sayaka chapel

罪の赦しの宣言

2013年7月9日(火) 
某神学校 説教演習


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聖書……マルコによる福音書2章1~12節(私訳)

 そして、何日かたって(イエスが)元の通りカファルナウムへ入ると、彼(イエス)が家にいるということを、彼はいい広められた。そして、たくさんの人々が集まり、その結果、もはや戸にむけて場所をあけることができなかった。そして彼(イエス)は、彼らに「言葉」を話していた。そして、彼ら(四人の男)は、四人の男によって持ち上げられた中風の男を運びながら来た。そして彼らは群衆によって彼(イエス)のところに運んでくることができず、彼らは、彼(イエス)がいたであろうところにある屋根をはがし、そして掘り出して中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。そして彼ら(中風の男と四人の男)の信頼を見て、彼(イエス)は言う。「子よ、あなたの罪たちは赦される。」そして、そこで律法学者が座っており、彼らの心の中で思いめぐらしていた。「なぜこの人はこのようにして告げるのか?彼(イエス)は冒涜している。だれが罪を赦すことができるのか、神ひとりを除いて。」そしてすぐにイエスは彼の霊で、このようにして彼ら自身が思いめぐらしていることに気付いて、彼(イエス)は彼ら(律法学者)に言う。「なぜそれらをあなたがたの心の中で思いめぐらすのか?どちらが簡単か、中風の男に『あなたの罪たちは赦される』という言うことと、『起きて、あなたの寝床を運べ、そしてあなたは歩き回る(生きる)』と言うことと?あなたがたが知るために、人の子が地上で罪を赦す権限を持っていることを。」彼(イエス)は中風の男に言う。「あなたに言う。起きて、あなたの寝床を運びなさい。そしてあなたの家に行きなさい。」そして、彼(中風の男)は起こされ、すぐに彼の寝床を運び、すべての人の前で入っていった。その結果、すべての人は驚き、神を賛美した。「このようにして、わたしたちはまだいちども見ていない」と言いながら。



 

