sayaka chapel

いのちの神からの使者によって

2013年1月8日(火) 
某神学校学内礼拝説教


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招詞:サムエル記上2章6節(新共同訳)

 主は命を絶ち、また命を与え
 陰府に下し、また引き上げてくださる。


聖書……詩編118章17-18節(新共同訳)

 死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

聖書……列王記上19章1-6節(新共同訳)

 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。
彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。


 

  今 本日の聖書の記事を簡潔に、一言でタイトルを付けるとすれば、「消極的な自殺を計ろうとする預言者エリヤ」ということになるでしょう。18章でエリヤはバアルの預言者と対決し勝利を収め、彼らを殺すのですが、それを聞いたアハブ王の妻イゼベルは怒り、エリヤは逃げだします。ベエル・シェバまでつくと、従者を残してエリヤは一人で荒れ野に入りました。一人で荒れ野にはいることで、彼は消極的な自殺を計ろうとします。
 彼はすべての希望を失っていました。この出来事の直前、17章と18章にあるように、干ばつの預言が与えられ、バアルの預言者たちと対決し勝利をおさめ、多くの人が主なる神に立ち返り、悔い改めのしるしが与えられたかのように雨が降った、その一連ことがあったにも関わらず、神に立ち返らない者に命を狙われている、そして、何よりも残っている預言者が自分だけという状況に、エリヤは絶望しているのではないでしょうか。同胞に受け容れられない、わかってもらえない辛さがにじみでています。しるしがあるのに信じない。熱心に働いているのにわかってもらえない。八方ふさがりの絶望的な孤独感。そのような絶望感、孤独感を抱えながら、エリヤはひとりで荒れ野に入っていったのではないでしょうか。
 彼はえにしだの木を見つけました。そしてそこで横になり、いつのまにか眠ってしまいました。そんなとき、御使いがやってきてエリヤに告げました。
「起きて食べよ。」(19:5)と。見ると枕元にパン菓子と水が置いてあります。エリヤはそれを口にしてまた横になります。主の御使いはもう一度戻ってきて、エリヤに触れ、告げました。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」(19:7)
 そしてエリヤは起きあがり、食べ、四十日四十夜の旅を続けます。そして、かつてモーセが神に相対した山、ホレブにたどりつきます。そこで静かにささやく声(19:12)を聞き、その声に送り出され、新たな召命を与えられます。
 ここで「主」ということばに着目したいと思います。
 みなさんもよくご存知の通り、ここで主と訳されている言葉は至聖四字であり「神の名」であります。「神の名をみだりに唱えてはならない。」という十戒の言葉に従う伝統によって、主と読み替えられている言葉です。そのもとの意味は、さまざまな解釈が与えられていますが、その解釈の一つに、その語源は「命」であるとするものがあります。それにそうならば、「生命の神」と訳すのが語源に則しており、神はすべての命を創り出し、また大切にされる方であるということが思い起されます。エリヤの「主よ」という呼びかけは、「命よ」「命の源である方よ」という風に置き換えることができるのではないでしょうか。
 そうであれば、ここに現われる主の御使いも「命の御使い」「いのちの源である方からの使者」とも言うことができそうです。それをふまえてこの記事に戻れば、命を扱う、配慮に満ちた行いをこの御使いはしていると言えそうです。死を願うほど追いつめられている者をいたわり、配慮のある言葉をかけ、触れ、食べさせる、その一連のふるまいに「いのちの神からの使者」にふさわしいものを見ます。

