ教会に通っていたと教えてくださり、またH先生のお嬢さんと私が同じ「さやか」というお名前のようで、すぐに名前を覚えてくださり、以来いろいろ気にかけてくださっていました。Iさんは某神学校の語学の授業に聴講に来られていて、昨年、中国語の授業で苦楽を共にしました。あの授業で勝手に共に苦しんでくださったと思っていますので勝手に親しみを持っていました。
 うれしかったことがあります。先週の教会バザーの前の週に子ども会で、バザーのポスター作りをしたんですけど、そのときに、Mちゃんというの女の子が「爽歌さん、半分やって」と声をかけてくれました。それがとてつもなくうれしかった。その一言で、なんというか、素朴に「ここにいてよいのだ」という思いが与えられました。先週のバザーのあと、Mさんに声をかけられました。Mさんとはこのとき初めてお話しさせていただいたのですが、そのときこんなことを言われました。「あなたの最初の挨拶のときね、本当に感動したんだよ。被災地の教会でのことをきいてね・・・あなたの優しさに感動した。」みなさんの前で挨拶させていただいたのが5月の礼拝のあとでしたが、その時の説教でS牧師が東日本大震災についての説教をされて、それを聞いて、夏期伝での2ヶ月を思い出し涙が止まりませんでした。その礼拝後の挨拶で「夏期伝で教会というものに対する全幅の信頼というものを失ってしまった。これからそれを取り戻していきたい。」という趣旨のことを言ったことは覚えています。その挨拶の言葉の何かしらが響いたのでしょうか。驚いたのは「優しさに感動した。」と言ってくださったことです。「優しい」とはよく言われましたけど、「あなたの優しさに感動した。」といわれたのは初めてだったからです。また、学報読んだよ、とかここには書ききれないくらいたくさんの言葉を多くの方にかけていただきました。教会というものを信じられなくなっている私に、それらのひとつひとつのことが、教会からの慰めを信じさせてくれることになりました。
 先週の日曜日、ある教会の礼拝に出席させていただきました。「教会のバザーの前日準備があるのに何をやってるんだ」とお叱りを受けるのを承知でそちらにお伺いしたのは、その日、ある方の洗礼式があってそれにどうしても立ち会いたいと思ったからでした。実は、私は『信じる気持ち』という日本キリスト教団教団出版局から出された入門書の著者で富田正樹という同志社香里中・高校の宗教主任が「牧師」をしている「三十番地キリスト教会」というインターネット教会で「実習神学生」という設定で、今まで神学校や実習先、前出席教会の子どもの教会での説教や今まで神学生という立場で書かせていただいた「エッセイ」を載せていただいています。そのネット教会に「東京在住の方でお住いから近いところで教会を探している」というご相談があり、関西地方にいる富田牧師は東京のことはわからないので、「爽歌さん、この人が安心していける教会はありませんか?」とご相談を受けていました。「この人が安心できる教会」ということを言われたのは、そのネット教会にご相談のメールを送られた方が、お連れ合いに先立たれて、悩んでいるときに保守的な教会にいかれていたらしいのですが「亡くなったお連れ合いは洗礼を受けてないからその方の魂はどこにいるかわからない。」と言われて落胆されているので、「洗礼受けてないと天国いけないなんてつまらないこと言わない牧師や教会」というのが必須の条件でした。お住いの地名を聞いた瞬間「あ、I先生。」と思いました。I先生というのは、前出席教会の前任牧師で、今年度はその教会の代務をされている牧師です。前出席教会にいる間に、牧師から、また信徒さんからI牧師の数々の「伝説」を伺ってましたので「この人なら洗礼受けてないから天国行けないなんてつまらないことをいわない」という点では確信を持っていました。そして、富田牧師にその旨お伝えするメールを返信しました。それが七月くらいだったと思います。
 それから少ししてまた富田牧師からメールが来ました。その方がその教会に導かれて洗礼を受けたいという希望をI牧師に伝えて近いうちに洗礼をお受けになる予定だという趣旨でした。驚きました。本当に驚きましたけど、久しぶりに自分のことのように嬉しい出来事でした。