 マルコ福音書の2章のはじめには、中風の人の癒し、そして律法学者との論争の物語があります。共観福音書というマルコ福音書と、そのマルコ福音書を元にして書かれたとされるマタイ福音書、そしてルカ福音書ですけれど、その三つともにこの物語はあります。マルコによる福音書の物語は、このようなものです。
 イエスがカファルナウムに戻られると、そこにイエスの寝起きされるところがあったようで、そこにいらっしゃったときのことです。そこにイエスがいらっしゃることがわかると大勢の人が集まりました。そして
「御言葉を語っておられると」(2節)と、とあります。これはマルコによる福音書の中では「福音を告げる」と同じ意味だそうです。そうであるならば、ただ単に「教えを語っていた」とか「聖書をひもといていた」というより、実際にその家の中で癒しが行われていたのかもしれません。イエスは最初、民間の癒し人として名が知られていたようですから、ここに集まった大勢の人はイエスの癒し人としての働きを期待して集まっていたのかもしれません。またイエスの癒しを体験した人たちが、イエスを慕ってあつまっていたのかもしれません。
 そのような中、4人の男の人が床を担いでやってきました(3節)。その床には中風の人が寝かされていました。「中風」と訳されているこの言葉が、どのような病気であったのか、正確なところはよくわかりませんが、半身麻痺とか、半身不随とかそのようなものだったのでしょう。ともかくこの人は歩けない状況にあったようです。聖書から、この4人の男と中風の人がどのような関係だったのか、読み取ることはできません。4人の男が家族であったり友人であったりする中風の男の癒しを願って床をかついできたのかもしれませんし、それとも中風の人がイエスの評判をきいて4人の友人ないし家族にお願いしたのかもしれません。そのことも聖書にははっきりと書いてありません。なんにせよ、彼らはイエスのところにやってきました。
 ところが、群衆に阻まれて、イエスの所に連れて行くことができません(4節)。そこで、彼らは屋根に上って、屋根に穴をあけて、イエスの居るところに中風の人が寝かされている寝床を吊り降ろしました。どのようにそれをなしたのかは、やはりよくわかりませんが、ある注解書には、きっとその家にははしごがかけてあって、そうして屋根に上り、土で固めてできている屋根をはがした、というか掘り出したのだという風に書いてありました。別の注解書には「屋根に上る階段があった」とされていました。何にせよ大変な作業です。病人の寝ている床を4人がかりで屋根まで登って上げて、屋根をはがす、掘り起こす。そのようなことはそう簡単にできるものではありません。
 その光景をみてイエスは、中風の人に
「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。ユダヤ教の正統教理からそれが当然に導き出されるというわけではないのでしょうが、一般に「病」は「その人の罪の結果」であると思われていました。その人が重い病気であればあるほど「何かあの人が罪を犯したから罰がくだってあんなことになった」と思われたでしょう。日本でも仏教的な因果応報が取り違えられ、ある人に好ましくないことがあると、「あれは因果応報だ」といってその病や災いと「何かの原因」を結びつけようとします。わたしたちは、往々にして「結果に対して原因がある」と思いがちです。他の福音書の癒しの記事、または悪霊追放の記事で、「罪の赦し」と「病の癒し」が結びついているのはここと、ヨハネ福音書の5章にある「ベトサイダの池で物乞いをしていた中風の人の癒し」だけです。そのことから、イエスは「病は罪の結果である」と当然にお考えになっていたわけではないだろう、と私は思います。だとしたらそのような罪の赦しの宣言は、まわりの人たち、そして中風の人の「もしかしたら知らずに罪を犯しているのかもしれない」と思っていたかもしれないという心情をくみとっての、イエスのいたわりの言葉であったように思えます。
また、
「その人たちの信仰を見て」(5節)とあります。信仰という言葉は「信頼」とも読み取ることができる言葉です。中風の人、そしてここまで中風の人を運んできた4人の男の、イエスにまみえれば病が癒されるということにかける「信頼」をイエスは受けとってくださり、そのような宣言をされたという風に読むことができます。
 しかし、ここで唐突に物言いが入ります。
「そこに律法学者が座っていて、心の中であれこれと考えた。」(6節)そして、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(7節)とあります。律法学者たちはどこにいて、どうやってこのような光景を見ていたのでしょうか。家の戸が開いていて、外から見ることができたのかもしれません。これも聖書には書いてありませんから想像にするしかありません。何にせよ、律法学者はイエスの宣言をきいて、心の中でイエスをののしっています。
 それをイエスは御自分の霊の力でお見抜きになり(8節)、律法学者たちに
「なぜそんな考えを心にいだくのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』というのと『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(8節b~10節a)と言われ、改めてイエスは中風の人に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(11節)と言われました。すると中風の人は起き上がり、床を担ぎ、出ていきました。見ていた人たちは驚いて、神を賛美しました。(12節)
 9節の「起きて」、と11節の「起きあがって」と12節の「起きあがり」は同じ動詞で
「起こす」という言葉です。これはマルコ福音書では、イエスの復活の場面で用いられる言葉と同じです。マルコ福音書の復活を示す場面ではこの言葉が、「起こされた」という受け身で使われています(16:6)。受け身で書かれることにより、復活は神が「イエスを起こした」ということであり、イエスは神の手で復活させられたという点に重きがおかれる表現となります。特に12節の「起きあがり」はもともとのかたちですと受け身で書かれており、イエスの復活と同様、神によって「起こされた」ということが強調されているし、キリストの復活を重ねられているということが言えそうです。また、9節の「床をかついで歩け」の「歩け」は「生きろ」と訳すことができるようです。ただ単に病がいやされた、というだけでなく、神によって、病の床から起こされ、病によってがんじがらめにされているところから自由にされて「生きる」ということが、「生きていく」ということがこの中風の人に与えられた奇跡でした。

