sayaka chapel

共に苦しむ

2013年10月22日 
某神学校 説教演習


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イザヤ書5章1~12節

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
 この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて
 主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように
 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。
 彼は不法を働かず
 その口に偽りもなかったのに
 その墓は神に逆らう者と共にされ
 富める者と共に葬られた。
 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
 彼は自らを償いの献げ物とした。
 彼は、子孫が末永く続くのを見る。
 主の望まれることは
 彼の手によって成し遂げられる。
 彼は自らの苦しみの実りを見
 それを知って満足する。
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った。
 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
 彼が自らをなげうち、死んで
 罪人のひとりに数えられたからだ。
 多くの人の過ちを担い
 背いた者のために執り成しをしたのは
 この人であった。


 

 この苦難の僕の詩と呼ばれている第二イザヤの預言には、私にとって思い入れの深いものがあります。
 某神学校の入試で、旧約聖書について問われる問題があり、このような設問であったと思います。「イザヤ書53章の『苦難の僕』のところを読んで、思うところを論述してください。」新約聖書の他の問題、また旧約聖書のもうひとつの問題は、わりと率直に書けたのですが、この問題に対しては書ききることができませんでした。他の問題に時間をかけすぎて、書けなかったということもありますけれど、それだけではなくて、私自身がそのときにはこの詩にたいしては「そのまま信じていた」というか「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(5節)という言葉をやはり信じていたということがあります。一方で「人間のいえにえなんて残酷すぎる。そのようなものを神は求めるのだろうか?」という疑問があって、その答案用紙の前でそのことを整理できない自分がいたのでした。
 葛藤があったということは、洗礼を受ける決心をするのにこの御言葉をめぐる出来事が背中を押すことになったということもあったからでした。大学三年の秋、友人に「面白い聖書解釈をする人がいる」と連れられて、大学から割と近くのメノナイト教会の「聖書の学び会」にいくようになりました。その前から数年洗礼を受けることになる母教会に通い続けていましたし、大学の目の前の福音自由派の教会に遊びにいくようになっていましたが、なかなか洗礼を受ける気にはなりませんでした。その「聖書の学び会」でこのイザヤ書の苦難の僕の詩を学んだときに、その牧師に「傷は残っているけれど、痛みは癒されるんだ。なぜ信じない?」と叱責され、洗礼を受けないまま教会がよいを続けている私に「中途半端な教会生活を送っているならやめたほうがよい。神さま泣いてるよ。」と言われました。あとからその牧師からきいたことですけれど、「最初来たときクリスチャンだと思った。だから後押しするようなことを言ったんだ。」ということだったようです。言われたとき、私はその言葉に冷ややかな目線を送りながら、「神さまが泣いている」という言葉が気になっていました。ここで「神さまが怒っている」と言われたなら、私はキリスト教から離れていたでしょう。「泣いている」「泣く神」であるということが、私を捕えることになりました。
 それから2ヶ月くらい、アドベントの時期を迎えました。なぜか映画「パッション」を観たくなり、大学図書館で外国語教材として入れられているDVDで観ました。観ている最中も、また見終わって大学の寮に帰る道すがらも、ずっと泣いていました。「十字架が私のためであった」と思うことができるように思えました。「傷は残るけれど、その傷の痛みすらキリストは十字架におかかりになることで癒されたのだ」と思いました。「お願いだからあけておくれ。責任はとるから。」と神の声が聞えたようなきがしました。そのことで、これから「生きる」ことを決心して洗礼をうけることにしたのでした。アドベントで受洗を決意し、3ヶ月の学びの時をもち翌年のイースターで洗礼を受けることになりました。今年で7年目を迎えました。私の聖書にはこの53章に鉛筆書きで「傷は残っているけど 痛みはいやされた、と信じる。」と残っています。

 この「苦難の僕」の詩は、伝統的には、イエス・キリストの受難、贖罪の預言であると解されてきました。十字架のイエスの残酷でなげかわしい死に様を見て、「輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(2節)、「人々に見棄てられ」(3節)という言葉がむすびつき、そのように理解されたのでしょう。イエスの死がむごたらしいことこの上なく、また無実の者がこのような悲劇としかいえないような殺され方をするという現実を受け容れていくために「私たちのためであった」「私たちの罪のゆるしのためであった」という素朴な信仰につながっていったのだと思います。そのただ中にある人はそのように理解することしかなかったのだろうし、無理からぬことだと思います。