 この追いつめられて死を願う弱い預言者エリヤの物語に、私はどうしても自分の思いと記憶とを重ねてしまいます。
 私には通奏低音のように消えない「自殺願望」があります。精神科診療用語では「希死念慮」というのが正しいですし、また「自殺願望」と言ってしまうと、「自分の意志と決断によって死にたいから死ぬ」という誤解を伴いやすいのですが、ここでは「自殺願望」で統一したいと思います。中学生、いや小学生のことから理由があろうがなかろうが「死にたい」と憶っていました。それは何かアクシデントがあれば強くなり、問題が解決したら確かに弱くはなりますが、決して消えるものではありませんでした。世間一般でも、他の宗教でも、キリスト教でも「自殺は罪」という感覚がどうしても一般的なのでしょうけれど、「死にたい」ということに対してただ「それは罪だ」と言われてしまったら、居場所がない思いがします。そんなことは本人も重々承知していることであります。私が三年弱教会に通って、今からもう8年になるのかと振り返りますけれど、2005年の待降節に受洗を決意し、翌2006年のイースターに受洗したのは、「親の離婚を赦すため」であり「自殺しないと決めるため」でした。だからといって、自殺願望は消えるものではありませんでした。
 それにも関わらず、今までの短い人生を振り返るとき、自分でもいかんともしがたい自殺願望から逃れられないとき、いや「今日こそ死ねる」と決行寸前のとき、本日のエリヤ物語のように、「いのちの神からの使者」が与えられたということを幾度となく体験しました。
 去年の2月末のことです。昨年度の教会実習で東日本大震災のある被災教会に派遣して頂いたことは、ここにいるみなさんはご存知のことかと思いますが、その教会実習以来ずっと「後遺症」としかいいようのないもので苦しんでおりました。そこで見たものに押しつぶされそうになっていました。昨年の今頃、毎年成人の日に合わせて行われる北海教区の年頭修養会で、その年の修養会のテーマが「震災」だったということもあり、夜の分科会で、その教会実習で見聞きしたことをもとに発題させていただきました。そこで「理解できないならせめてほっておいてほしかった」にも関わらず「神学生なのだから」と言って、正直侮辱としか思えない配慮のないことを言われました。傷口をさらに切り裂かれた思いをもって、冬休みも終わり神学校に戻ってきたわけですが、そこで言われたことも含めて謙虚に受け止めようとして、余計に精神状態をおかしくしました。まだ学期があるうちはよかったのですが、学期末を向かえてさらに精神状態の悪化がすすんでいきました。眠れないまま派遣バイトにいくということも続きました。
 そんな中、ミスが続いて割と長期間決まっていた派遣の仕事をクビになりました。ここで働かなければ校納金が払えません。もう終わりだと思いました。その次の日、ツイッター上で自殺予告を流しました。そして近くのホームセンターに首をくくりに行くためのロープを買いにいくつもりでした。心ある方々から「はやまるな」「また会いたいから死なないでくれ」との返信があふれました。その中で、神学校から割と近いところにお住いのある女性の信徒さんからメッセージが入りました。「三十分くらいでつきますから、会いませんか?」
 その方は、富田正樹という大阪の同志社大学附属の高校の聖書科の教師が「牧師」をしている「三十番地キリスト教会」というインターネット教会の掲示板でやりとりをしている人でした。私も神学校に入る前からそこに出入りをしていて、また入学してから「実習神学生」にしていただいたのですが、神学校に行くことが決まって「お近くですね。会いたいですね。」といいながら会えずじまいになっていた方でした。
 神学校まで来てくださって、近くのファミレスでお話しすることになりました。お昼食べてないんでしょ?と言われ、ハンバーグと結局チョコレートパフェまでごちそうになることになりました。年頭修養会の時に配布したあのレジュメをお渡しして、教会実習のことを話しました。「それだけのことがあったらひきずるのはわかる。でもそれで死んじゃいけない。」と言われました。それから、その方の半生を聞かせて頂きました。その方の話を聞きながら「このような困難な人生を歩んでいる方に、聞いて関わらせていただいて生きていきたい」ということが、私の「召命」だったとういうことを思い出し、教会実習から帰ってきて以来壊れてしまった信仰が少し戻ってきたような気がしました。
 それでも「死にたい」「いや、生きることが自分の召命だ」というこの二つの間で揺り戻しながら歩む日々が続いていました。
 その中で、昨年秋、「生きなければならない」という方向に振り切れるような出来事がありました。