 この物語を読み進めていて、気にかかることがあります。それは
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10節)という言葉であり、なぜそのようなことをイエスはおっしゃったのか、また、イエスがおっしゃった言葉ではなく、マルコを残した福音記者がここにこのことを入れたのだとしたら、なぜ福音記者はこのような残し方をしたのか、ということです。
 「人の子」という言葉はダニエル書の
「人の子のようなもの」(ダニエル7:13等)が由来となっているというのが伝統的に言われております。これは神の主権と栄光をあらわす存在です。ここに立ち、イエスのいう「人の子」は、神的存在であり、神の権威を、神の栄光をあらわす存在であるというのが伝統的な解釈です。そこから、イエスはメシア・キリストであり、神であるということが言われています。「神であるから当然に奇跡も起こせるし、しるしを与えてくださるし、病も癒せる」。それをわたしたちは伝統的にそのようにキリストであるイエスのことを考えてきました。はたしてそうなのか?と私は思います。イエスが「人の子」を神的存在である御自身の自称、としてお使いになったのなら、なぜ「神の子」と自称されなかったのかと思うからです。
 その伝統的な「人の子」という理解に対して、「人の子は人間というだけの意味合いであり、イエスのみならず、人間にはそれだけの権威があるという意味合いだ。」という聖書学者もいます。そして旧約聖書をひもとくと、人間という意味での「人の子」が使われているところが見受けられます。特にエゼキエル書に多いようです。
 また「罪の赦し」ということを考えれば、「罪の赦しが可能なのは神のみ」であって、「罪の赦しは神の大権である」であるというところに立ちながらも、人は神による贖罪を宣言することができるということを示している記事があります。サムエル記の下12章13節です。ダビデの不貞の罪に対して預言者ナタンは叱責するのですが、ダビデが悔い改めると
「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」(サム下12:13)と罪の赦しを預言者が宣言しています。イエスの「子よ、あなたの罪は赦される」という宣言はこのような「神が赦すゆえの人の口からの宣言」なのではないでしょうか。
 罪の赦しということで言えば、「イエス・キリストの十字架での贖い」ということを持ち出すまでもなく、神は先行して赦しを与えてくださっているのではないかと、私は旧約聖書を読んでいて思うことがあります。たとえばヨナ書です。神の言葉を受けて、預言者ヨナはニネベに滅びの預言を携えて行くのですが、ヨナが滅びの預言を行うと
「ニネべの人々は神を信じ」(ヨナ3:5)身分の高い者も低い者も悔い改め、また王までもが悔い改めました。それを見た神は思い直し、災いを下すのをおやめになりました。(3:10)また、イザヤ書にも「わたしはあなたを贖う」(イザヤ43:1等)という神の言葉が幾度も幾度もしるされております。「赦しを願うまえにすでに神は赦しておられる」ということが旧約聖書からも言うことができるのではないでしょうか。

 わたしたちも「神がすでに赦しておられるがゆえに赦しを宣言することができる」のではないでしょうか。イエスのいた時代には、奇跡的な癒しということがいまよりももっと起こっていたでしょう。それは、「病は罪の結果である」とか「病は悪霊の仕業である」ということがもっと迫真的に信じられていたからです。むしろそれ以外になかったわけです。それをだれもがそうであると当然に考えているところであったゆえに、そのような奇跡は今よりももっと起こっていたと言われます。しかし、わたしたちの生きる現代では、もう病の原因は「細菌やウィルス」であったり、ほかの要因で病にいたることを知っています。原因がわからなかったとしても、イエスの時代のような「罪」とか「悪霊」とかそのようなものが原因であるとは信じていません。そういう意味では、わたしたちはイエスのような、わかりやすい、劇的な奇跡を起こすことはできません。しかし、「あなたが悪いわけではない。罪のせいでもない。あなたの罪はすでに赦されている。もっというならあなたはそもそも罪を犯してないかもしれない。」と宣言することで、現代でも残っている「自業自得である」という因果応報的な価値観でがんじがらめになっている人に「生きる」ことができるようにするという、そのような「小さな奇跡」を起こしていくことはできるのはないかと思うのです。そのような宣言を重ねていくことで、わたしたちもまた人を解放していく器として用いられるのではないでしょうか。わたしたちがするべきことは、そのような「赦しの宣言」に基づく生き方ではないでしょうか。「人の子」、すなわち人間であるイエスが為した「宣言」はそのようなものだったのではないでしょうか。

 お祈りします。
 すべての命の源である神さま、本日は聖書から「イエスが罪の赦しを宣言されたように、わたしたちも、神がすでに赦していることを知っているがゆえに、罪の赦しを宣言する」ということを聴きました。どうか、わたしたちがすでに「赦されている」ことを心から信じ、そのことに信頼して、「宣言」し、それにふさわしい歩みをなしていくことができますように、導いてください。
 この祈りを、全き人として地上を歩まれ御心を全うしたイエス・キリストの御名で祈ります。   アーメン。


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