 このたび洗礼をお受けになる方も私のことは知らないでしょうし、いきなり行ったら気持ち悪がられるかもしれないという危惧を抱えながら、手紙を書いてお伺いしました。礼拝後、ご本人と少しお話しできました。そしてまた驚くことを聞かされました。それは、そのネット教会に載せて頂いた私の説教が、その方にとって富田牧師にメールを送るきっかけとなったということでした。その説教は、6月に神学校の学内礼拝で話したもので、聖書はマタイ福音書の大宣教命令のところ(マタイ28:16~20)でした。その説教の趣旨をかいつまんでいうと「17節の『イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。』という言葉は直訳すると『彼らはイエスに会いひれ伏した。しかし彼らは疑った。』とも訳せる。そこにいる弟子たち全員が全員がひれ伏したのに、全員が疑った、とも読める。疑いながら信じるということに恵みがある。」というものでした。その説教は、某神学校の同窓会があって教師は出張でおらず、学生の出席も少なく誰も聞いていないに等しいものでした。それがネットの海に浮かんだときに、その人の背中を押すきっかけとなったひとつとなったことを知って、驚きました。用いられたと思って涙があふれました。
 そもそも、私があの教会に行ってなかったらI先生を紹介できなかったわけです。悲しいこともあったけれど、すべてが用いられて、報われて、受け入れられたという思いに至りました。神さまがどこから介入されていたのかなんてわかりません。もしかしたらすべては偶然かもしれません。たとえ、私がいなくても、神さまは別の方法でその方を救ったでしょう。しかし何であれ私にはそれが神から受け入れられていることのひとつの徴だと思わされていて、そのことがとてつもなくうれしかったのです。私の躓きの中で書き起こされたものが、誰かの救いの一ピースになっているかもしれないと思うことができたとき、本当に生きていてよかったと思うことができました。私がぶつかりながら、躓きながら生きていくことがこれからも誰かの救いの歴史のための一ピースになるかもしれないと気づかされたとき、これからも生きていかなければならないと思いました。
 先ほど第二コリント書の中の「慰め」について述べましたけれど、私はこの慰めの中に、当然のように「受け入れられる」というということが含まれているように思うのです。私が慰められた体験として共通するのは「私の思いが受け入れられた」ということ、「私の言葉が受け入れられた」ということ、そして、「私の存在を受け入れられた」ということです。慰めのひとつに「ありのまま受け入れられる」ことが含まれるのだと思います。それは、あの夏期伝以来信じられなくなった「私が聞いた最初の福音」でした。
 かつて教会に慰められた者として、そして今も慰められ続けている一人であるゆえに知恵なる神の開かれた家であり慰めの共同体である教会を信じます。その慰めの共同体である教会に寄与するために献身しました。私に召命なんてものがあるとすれば
「生き長らえて神の御業を語り伝えること」(詩編118編)「行きたくないところへつれていかれる」(ヨハネ21:18)ことです。これからも自分の脆さ、弱さと共に、躓きながらも生きることを諦めずに、神と人と教会を愛し、仕えます。
 教会は、慰めの共同体です。

 祈ります。
 全ての命の源であり、慰めの源である神さま、御名をあがめて讃美いたします。
 このように語る機会を与えてくださりありがとうございました。
 慰めはあなたの御手のわざであることを信じます。そして教会はあなたの慰めの担い手であることを信じます。そのことを折に触れ、これからも心から信じ、神と人と教会に仕えていくことができますように導いてください。
 本日は神学校日礼拝でした。吹けば飛ぶような神学校が多くの人の祈りと働きによって支えられていることを覚えます。どうか某神学校のために祈り、支えてくださる多くの人をあなたが顧みてください。
 この教会のために祈ります。私に改めて神からの慰めを教え直してくださる教会になりました。どうかこれからもこの教会の宣教が祝福されますように、本当の意味で命と平和のために仕える教会とならせてください。牧師、教会員をはじめ、あなたの御前に集っているひとりひとりを顧みてください。健康が守られますように、またお一人お一人の真摯な願いを聞き入れてください。
 この祈りを尊き救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。



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