sayaka chapel

愛し方はひとそれぞれ
(ロングバージョン)

2014年4月15日
某神学校 学内礼拝説教


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ルカ10章38節~42節

【新共同訳】
 一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを言えに迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしなく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


【本田哲郎訳】
 一行が道をゆくかたわら、イエスはとある村に立ちよった。マルタという名の一人の女性がイエスを家に迎え入れた。マルタにはマリアという妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話しに聞き入っていた。マルタは、あれこれもてなしのために忙しくしていたが、そばに来て言った。「主よ、妹がわたしだけにもてなしをさせているのを、あなたは気になりませんか。わたしを手伝うように言ってやってください」。すると、主はマルタに言った。「マルタ、マルタ、あなたはあれこれ気づかい、心配してくれている。必要なことは、ひとそれぞれだよ。マリアは自分にいいほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない」。


 


  本日はルカによる福音書に残されているマルタとマリアの物語から、御言葉の解き明かしをいたします。
 この物語はルカ福音書のみに残されているものでありますけれど、ルカ福音書の記者は独自の伝承を手に入れ、手を加え、このような形で福音書の中に残しました。この記事は、同じく10章の25節からのいわゆる「善いサマリア人のたとえ」のあとに収められています。イエスと律法の専門家との「永遠の命についての問答」があり、永遠の命を得るためには律法を全うするようにという結論が出されています(28節。)そして「律法を全うすることとは具体的にはどのようなことであるか」について「善いサマリア人のたとえ」をもって論証しております。そのあとにこのマルタとマリアの物語が置かれています。福音記者はこの物語によって、さらに「愛するとはどのようなことであるか」ということを、例示しております。
 このマルタとマリアの姉妹は、明らかにイエスの弟子として描かれております。それは、聖書でこの二人がどのように描かれているかということでわかります。39節で「マリアは主の足元に座って、その話に聞き入っていた。」とあります。「足もとに座って」というのは、ユダヤ教のラビが弟子に教えるときの姿勢です。ここから、イエスがマリアを弟子として扱っておられることがわかります。マルタについては、40節の「もてなしのために」という言葉によって示されます。もとの言葉は「仕える」という言葉であります。もともとの意味は「食卓の世話をすること」でありますが、意味が広がり、福音を告知すること、のちには教会の指導者であることを含むようになりました。マルタもまたこのような具体的な働きをする弟子として仕えているということを彷彿とさせております。この物語は、弟子としての愛の振る舞いとはいかなるものであるかについて教えているとも言えるでしょう。
 マルタのふるまいによって「具体的な奉仕」が象徴されており、他方マリアの態度によって「キリストの愛の御言葉を聴く」という仕え方が暗示されております。伝統的には、42節の「マリアは良い方を選んだ」という御言葉により、マルタのような具体的な奉仕の業よりも、マリアのように「キリストの御言葉を聴く」ことを優先させるべきだというように教えられております。果たして本当にそうなのでしょうか。
 ここでこの「マリアは良い方を選んだ」という御言葉に着目いたします。
 「良い方」と訳されている「方」ですが、これは「部分」とか「分け前」という意味の言葉です。新共同訳ではどうしても比較のニュアンスが伴いますが、もともとの言葉には比較の意味にはありません。直訳すると「マリアは良い部分を選んだ」ということになります。ほとんどの聖書翻訳は「良い方を選んだ」となっておりますが、絹川久子さんは「良い皿を選んだ」とし、釜が崎の本田哲郎神父は「マリアは自分にいいほうを選んだのだ」と翻訳しております。ここは、マリア自身にとって良い方を選びとった、良い愛の示し方を選んだということになりましょう。それと同時に「マルタはマルタで良い方を選んで」もてなしの準備をしていたということになるでしょう。
 そうであるにしても、イエスのマルタへの態度は手厳しいというか、そっけないように感じます。「あなたはあなたで自分が好きでもてなしの準備をしているのであるからそれでいいではないか」という態度です。どうしてそうなのかもここで考えたいと思います。マリアが何をしていたのか、何を聴いていたのか、イエスは何を語っていたのかということです。伝統的には「マリアはイエスの教えを聴いていただけで何もしていない」と考えられております。本当にそうでしょうか?本当に「何もしていなかった」と言えるのでしょうか?
 私はイエスが伝統的な解釈のようにマリアに神の国の教えを述べていただけ、とは思えないのです。マリアもまたイエスの教えを聴いていただけ、とも思えないのです。
 この物語の中で、イエスは、ひとりでマルタとマリアの家を訪ねています。他の男性弟子たちがいたようには読めません。エルサレムに向かっていく旅の途上であったと読める記事であるにも関わらずです。わざわざ人払いをして一人で訪ねたいと思うほどの弟子たちだったのでしょう。
 それほどの弟子たちを旅の途上で訪ねて、何を話すのかということです。毎日のように頻繁に会うという訳ではない親しい弟子に話すことは「近況報告」であって「宣教活動報告」なのではないでしょうか。確かに福音の教えを語っていたかもしれません。神の国の奥義を語っていたかも知れません。しかしそれだけではないでしょう。「こんなことがあったんだよ」と旅の中でのさまざまな出会いと出来事を思いのまま語られていたのではないでしょうか。もっというならば、エルサレムに近づくにつれ、あの十字架のご受難に近づいていくわけです。イエスが生前どれだけあの十字架の死につかれることになることをご存知であったかはわかりませんが、神であるから当然ご存知だったであろうとするならば、むしろなおさらその恐怖にかられていたことでしょう。「俺は律法学者たちに殺されるかも知れない」という深刻な思いを、率直な恐怖を語られていたのかも知れません。宣教の旅の途上では、イエスを好ましく思わない人から監視されていたり、嫌がらせを受けたりしていたでしょう。そして十字架につかれることがわかっていたならば、親しい弟子たちに伝え残したいことは山程あったでしょう。いくら話してもいくら語っても語り尽くせないほどにです。
 そのような深刻な話をしているときに、このマルタのように「妹が手伝ってくれないから、手伝うように言ってください。」と言って、割って入ってこられたら、どう感じるのだろうと思うのです。率直に言って「怒り」を感じるのではないでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41~42節)というイエスの言葉は、「マルタよ、自分の意志でもてなそうと忙しくしているのに、それを不満に思うというのはどういうことだ。人がするべき役割で必要なことは人それぞれ違うんだ。マリアはマリアの思いがあって俺の話を聴いてくれている。それを取り上げるようなマネをして邪魔をするな。」ということだと思うのです。イエスはマルタのもてなしに感謝をしていないということはないと思いますけれど、ここではイエスの思いに寄り添い、真剣に耳を傾けてくれているマリアのあり方を本当にありがたいものであると感じているのだと思うのです。マリアが示した愛は、人の率直な思いに真剣に耳を傾けるというものでした。率直な心情というものは、聴いている者にとって耳障りの良いものでないことも多いものです。そこに寄り添っていくというのは本来並大抵なことではありません。「ただ話をきいていただけ」と一蹴することはできないものです。

