sayaka chapel

誇りを大切にするということ

2012年10月16日(火) 
某神学校実習報告礼拝説教


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招詞:ローマの信徒への手紙12章15節(新共同訳)

 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
 賛美歌 21・486 飢えている人と


聖書:マタイによる福音書5章6,7,10節

  (新共同訳)
 義に飢え渇く人々は、幸いである。/その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである。/その人たちは憐れみを受ける。
 義のために迫害される人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである。

  (本田哲郎訳)
 解放に飢え渇いている人は、神からの力がある。/その人は満たされる。
 人の痛みが分かる人は、神からの力がある。/その人は自分の痛みを分かってもらえる。
 解放をこころざして迫害される人たちは、神からの力がある。/天の国はその人たちのものである。


 

  今年の夏期実習は、大阪の日本キリスト教団部落解放センターでした。
 7月30日から8月31日までのほぼ一ヶ月を、今まで行ったことのない大阪で過ごすことになりました。実習に行く直前、熱中症になってしまい、体調芳しくないまま大阪に行くことになりました。キャンプに行って帰ってきて風邪を悪化させ声がでなくなるなんてこともあり、また、一ヶ月も気温が30℃を越えるようなところに住んだことがなかったので連日夏バテ状態でした。体調が戻ったころには帰ることになるというありさまで、実習は体調不良とのたたかいでした。
 部落差別問題は私にとって「接点」の無いものでした。生まれ育ったところが北海道で部落差別は「ない」と言われているところです。高校の修学旅行で京都に行ったとき、バスに「部落差別をなくしましょう」という広告のステッカーが貼ってあるのを見て、「この時代にまだあるのか?」と正直そう思ったほどでした。「部落出身」という方に出会ったこともなく、「生まれたところで差別する」「『御先祖様』で差別する」部落差別は「なんでそんなことで差別が生まれるのだろう?」という思いが先に立ち、ぴんとくるものではありませんでした。「北海道にはアイヌ差別がある。」と言われますが民族差別であって、別の問題のように思います。「人権問題」として、「あるべき人権が侵害されている」という状況としては「同じ」なのかもしれませんが、それでひとまとめにして考えてよいのかとも思っていました。また、私の叔母は在日朝鮮人3世の人と結婚して従兄弟は四世です。叔母の実親である母方の祖父母や私の母の差別発言にうんざりしておりました。そういった意味で、私も差別者の家系に生まれ育って、差別意識を持ってしまっているのかもしれないし、無知によって失礼なことを言ってしまっていることも多々あるのでしょう。
 私自身は両性愛の、もっと正確に言えばFtX両性の性的少数者です。もしかしたら発達障がいもあるかもしれないし、理由はなんであれ、自分自身が「生きにくさ」を抱えていることを自覚しています。自分が生きにくい、面倒くさい人間だからといって、他の人の「生きにくさ」が無条件でわかるというのは驕っていると思います。そして「マイノリティだからマイノリティを差別しない」ということは必ずしもそうではありません。「多数派」の属性のところでは「弱い物いじめ」に荷担しているという面もあるということが現実にあります。しかし、部落差別に対しては、もちろん「被差別者」ではないし、「差別者でもない」蚊帳の外という感覚がしていました。何か触れられない、関わりたくても関われないものを感じていました。この実習は結果的に「部落差別と自分との接点を探す」ことがテーマとなりました。
 学びの中で「誇り」という言葉に出会いました。
 実習が半分くらい過ぎたころに、私の実習での態度がなっていなかったことと、実習での2回目の説教が主事の中では「その教会の人に謝らなければならない。」と思うほどのひどいものであったようで、叱責されました。そして、「帰るまで20冊、図書室の本を読め。」と言われました。主事の言葉はともかくとして、たしかに勉強が足りないのはその通りですから、落ち込みながらも一日2冊ペースでの読書が始まりました。
 その間に読んだ本の中に『INTERVIEW「部落出身」12人の今、そしてここから』という解放出版社から出ている本がありました。その中で、ある若い女性が「誇りを忘れないで生きたい。部落民として、というよりも人間としての誇りというか。」と答えているところがありました。