 7月くらいに富田牧師を通して、前述のネット教会を頼りにされた方に間接的に教会を紹介することになりました。富田牧師がメールで相談を受けている方で、「お住いの近くで安心して通える教会を」紹介して欲しいということでした。お連れ合いに先立たれたにも拘わらず「旦那さんは洗礼を受けてないから旦那さんの魂はどこにいるかわからない」と通っていた教会で言われてしまい、落胆されているので、その方のお住いの近くで「洗礼受けていないから天国いけないなんてつまらないこと言わない牧師や教会はないか?」ということでした。このあたりで、という地名をを見た瞬間「あ、I先生・・・!!」と思いました。
 I先生というのは、以前の出席教会だったあの教会の前任牧師で、今年度は別の教会で代務をされている牧師です。信徒さんの葬儀にいらっしゃって2回くらい会ったことがありました。牧師から、また信徒さんからI牧師の数々の「伝説」を伺っていましたので「この人ならつまらないこと言わないだろう」という点では確信を持っていました。
 それから少ししてその方がご紹介した教会に導かれ、10月第一週にI牧師から受洗されるということを伺いました。手紙を書いてお伺いすることにしました。
 何もお知らせする手段もなく突然お伺いしたにもかかわらず、その方は大変喜んでくださいました。礼拝のあと少しお話しすることができました。連絡先を手紙に書いておきましたので、メールをいただきました。よかったら食事にということになり、その週の土曜日、あるところのショッピングモールのイタリアンレストランに連れて行っていただきました。
 礼拝のあとにも、またその時にも伺ったのですが、どうやら三十番地教会に載せていただいた私の説教がその方が富田牧師にメールを送るきっかけになったということでした。その説教は6月にこの学内礼拝での説教で、その日は神学校の同窓会があり、教師は誰もおらず、学生も三人だけという誰も聞いていないに等しい説教でした。その説教は「疑いながらも信じるということに大いなる恵みがある」という内容でした。
 その方はさまざまな教会に行かれたようですが、そこでは「疑いは罪だ」という教会ばかりで、私が言ったような「疑いながらも信じる、または信じつつ疑う」ということを言う人はいなかったということです。「こういうことを言う神学生がいる教会の牧師なら相談できる。」とその方の背中を押すことになりました。
 そもそも、私があの教会に行っていなければI先生に出会うこともなかったでしょう。もっというなら、あの教会実習に行かなければあの教会に通うなんとこともなかったわけです。教会というものを信じられなくなって教会を飛び出すことになり、多くの人を悲しませることになりましたし、私自身も言える立場ではないのは承知の上ですが、今でもどこかで悲しみが消えません。しかし、全てが用いられて、報われて、受け容れられたという思いに至りました。たとえ、私がいなくても、神さまは別の方法でその方を救ったでしょう。しかし何であれ、私にはそれが神さまから受け容れられている一つのしるしだと思えたのです。私の躓きの中で書き起こされたものが、誰かの救いの歴史の一かけらになったということを知ったとき、本当に生きていてよかったと思えました。私がぶつかりながら、躓きながら生きることがこれからも誰かの救いのために用いられると気がついたとき、これからも何にせよ生きていかなければならないと思うに至りました。生きていれば何かしらが与えられ、神の御手の業だとしか言えないことが、起こりえるからです。

 詩編118篇17節18節は私の召命の言葉です。
 「生きながらえて、主の御業を語り伝えよう。/主は私を厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった。」
 今年も、この御言葉から始めたいと思います。躓いて立てないと思うときもやはりこの御言葉から始めたいと思います。命の源である神に、また命の源である神からの使者によって支えられていることを心から信じます。
 命そのものでありすべての命の源である神は、私に「生きる」ことを求めておられるし、もっと言えば「生きる」ことしか要求しておられないと感じるからです。

 お祈りします。
 すべての命の源である神さま、御名をあがめて感謝します。
 あなたは生きることを求めておられる方です。またそのために多くの助けを与えてくださる方であると信じます。また、生きるということの中で、生きている者を用いて、あらゆる業を行われるということを確信します。どうか、これからも生きるとことから逃げずに、あなたの御業を仰ぎ、あなたの御業に参与することができますよう、導いてください。
 新しい年を迎え、この神学校の2012年度も終わりが近づいております。最後まであなたの御心に適う学びの場にふさわしいところになりますように導いてください。命の源であるあなたを証しするに相応しい神学校となりますように、恵みと力を注いで下さい。
 この祈りを起こされた方である御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。


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