sayaka chapel

沈黙して救いを待ち望む

2013年5月15日(水) 
某神学校学内礼拝説教


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招詞……詩編37編4節(新共同訳)

 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。


賛美……讃美歌21‐528「あなたの道を」

聖書……哀歌3章25-33節(新共同訳)

 主に望みをおき尋ね求める魂に
 主は幸いをお与えになる。
 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。

 軛を負わされたなら
 黙して、独り座っているがよい。
 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
 打つ者に頬を向けよ
 十分に懲らしめを味わえ。

 主は、決して
 あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
 主の慈しみは深く
 懲らしめても、また憐れんでくださる。
 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても 
 それが御心なのではない。

聖書……  同   (岩波訳)

 ヤハウェは、彼を待ち望む者には、
 彼を探し求める魂には、よい。
 ヤハウェの救いに
 沈黙して望みをおくことは、よい。
 若い時に軛を負うのは、
 ますら男にはよいこと。
 それが彼の上にのしかかるならば、
 独りぼっちで座り、黙っているがよい。
 口に塵をつけるがよい。
 多分希望があるだろう。
 頬を、彼の打つ者にまかせ、
 侮辱に飽きたるがよい。
 まことに、主は(人を)とこしえには放棄しない。
 苦しめても、また憐れむ、
 その慈愛の豊かさにふさわしく。
 まことに、彼は人の子らを
 心底から辱め、苦しめはしない。


 

  本日は、哀歌から、沈黙ということについて考えたいと思います。

 哀歌とは5つの詩で構成されている詩文です。新共同訳聖書、その配列のもとになった七十人訳聖書ではエレミヤ書のあとに置かれておりますが、ユダヤ教聖典の中では諸書に分類されております。エレミヤ書のあとに配置されているのは、この哀歌の作者がエレミヤであったという伝承のためでした。今日、これをそのまま信じている方はおられないでしょうが、伝承はあなどれないものでして、文体、内容がエレミヤ書に通じるものがあるということ、何よりもエレミヤ書と哀歌が持つ「暗さ」ゆえに2つの書が響き合っていたからであるということがいえるでしょう。
 この五つの詩の背景には、紀元前587年にエルサレムがバビロニア人の手によって陥落させられたという経験があります。これはユダの民にとって心に大きな傷手を負うことになった出来事です。それは信仰の危機でした。神がいるならどうして?という思いがぬぐうことのできない大きな傷でした。哀歌はこの危機に対する応答であったということは間違いないでしょう。この詩をつくりだした詩人たちは、それぞれの置かれているところでその破れを繰り返し繰り返し思い起すことで、出来事の意味を繰り返し問い続けました。理由づけするならその意味を矮小化してしまうような出来事に対して、苦難の原因を説明したのではなく、問い続けたのでした。その詩の中に見出されるのは嘆きや悲しみの感情的な激しさだけではなく、問い続けることで与えられたエルサレムの灰燼から不死鳥のようにわき上がる信仰でした。この詩が礼拝の中で繰り返し読まれることで、傷を癒し、自分たちの悲劇と痛みに耐えて生き、神に問いを投げかけることをすることができるようになりました。哀歌の癒しの力は、悲劇と悲嘆に耐えて生き、その悲しみを神と人に分かち合うすべての人に開放されています。
 本日の聖書である第三の詩は、個人の嘆きの歌の形をとっています。詩人は嘆きと絶望という暗黒の中で危機的な体験を表現し、それを堪え忍んで生き抜き、神に到達して神の恵みは変わることはないということを再び確信することを求めています。この詩の中で語る人は、自分が属する共同体の経験を代表するような経験をした人として描かれています。エルサレムの危機、民族の没落を自分の問題として受け止めようとしています。
 25節からの3行は、
「トーブ」ということばで始っています。新共同訳では「幸いをお与えになる」「幸いを得る」というように訳されています。「よい」という意味のことばです。創世記第一章の中で繰り返される宣言「見よ、極めてよかった」「よかった」と訳されている言葉もこの「トーブ」です。辞書には
 「すべての多様な意味での『良い』」という意味で載っています。ヘブル語のI先生にお伺いしましたら「日本語でいちばん近いのは『うまい』ということばだ」ということばが返ってきました。「うまい」ということばのあいまいなようですべてを物語っているというのがいちばん感覚的には近いようです。
 詩人は、どのようなことを「よい」とこの中うたっているのでしょうか。
 まず25節、
「神はよい」といっています。「ヤハウェはよい」。「ヤハウェに望みを置く魂にとって」「ヤハウェはよい」ということが言われています。神が、神を待つ者に対していかに「よい」かということが述べられています。
 次に
「沈黙して救いを待ち望む」ことが「よい」といわれています。(26節)
 そして
「若いときに軛を負うこと」「よい」と言われています。(27節)
 待つ、と言うことばには諦めというか、わびしいニュアンスが伴うことがあります。しかし、ここでの「待つ」はそうではなく、信仰において積極的な態度のことが表現されています。
 この詩人は、苦しみの出来事に対し、神の裁きの結果であると信じています。出来事が神の裁きであるならば、神に申し開きするのは無意味なことです。口に塵をつけ、沈黙して、救いを待つことのみがすべきことであり、「よい」ことであるとこの詩人は残しています。
 