 私たちはこのような意味でマルタのようになってはいないでしょうか。自分が真剣に仕えているから、奉仕をしているからといって、他の人のあり方を否定するようなことをしていないでしょうか。人それぞれ神さまからお借りしている賜物が違います。もののとらえ方が違います。視点が違います。このマリアのように「一見わかりにくい仕え方」をしている人もいます。自分が見えないところで、立ち働いている人もいるかもしれません。「他の人が何もやってない」などとは、人は本来言うことはできません。たとえ本当に人が何もしていなかったとしても、本当に主体的に「良い方を選んで」仕えているならば、不満はないはずです。不満が出るというなら、心から仕えることができていないのかもしれませんし、もともとその奉仕が自分自身にとって無理のあるものであるかもしれません。
 本来、マルタもよいし、マリアもよいのです。それぞれの仕え方、愛の示し方で良いのです。人それぞれにその人にふさわしい奉仕のあり方、仕え方があるのです。互いの賜物を否定することなく、生かし合い、仕え合うものでありたいと願います。

 お祈りします。
 すべての命の源である神さま、御名をあがめて賛美します。
 本日はマルタとマリアの物語から、愛と奉仕について学びました。マルタにはマルタの役割があり、マリアにはマリアの役割が与えられています。私たちにもそれぞれ異なった賜物をあなたから与えられております。私たちが互いの違いを認め合い、自ら選びとってあなたに仕えていくことができますように。
 この神学校も新学期を迎えました。この神学校があなたの真に証しするための場所となりますように導いてください。特にこの4月よりここに招かれた新入生のために祈ります。ここに招かれた時の最初の思いを忘れることなく、またそれでいて新たな示唆が与えられ変わっていくことを恐れないようにしてください。今までの環境とは著しく変わった人もいます。どうか健康が支えられますように、すべきことができるように整えてください。
 この祈りを、生き様によって愛することを示された私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。


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