 ただ、それをそのまま信じることには問題があるように感じます。神は人間のいけにえを必要とされるような方なのか。そのような神は信じるに値するのか。いやそんな抽象的な問題ではなく、十字架での贖罪を善とすることで、「十字架にかかって死ぬ」ということを信じる者に求めることになっていくのではないか、「十字架について私たちのために苦しんだ方がおられるのだから私たちもそれ以下の苦難に耐えようではないか」ということを無理に押し進め、名状しがたい苦しみ、悲しみを無視し、これを信じようとする人たちにしなくてもよい「自己犠牲」を強いることになるのではないか、またそのような自己犠牲を教会は求め、信じる者を都合良く利用してきたのではないかと思うのです。その点でこの伝統的な解釈そのままで、この詩を読むことを私はもうできません。

 その中で、この苦難の僕の詩を「贖罪死」ではないと解釈した注解に出会いました。ワイブレイという方の注解です。簡単にいうと苦難の僕の詩は「贖罪」ではなく「共苦」、「共に苦しむ」僕の姿だというのです。この詩のモデルは第二イザヤであり、その役割は民のために苦しむのではなく、民の苦しみを「共有する」ということでした。
 ワイブレイの註解によると、「わたしたちの背きのため」「わたしたちの咎のため」(5節)というのは、「ために」というのが間違った解釈をされてきた。罪の転移ということを著者が考えていたというのなら、用いられる前置詞は別のものであったはずである。僕の苦難を人々が受けるに値した罰を受ける「身代わり」ではなく、人々の罪の「結果」として著者がこのように考えている、というのです。
 またこのようにも言われます。「旧約聖書では他のどこにも、人間の命が罪の献げ物になり得ることを、字義通りであれ隠喩的にであれ、語っているところはない。そして、そのような考えは旧約聖書の思想には全く異質であると思われるであろう。もし、そのような新奇な驚くべき考えを導入しようと考えたとするならば、われわれは著者がそのことをもっと明確に述べているはずだと期待するべきである。」
 旧約聖書をひもとくと、いけにえを求めない神の姿にも出会います。ホセア書の6章6節にこのような言葉があります。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」マタイ福音書の9章13節でもイエスはここを引用して律法学者を諭しています。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』ということがどういう意味か、行って学びなさい。」(マタイ9:13)

 共苦といえば、イエスもまた共苦の人でした。世にあって病がある人たちを「憐れみ」、その人たちとひとつとなることで癒しを行う人でした。「憐れむ」というのは「腸が突き動かされる」という意味を持つことばが原典では用いられております。腸が突き動かされるほどの憐れみによって、時には律法の精神を忘れ去り、文字通りの律法の運用によって憐れみを受けなければならない小さくされていた人を踏みにじっている態度をイエスは批判したために十字架につけられることになるのでした。「贖罪のため」ではなく生き様の「結果」としてというのなら、苦難の僕とイエスの姿は結びつくように思うのです。

 そのように思えば私が最初にこの詩にひかれて洗礼に導かれたのも、あながちまちがいではなかったという風に思えます。私が求めていたのは「贖罪」ではなく「共苦」であり、共感だったのです。傷ついていることに対する理解と受容だったのだと思うのです。そのことは「身代わり」「贖罪」ということを言わなくても、イエスも、もっといえば神御自身も負ってくださるということを今でも信じています。
 共に苦しむことによって得た結果が、第二イザヤにとっては「命ある者の地から断たれたこと」(8節)であり、イエスにとっては「十字架」でした。それは「身代わり」ではなくあくまで「結果」です。結果であって、「目的そのもの」ではないのです。神が求めるのは愛であり、いけにえではないのです。

※「ワイブレイの注解」はR・N・ワイブレイ(高柳富夫訳)『ニューセンチュリー聖書注解 イザヤ書40-66章』日本キリスト教団出版局、2012年 です。


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