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イエスさまのお食事

2013年10月27日(日) 
某教会 子どもの教会説教


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マルコによる福音書2章13~16節

 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。


マルコによる福音書6章38~42節

 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
 すべての人が食べて満腹した。


マルコによる福音書14章22~25節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

ルカによる福音書11章37節

 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。

ルカによる19章1~8節

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」


 

 みんなこれ覚えてる?
 そう、子ども会の「夏のお楽しみ会」でつくった「イエスさまのご生涯すごろく」です。楽しかったよね。「難易度マックス」って書いてあるけど、一番最初にあがる人が出るまで30分以上かかったりして、これで遊ぶだけで「イエスさまって33才までしか生きなかったけれど、大変なご生涯だったんだな~」というのがわかったと思いました。

 で、すごろくをつくったあとにね、爽歌さんはこんなことを思いました。「やっぱりイエスさまって、食事をすること、いろんな人といっしょにごはんを食べることを大切にしてたんだな」って。すごろくの中で「ごはんを食べた」ってことがわかるところはありますか?五千人の共食もそうだし、最後の晩餐もそうです。カナの婚礼もそうだよね。カナの婚礼では、イエスさまは水をワインに変えてくださったけれど、それは結婚式が途中でワインがなくなった大変だ台無しになってしまう~っていう風にならないために、そんな奇跡を起こしてくれたんだろうなって思います。

 このすごろくの中にはないけれど、聖書の中には、きっとイエスさまは、いろんな人のおうちにお泊まりしていっしょにご飯をたべたりしたんだろうなって、お話がいっぱい残っています。ザアカイさんのお話しってる?ザアカイさんは徴税人ってお仕事をしていていました。徴税人はローマのお国の税金を集めるお仕事なんだけど、「ユダヤ人なのにローマの国の税金を集めてるなんて」とかいわれて、中には乱暴なやり方をする人がいたから嫌われていました。ある日、イエスさまはザアカイさんの住んでいる町にやってきて、大騒ぎになって人がいっぱい集まったんだけど、人がいっぱい集まりすぎて、ザアカイさんはイエスさまの姿がみたいけど、背が低いから見えなかったんだって。町の人に嫌われているから列の中にいれてくれなかった。ザアカイさんはどうしてもイエスさまを見たいと思って、いちじくの木に登りました。それを見ていたイエスさまはこう言いました。「ザアカイさん、今日はあなたの家に泊まりたいです。」ザアカイさんはそれを聞いて喜んで、イエスさまをお家にむかえました、って聖書に書いてあります。他にも昔病気になって嫌われていたんだろうなって思われる人のお家でいっしょにごはん食べていました。そうやって世の中で「罪人」と言われて嫌われている人といっしょにご飯食べたりすることで、神さまのことを伝えていました。
 あとね、イエスさまは自分のことを嫌っている律法学者とかファリサイ派とか言われている人たちから呼ばれていっしょにごはんを食べたみたい。すごいね、イエスさま。みんな自分を嫌っている人といっしょにご飯食べられますか?
 最後の晩餐もね、お弟子さんたちと一緒に「過越の祭」のための食事をしていたんだけど、考えてみたらさ、そこにはそのあとお金のためにイエスさまを裏切ってしまう、イスカリオテのユダさんとか、イエスさまが捕まっちゃったあとに「お前はあのイエスの仲間だろ?」ってきかれて「違いますそうじゃありません」って3回言っちゃうペトロさんとか、その他にもイエスさまが捕まったら殺されちゃうから逃げてしまったお弟子さんたちがみんないたんだよね。イエスさまはご自分が捕まった後お弟子さんたちはみんな裏切っちゃうことをわかっていたけれど、やっぱりそこでいっしょにごはんを食べました。
 礼拝では月の最初の日曜日「主の食卓」というのをしています。これは「最後の晩餐」のときにイエスさまが「わたしを思い出すためにこういう風にしてね」っていったこととか、やっぱり「五千人の共食」でたくさんの人と楽しくごはんを食べたこととか、そういうことを思い出すためにやっています。「主の食卓はこういうことです」っていうのを牧師先生は難しい言葉で言っているんだけど、その中で「どなたでもどうぞ」って言っているんだよね。
 考えてみれば「どなたでも」ってすごいことだなと思います。「どなたでも」っていうのは「誰でも」っていうことだよね。「誰でも」っていうのはやっぱり「誰でも」っていうことなんだよ。「あの人きらい~」とか「あのひとやだ~」とかいえないってことだよね。「あなたイエスさまのこと知りませんからいっしょにご飯食べられません」とかいえないってことです。そんなこと思う人はこの中にはいないと思うけど。もっと極端なことをいうと、「明日自分を裏切ったり殺しちゃうかもしれない人といっしょにごはん食べられますか?」ってことです。イエスさまはやったんだよね。最後の晩餐のあとにはお弟子さんたちはみんな裏切って逃げちゃったし、そのまえもっとまえにはいっつもケンカしている律法学者ともごはんいっしょに食べたんだから。これは大変なことだと思います。
 主の食卓は、「最後の晩餐」や「五千人の共食」それだけでなくて、イエスさまのご生涯の中のいろんな、いっしょにごはんを食べたという思い出がみんなこめられているものです。「誰とでもいっしょにごはんを食べる」っているのは、イエスさまのご生涯そのものだったんだな、って思います。

 お祈りします。
 いのちの源である神さま。今日は子どもたちと「主の食卓」「聖餐」というものはどういうことかということを考え直しました。イエスは、その生涯において、「共に食事をする」ということによって、神の国を宣べ伝えました。そこには「誰をも排除しない」という食卓がありました。
 「誰でも」ということは覚悟のいることです。わたしたちがそれを忘れることなく、イエスに倣い、それを行っていくことができますように、導いてください。
 この祈りを、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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