sayaka chapel

傷によって共に生きる

2013年6月11日(水) 
某神学校 説教演習


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聖書……ヨハネによる福音書20章24-29節(新共同訳)

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは云った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく。信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

聖書……  同   (私訳)
 12の1人のトマスは、「双子」と言われていて、イエスが来たとき、彼らと共にいなかった。ゆえに、彼(トマス)に他の弟子たちは云った。「わたしたちは主を見た。」彼(トマス)は彼ら(弟子たち)に言った。「もし、彼(主)の手の中に釘のあとを見なければ、そしてわたしの手の指を彼の釘のあとにいれなければ、そしてわたしの手を彼の脇腹に入れなければ、わたしは決して信じない。」そして8日ののち、再び彼の弟子たちはそこにいて、そして、トマスも彼らと共にいた。イエスが来る。鍵がかけられていたのに。そして真ん中に立って、そして言った。「あなたがたに平和。」それから彼(イエス)は言う。「わたしのここに指を入れなさい。そして私の手を見なさい。そしてあなたの手を運びなさい。そしてわたしの脇腹に入れなさい。そして信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、そして言った。「わたしの主、そしてわたしの神よ。」イエスは彼(トマス)に言う。「あなたはわたしを見て信じたのか?見ないで信じる者は幸いである。」


 

 本日与えられた聖書は、みなさんもよくご存知の「疑い深いトマス」の物語です。ディデイモ、これは双子という意味だそうですけれど、そうあだ名されているトマスというイエスの弟子のひとりがイエスのみ傷を示され、信じない者ではなく、信ずる者に変えられた、という多くの人の心をひきつける、美しい物語です。
 本日の聖書の直前、20章のはじめから聖書を読み進めてまいりますと次のようなことがわかります。ヨハネ福音書の遺すところでは、十字架で殺され葬られ、死から起こされ、そして週の初めの朝によみがえられたイエスは、まずマグラダのマリアに現れ(20:11~18)、同じ日の夕方(19節)、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵を掛けて閉じこもっている弟子たちに現れました。そして本日の聖書、となるわけですが、その中にはトマスはいなかったということが、聖書を読み進めていくうちにわかります。なぜトマスはよみがえられたばかりのイエスに出会えなかったのか、イエスはトマスには会ってくださらなかったのかは聖書には書いてありません。特別トマスが他の弟子たちにくらべて疑い深かったから、だとは私は思いません。聖書にある4つの福音書が共に、捕えられ、十字架で殺されつつあるイエスを男性の弟子たちは見棄てて逃げたことを証言しています。また、本日の聖書によると弟子たちはユダヤ人を恐れて鍵をかけて閉じこもっていたということがわかります。そこには殺される前のイエスの言葉など忘れてしまい、信仰も信頼もあったものではないという態度を示していると言えそうです。彼らを支配していたのは、恐れでした。そこにはトマスと態度が大きく変わるものはありません。
 とはいえ、トマスは、自分一人だけよみがえられたイエスと再会できなかったことで、うらやましいと感じていたに違いないと思うのです。他の弟子たちに
「わたしたちは主を見た」(25節)と伝えられたとき、当然に、イエスが恐れのただ中にある弟子たちのところに来てくださったこと、そして真ん中にたって「あなたがたに平和があるように」(19節)と祝福してくださったこと、そして何よりもそれを「見て喜んだ。」(20節)ことを伝え聞いたに違い有りません。だからこそ「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」(25節)という、少ししつこいのではないかと思わせるような言葉なって現れたのではないでしょうか。ただ「わたしも会いたい」ではなく、ここまでの切迫した表現に私は、トマスのそれだけの切実さ、「わたしも傷を負ったイエスと再会したい」という切望、そして「主を見て喜んだ」(20節)という他の弟子たちへの「うらやましい」という思いを見るような気が致します。トマスの「自分自身の目で確かめ、そして出会わなければ、その喜びの中に加わることはできないという思い」を感じ取ることができるように思います。やはり、トマスもその喜びの中に入り、他の弟子たちと共にその喜びを分かち合いたかったのではないでしょうか。
 8日の後、イエスは再び弟子たちの元に現れます。その前と同じように
「戸にはみな鍵がかけてあったのに」イエスは「来て真ん中に立ち」(26節)、また同じように「あなたがたに平和があるように」と祝福されます。前と違うのはそこにトマスがいることです。イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく。信じる者になりなさい。」(27節)と言われます。この言葉によって、トマスのあの言葉、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)そのことをイエスは受けとめ、それによってトマスそのものを受け入れてくださいました。トマスは自分の言葉、願いが受け入れられたことを知り、心から喜び「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と告白します。
 
