sayaka chapel

神の似姿

2014年2月21日 2013年度 某神学校旧約釈義期末レポートより

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創世記1章1節から2章4a

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。
 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
 これが天地創造の由来である。


 本日与えられました聖書は創世記の1章の天地創造の物語です。旧約聖書には2つの創造物語がございます。ひとつは本日の聖書の通り、混沌から光を創造し、水をわけ、天体をつくり、植物をつくり、動物をつくり、最後に人間をつくり、安息されたという物語であり、もうひとつは、乾いた地から水がわきだし、土から人をつくり、その人を助けるものを与えるために、動物をつくり、最後に人を眠らせその肋骨をとり、そのあばら骨が助ける者になる、という物語(創2章)です。創世記という一つの書の中に、ふたつの創造物語があるなんて、しかもその創造物語は明らかにそれぞれを混ぜ合わせて読むことはできないとものであるなんて、それは矛盾ではないかと思われるかもしれません。矛盾だと感じてしまうのは「その物語の通りに世界がつくられた」と考えてしまいがちだからでしょう。「世界が本当はどのように造られたか」ということはこの物語たちを造り出した人たちのいちばんの関心ではなかったかもしれません。そこには、間違いなく創造された神への信頼があり、また人間はどのようなものであるのかということを問うものがあります。どちらの物語にも、この物語たちを残していった人たちの大切な記憶と思いがあり、また現代の私たちにもその物語たちから問われていることがたくさんあるのだと感じます。
 創世記第1章の物語ひとつとりましても、これはある日1日でできたものではありません。口承伝承の時代を経て、何百年もかけて練り上げられ、豊かさが増しくわえてきたものであります。たった30節あまりの短い文章にこめられているたくさんの示しは、それだけで数えきれないほど多くの書物を書き残してもつきないものがこめられております。
 その中から、本日はこのことを分かち合いたいと願います。それは「人は神の似姿である」ということ、「人は神の似姿としてつくられた」ということです。

 神は創造の御業の最後に人間をつくります。世界を整え、植物と動物を造り、最後に人間を造ります。本文を丁寧に読み進めますと、この人間の創造が、この物語の中心であり、クライマックスであるとわかります。
 26節には「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とあります。新共同訳ではニュアンスがわかりにくいのですけれど、「われらのかたちに、われらの姿に似せて人間(アダム)を造ろう。」(月本昭男訳)というのが直訳に近いと思います。ここには二つの名詞があります。「かたち」と「姿」は原典でも別の言葉です。
ここで「かたち」と訳されている言葉は、は、元来神や人間などを象った「像」のことであります。「姿」と訳されている言葉は、「なぞらえる」という動詞から生まれた言葉で、これも神や人間などの「似姿」を意味します。神の似姿についてはさまざまな議論がされてきました。旧約聖書外典の「知恵の書」2章23節には、「神は人間を不滅な者として創造し/ご自分の本性に似姿として造られた。」という言葉があります。同じく外典の「シラ書」17章1節から14節にも人間の「善悪の区別」や「神を畏れること」などの精神的な賜物が「似姿」である、ということが記されています。どちらも「似姿」ということについて格闘した尊い思索ではありますが、あくまで後代の解釈です。「似姿」ということについて、確定的にこういう意味であるということは、簡単に示せるものではありません。
 ただ、当時この「神の似姿」ということを聴いた人たちが思い受かべたことは、地上の物資でつくられた「神の像」であり、偶像でありました。それが当時の宗教祭儀において重要な役割を担ったことは間違いありません。もうひとつ「神の似姿」ときいて、思い浮かべられたであろうものがあります。それは世を支配する王、でありました。古代エジプトにおいてはファラオが「神の地上に生きる似姿」とみなされておりました。
 それを考えると、聖書の中で「神は御自分にかたどって人を創造された」(27節)ということは、一定の主張を含んでいることになります。それは、「神の似姿とは『王』のことではない。人間が人間である限り、誰もが神の似姿である」ということです。それは、「人間が人間を支配することはゆるされない」という現実への批判でもあります。
 この本文自体には「神の像」や「神の似姿」の明確な意味は見いだせません。「神の似姿とは何か?」きっと昔から多くの人が問い続けてきたことでしょう。詩編8編にこのような詩があります。「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。/月も星もあなたが配置なさったもの。/そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何者なのでしょう。/人の子は何者なのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(詩8:4・5)
 「神のかたちに」「神の姿に似せて」人間が造られたという聖書の記述は、その聖書を見聞きしたすべての人に問いを発しています。「神の似姿である人間とは何か?」「人間とはどうあるべきか?」「そもそも神はどのような方であるのか?」という問いです。神に直接呼びかけられる人間(1:28)は、このような問いを抱えながら、自問自答しながら生きていくことが示されているように思うのです。問い続けるということが、神が人間に求めておられることであり、「似姿である」ということではないでしょうか。


(これは2013年度某神学校「旧約釈義」の期末レポートの一部です。創世記1章~2章4節までを釈義した上で、ショートメッセージを作成するという課題でした。釈義の多くを、月本昭夫『創世記Ⅰ(リーフ・バイブル・コンメンタリーシリーズ)』日本キリスト教団出版局、1996年によりました。)



 


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