 今、神学生として生きるただ中にあって、これから牧師になっていくために、「沈黙する」ということが鍵ととして与えられていると感じています。本日の聖書の
「主の救いを黙して待てば、幸いを得る。」(26節)という御言葉が心のうちで響きます。
 私は沈黙することができない人間です。とりわけ、自分のかつての心の傷と痛みに対し、沈黙することができない者です。
 私には通奏低音のように消えない希死念慮があります。そして決して忘れることの出来ない、そして生きることを蝕む心の傷があります。その傷ゆえに教会に招かれたということも心から信じておりますが、
 「この世で起こることは教会でも起こる」という言葉通り、神学校に入る前にはそれほど考えることがなかった現実の教会への失望感が今、自分にのしかかっています。神学校に入学すると信仰が壊れる、といいますが、私にとって信仰とは教会への信頼でした。私にとってその信頼が壊れてしまう決定的な出来事は、1年の夏期実習扱いで東日本大震災の被災教会でのひとつである、ある教会に送っていただいたこと、でした。被災地の教会のただ中にあって自分では背負いきれないものを見せつけられてしまい、実習を終えてここに帰ってきてから、そこで見たものに押しつぶされそうになっていました。本当は、自分の体験したことを伝えたいのに、それが伝えることすらかなわず、傷を増やしていくだけでした。時間が経てば立つ程、呪縛から解き放たれて本当のことを話せるようになったのに、それができるようになった時には、話を聴いてくれる人がいなくなっていました。それが恐くて仕方ありませんでした。牧師を含めて誰もがそこで受けた私の心の傷を軽く扱っているように思いました。それで帰ったあとに決まった出席教会を辞めることになりましたし、つい最近もそれで現出席教会を飛び出しそうになりました。
 思い返せば、私は自分の傷を人にさらすことで生きながらえてきました。話を聴いてもらうことで自殺を回避してきました。依存、といえば依存なのでしょうけれど、自殺することを選ばないと決めた以上、それしか手段がないように思っていました。
 生きることを困難な傷は癒されなければなりません。その傷のゆえに人と関われないと思うなら、傷にこだわるのをやめなければなりません。
 神学校生活も3年目になりました。3年目になり、ここに招かれたときからあった召命に加え、また新たな召命が与えられていると感じています。新たな召命を含めて私には3つの召命があります。「死なずに生きて神を証しすること」「行きたくないところに連れて行かれること」そして「人の傷に塩を塗らずに話を聴くことのできる牧師になること」です。特に「人の傷に塩を塗らずに話を聴くことのできる牧師になること」のために、自分の過去の傷への沈黙、そして救いが必要なのだと思います。私には神が必要であるし、「信じているから信じている」という素朴な信仰が必要なのだということに本当につい最近気がつきました。
 「人の傷に塩を塗らずに話を聴くことのできる牧師」という時に思い出すのは、私の受洗牧師です。弱視の牧師で、目が不自由な分だけあらゆるものが見えているのではないかと思わせるような、そんな人でした。彼は自分は沈黙し、人の話を聴くことで人に仕え、人を癒すことのできる人でした。ある意味沈黙して、20年以上あの教会に仕えておられます。叶うならあのような牧師になりたいのです。

 沈黙できないということは、黙っていられないということは、まだ自分に何かできると思っているからではないでしょうか。することがあると思っているからではないでしょうか。人の力でできることもあるでしょう。しかし、自分ではどうすることもできないものが現実のただ中に存在します。
 沈黙とは、消極的なことではありません。すべきことを怠って責任を放棄することでもありません。万策尽きたあとに、積極的に神を待ち望み、神からの救いを、御手の働きを待ち望むことです。神を信じているからこそ、信頼して沈黙することができるのではないでしょうか。私も、自分自身の苦しみに対して沈黙して、命の源である神に委ね、救いを待ち望みたいと思います。人の痛みを受け入れていくために。傷む人に寄り添っていくために。
 この詩人が告白したように、30節からの御言葉に心から信頼したいと願います。
「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。/主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。」(30~33節)命の源である神の願いは、人が苦しみにとどまって生きることではなく、自立して、喜びの中で生きることだと信じるからです。


 お祈りいたします。
 すべての命の源である神さま、御名をあがめて賛美いたします。
 このように語る機会を与えてくださり、ありがとうございます。
 今あなたに心から信頼して、自分の痛みに対して沈黙したいと願っております。あなたを信頼しますから、どうかそれにこたえて過去の苦しみ、過去の痛みから解放されていくことができますようにお願いいたします。
命の源であるあなたを心から信頼して、あなたに仕え、あなたを証ししたいと願っております。どうかその願いを全うすることができますように。
この神学校のために祈ります。どうかこの学びの場が、命の源である神、あなた御自身を証しする神学校として相応しいところになりますように、ひとりひとりをかえりみてください。
 この祈りを尊き救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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