 この物語を読むにつけ、私は不思議に思うことがあります。それは、「なぜ、よみがえられたイエスのみ体には傷が残っていたのだろうか」ということです。神が全能であるなら、また人知を越える奇跡を起こされる方なら、傷を残さないで、傷跡など消してよみがえられてもよかっただろうにと思うのです。

 よみがえられたイエスの肉体に傷が残っていることがはっきりとわかる記事は、ヨハネ福音書のここにしかありません。他の福音書にも、パウロの復活のキリストの証言の中にも、他の手紙の中にもありません。ヨハネ福音書独特の記録です。これは手話のできるわたしの友達から伺ったのですが、手話で「イエス」を表現するにはこのように「手に傷のある男」とするようです。また多くのキリスト教絵画の中でも、その絵の中で描かれる「よみがえられたイエス」にはやはり傷があります。ヨハネ福音書の中にしかない記述であっても、それが殊の外大きくわたしたちのイエスのイメージの中にあり、わたしたちの心をとらえるものであることに疑いの余地はありません。
 また、ヨハネ福音書は、もともと20章31節で終わっており、21章以下はペトロの権威が増していく中で、ペトロを弁護するために後代に加筆されたという節があります。それはあくまでひとつの仮説ですけれど、それが本当であるならば、このいわゆる「疑い深いトマスの物語」はヨハネ福音書の中でいちばん最後の物語ということになります。それは、時代が過ぎて、人間として地上を歩まれて、そして十字架につけられ殺され、神によって起こされるというイエスのご生涯の一連の出来事を間近で体験した最初の人たちが少しずつ世を去り、地上を歩んだイエスの記憶がある人たちから直接聞くことができなくなっていく中で、そのようなことができなくなっていくから福音書が書かれていくわけですけれど、本日の記事は、直接イエスにまみえることがない世代の信徒であったとしても「見ないで信じる」ことができるなら、それは祝福された信仰であるということが宣言されている訳です。
「見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)という言葉は、ヨハネ福音書を読み、耳で聞いた人たちへの祝福の言葉でもありました。そうであるにしても、よみがえられたイエスの体に傷が残っていたということがわかるこの物語がヨハネ福音書の最後に書かれたということは、ヨハネ福音書の担い手の意図を越え、わたしたちに訴えかけるものがあるように思うのです。

 この記事を読みながら、思い出すことがあります。それは、もうそろそろ2年前になろうとしておりますけれど、神学校1年目の夏休み、東日本大震災の被災教会のひとつである某教会として派遣して頂いたときのことです。みなさんもすでによくご存知のことだとは思いますが、その教会は、その震災による津波で会堂と牧師館が、それぞれ一階部分が全浸水するという甚大な被害を受けました。そこで8月から9月、結局神学校の夏休み期間ずっとそこで過ごすことになったのですが、その二ヶ月は、わたしにとってなかなか過去の記憶にならなかった出来事で、「忘れられないなら一生苦しむ覚悟を持とう」と決心しなければならない程に、忘れない傷として残る出来事でした。永遠くらい長い2ヶ月でした。
 あるとき、外でその教会の会堂を眺めながらその教会の牧師と立ち話をしているときに、彼はわたしにこんなことを言いました。「この教会を『傷跡の残る教会』にしたいんだよ。傷は癒えても傷は残るんだよ。元通りには戻れないんだ。復活したキリストさんにも傷はあっただろ?」彼自身もいわば自宅と職場が同時に破壊された被災者であり、その被災体験の中からの実感として「津波が来る前には戻れない」ということを味わっていたのだと思います。
 また、外の世界から来たボランティアにも、「今までの人生の中で『津波にあった』といっていいような引き裂かれる体験があったからこそ、あの場に招かれた」という人が少なくありませんでした。本人にその自覚があるかないかを問わずそのように感じることがありました。その実習中に与えられた主日礼拝の説教奉仕で、このようなことを語りました。
 「津波による被災でこの教会も大きな傷手を負いました。もう見ればわかると思うくらい・・・壁がはがされているところまで波が来たという説明を外から来る人にはしています。傷ついた教会、傷ついた礼拝堂で今日もこうして私たちは礼拝を守っています。この一ヶ月で思わされたことがあります。それは、この教会に招かれる人は、牧師も、教会員も、津波で被災した人も、実際津波をかぶらなかった地元の人も、そして外から来るボランティアも、それぞれ多かれ少なかれ傷を持っている、傷を負っているということです。津波で被災をしなかったとしても、傷つかなかったとしても他のことで被災をしているんだ・・・、外から来たボランティアも人生のいろんな場面で、津波といってもいいのかもしれないですね・・・波をかぶっている、連れ去られていく、引き裂かれる、そんな体験をどこかで持っているのではないかと思わされました。傷を持っているという点で私たちは集められるべくして集められたのだなと思います。」
 その礼拝後、ある女性のボランティアの方とお話しました。「なんでわかったの?」と言われました。その方は息子さんを交通事故で亡くされたという過去を抱えている方でした。礼拝の前にはそのような話は全くする機会がありませんでしたので、驚いたことを覚えています。
 あの2ヶ月のおかげで、あらゆる人が傷を抱えて生きているということに、そしてその傷に敏感に反応するようになりました。そして、被災地の外に出てからも、出会うあらゆる人が傷を抱えて生きていることに気がつきました。そしてお互いの傷で支え合い、励まし合うことも、また傷付け合うことも、両方とも体験することになるのでした。