 もうひとつは「水平社宣言」の中の「我々がエタである事を誇り得るときが来たのだ」という言葉です。京都教区部落解放夏期研修会という1泊2日のセミナーが滋賀の草津教会であり、出席させて頂きました。2日目のメイン講演は、本願寺派西光寺副住職の清原隆宣さんのお話しでした。講演時間は1時間以上でしたが長さを感じさせず、「おもしろい」と思わせるものでした。そのお話しの中で、水平社宣言のことに触れられました。「水平社宣言は『人間としての誇りをしっかり持とう』という宣言だった。かつては『いたわる』かの美名で人を殺してきた。人間はいたわるものではなく、尊敬すべきものである。尊敬するというのはあるがまままるごと認め合うこと。これが人間にとっていちばんうれしい。水平社宣言はムラの人の生き様を見て書かれた。声を掛け合いながら共に生きてきた。『自分さえ良ければいい』といったら差別の中では生きていけなかった。ムラごと差別されてきた。貧しい人が迷い込んできた人を迎えて、食べさせて、着せた。そいう事ができる、人間の温かさが『誇り』である。」という趣旨のことを言われました。
 「誇り」という言葉は私の中であるようでなかった言葉のような気がします。なぜ性的少数者のパレードを「プライドパレード」というのか(かつて私が毎年のように歩いていた「レインボーマーチ札幌」も最初の名称は「札幌レズビアン&ゲイプライドパレード」でした)そのことに通じるような気がしました。
 また、実際に「当事者」の方に出会えたこと、当事者の方の話を聞くことができたことで「触れられない問題」から「痛みが伴う問題」に変えられることになりました。
 あるとき、ある教会の近くの被差別部落にフィールドワークに行きました。フィールドワークから戻って、案内してくださった方からお話しを伺いました。その方の子ども時代の話、同窓会での失敗談(ほとんどの人が高校に進学できなかったのにカラオケのシメで「高校時代」を入れてしまった)、ここ10年くらいのことで結婚差別があったことを伺い、部落差別が「かつて」のことではなく「今も」厳然としてある問題だということを示されました。
 もうひとつは、部落解放青年ゼミの空き時間に、ある被差別部落出身の女性の方との「雑談」の中でお伺いできたことです。青年ゼミに参加された方から部落解放関連書籍をお借りしたのですが、女性の参加者が宿泊している部屋でそれを広げて、参加者の他の神学校の神学生と部落出身の女性の方とお話しをしていました。そのときふと、その方が「あの劇(部落差別入門講座の台本)みたいなことはあるんだよね・・・直接的な差別にはあったことないけど、ムラのことを言えないのは辛いよね。」という趣旨のことを言われました。それを聞いて、やっと「ああ・・・」という思いになりました。「どこ出身なの?」「○○です。」という「ふつうの」会話ができない、当たり前のことが当たり前のようにできない状況になるのは、差別だと思いました。この会話の中でやっと「触れたくても触れられない何か」に触れられたような気がしました。
 これらを受けて、またこの実習の中で出会えたありとあらゆることを受けた上で、これからどう生きていくのかが当然問われてくると思います。「神と人を愛する(大切にする)」ということの中に「尊敬する」「誇る」ということが含まれているということが、今回示されたことの一つです。私は今までの人生の中で自分をよい意味で「誇る」ということもできなかったし、自分に対してもできなかったのですから、他人に対してはなおさら「誇り」を持っている一存在として「尊敬する」「大切にする」ということをしていくことができなかったのではないかと反省しています。自分を含め人というものを、どのように「誇っていく」のか「尊敬していくのか」が課題です。
また、どのような態度を取るにしても、「西の世界」では部落差別問題がわからないと牧会できないということが身に染みてわかりました。
 帰ってきてから、札幌時代の職場の元上司に電話をしました。実習の話にもなりました。その方は東京出身でやはり部落差別はやくわからないと言ってましたけれど、その方が大学生のとき、学友に京都出身の方がいて、交際されていた人がいたらしいのですが、部落出身だという理由だけで別れたということを聞かされました。「人間の愛なんてそんなものなのかしらね。」と話しながら「差別はなくならないかもしれない。でも、それに対してダメだと言い続けるしかないんじゃないかな~。」と言われ、「そうだよなあ。」と思いました。
 差別に対して否、と言い続けることは、ひとつ教会の業だと思います。

 お祈りします。
 すべての命の源である神さま、御名をあがめて賛美します。
 あなたは人間を「極めてよかった」といってお作りになったことを私たちは知っています。
 よかったとは言い切れない現実の中で、あなたが願われている通り、「よかった」と言われる世界を取り戻していけるように、押し出してください。
 今週は学校祭・オープンキャンパスがあります。どうか準備に関わるお一人お一人を顧み、学校祭があなたのみ旨に適うものとなりますように導いてください。
 この祈りを、愛の人であり愛の神であるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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