 わたしたち誰もが傷を負っているのです。そしてその傷は、よみがえられたイエスに傷が残っているように、癒えても残りつづけるものであります。誰もが生きる中で傷を負い、残りつづける傷があるという点で、わたしたちは兄弟姉妹であり、家族であります。わたしたちはそれを忘れがちではないでしょうか。傷を見ないことでなかったことにしようとしているのではないでしょうか。そして、自分自身の傷にも、他の人の傷にも、その傷に対して無頓着すぎるのではないでしょうか。よみがえられたキリストには傷はあるのです。その傷跡は残っているのです。
 キリストが傷を残してよみがえられたのは、わたしたちが傷を残して生きなければならないからだと私は思うのです。キリストが傷のない姿でよみがえられたのなら、もしかしたら傷のないキリストとわたしたちは関係がないといってもいいかもしれません。傷が残らずよみがえるということは、わたしたちの生きていくただ中ではありえないからです。
 キリストが傷を残してよみがえられたのは、それぞれに傷を持つわたしたちが「傷によって共に生きる」という生き方に招くためだったのではないでしょうか。わたしたちには傷があります。なら、その傷によって共に生きることはできないのでしょうか。傷によって傷付け合うのではなく、それに対して思いやりをもって、愛し合うことはできないのでしょうか。決してそうではないと信じています。
 あの教会実習で語った説教の言葉をまた改めて繰り返したいと思います。「イエスが傷をもって復活した、そのことは、わたしたちが、自分自身、持っている傷によって、共に生きるようになるため、自分自身が持っている傷、残り続ける傷によって、互いにその傷によって、共感して、互いに苦しんで、共に歩んで、わたしたちはそれぞれ違うけれど、その違いを認め合ったまま、同じ夢を見るために・・・それを示すためにイエスは、傷をもって復活してくださったのではないでしょうか。」
互いの傷によって、わたしたちは、響き合い、支え合い、愛し合うことができるのではないかと思うのです。
 傷を残してよみがえられたキリスト・イエスは、トマスに、そして弟子たちに傷の残る手と脇腹をお示しになったように、わたしたちにもその傷を示してくださっております。そして傷を残してよみがえられたこのキリストは、今もわたしたちと共におられるのです。

 お祈りします。
 すべての命の源であり、イエスを死から起こされた神さま、御名をあがめて賛美いたします。よみがえられたキリストには傷があること、そしてその御傷がわたしたちにも示されていることを感謝します。わたしたちがキリストの傷によって、そしてわたしたちがそれぞれに抱える傷によって共に生きることができますように、導いてください。そして、わたしたちがそのことを、見ないで信じることができるように、信じ続けることができますように。
 この祈りを死んで起こされたわたしたちの友であり主であるキリスト・イエスの御名によって御前にお捧げ致します。
 アーメン。


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