sayaka chapel

冷たさに愛を

2014年4月22日
某神学校 説教演習


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マルコ25章31節~46節

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをよりわけ、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿をかし、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねになったでしょうか。』そこで王は答える。『はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のときに、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼等も答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり云っておく、この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


 


 本日の聖書は、マタイ福音書にあります、すべての民を羊と山羊に分け、人の子ないし王が審判を下すという物語です。もともと言い伝えらえていたこの物語を、福音記者は編集し、このところに置きました。それは、31節では「人の子」と書き出されているのにもかからず、読み進めていくと、羊と山羊を分け、審判を行うのは「王」(34節)となっていることからわかります。この記事の後には、いよいよイエスのご受難の物語がはじまっていきます。受難物語の直前、そしてイエスの生前の活動を伝える部分のしめくくりとしてこの記事が置かれているわけです。福音記者はイエスの生前の活動をまとめたこの25章の本当に最後に、伝承の力を借りて、最も書き残しておきたかったことを書き置いたのでしょう。それは、イエスが律法の完成者(5:17)であるということ、その律法の根本は、「心を尽し、精神を尽くし、思いを尽してあなたの神である主を愛しなさい」(22:37)そして「隣人を自分のように愛しなさい。」(22:39)という二つで一つの掟であるということです。マタイ福音書では「律法と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(22:40)と宣言されています。福音記者は、イエスのご生涯を伝える記事のしめくくりとしてこの物語を置くことで、神を愛し、人を愛するということは具体的にはどのようなことであるのか、この律法を実践するということはどのようなことであるのか、伝えています。
 本文を読み進めていきましょう。
 物語は「人の子が栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座につく。」(31節)というところから始まります。福音記者は、最後の審判は「人の子がやってくる」ことでなされるものだということを信じています。そして「すべての国の民」(32節)を集め、「羊と山羊を分けるように」(32節)右と左に分けます。この「すべての国の民」という言葉は「民族」という言葉です。ここではユダヤ人だけではなく、ましてやクリスチャンだけではなく世界中のすべての人がここで人の子ないし王の裁きをうけることになるというのです。
「羊と山羊」ということはどういうことか現代に生きる私たちにはわかりかねるところがありますけれど、これは当時のパレスチナでは羊と山羊を同じ群で飼うことはあたりまえに行われていたということが背景にあります。同じ群で飼っていたとしても、夕方になると羊飼いは羊と山羊を分けなければなりません。それは、羊は羊毛にくるまれているため寒さにつよいので涼しいところにおかなければならないためであり、反対にやぎは体温を奪われがちでありますから暖かいところで夜をすごさせなければならないからです。
 王は羊の側、右側に分けられた人を祝福し「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(34節)と言います。そして選ばれた人たちが王にしたとされる具体的な業にふれます。これはユダヤ教の徳目にさかのぼるそうですが、そのユダヤ教で伝えられている徳目の中にはある「死者に対する尊敬」がここでは書かれていません。福音記者の関心は、死んだ人に対してよりも、「今生きていて仕えられることが必要な人」に向けられているようです。
 ここでの「旅をしていたとき」という言葉は、「旅人」という意味もありますが、ここでは「よそ者」というニュアンスが強いようです。ある町の中で、その町の市民権を持たない者がここでいうよそ者です。不遇な体験をすることも多かったかもしれません。「宿を貸し」という訳になっておりますが、「よそ者」とされている人を受け入れることを示しております。
 選ばれた人たちは、この王の言葉を聴いてとまどいます。「主よ、いつわたしたちは・・・」(36~39節)と言います。この王に仕え、愛し、具体的なよいことをしたという覚えがないというのです。それに対して王は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)
 ここで、具体的な奉仕をうけなければならない状況にある人のことを、王は「わたしの兄弟」(40節)と言っているのです。ユダヤ人の感覚ではもっと広く「身内」という言葉に近くなるのではないかといわれています。「わたしに直接してくれたわけではないけれど、うちの身内にしてくれた。ありがとう。」ということなのでしょう。小さくされた人とイエス、または神との直接的に、または神秘的に何か共通するものがあるというわけではないかもしれません。しかし、あらゆる身分の低い人、危険にさらされている人、抑圧された人、社会からはずれてしまった人を通して、もうすでに神ないしイエスに出会っているということを示しています。
 右の人を祝福した後には、山羊の側に分けられた人たちに、呪いの裁きを宣言します(41~45節)。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(41節)という手厳しい裁きの宣言です。左側に分けられた人たちもまた「覚えがない」と言います。それに対して王は「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」(45節)と言います。そして、「この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(46節)という言葉で終わっています。

 この物語の特色ある点は、羊に分けられた人も山羊に分けられた人も「知らないでそうしている」ということです。羊に分けられた人たちは今までにしてきた愛の業を「王のため」にしているとは知らずにしているし、また山羊に分けられた人も、「知らないで」そうしなかったわけです。「知らない」でするということ、もしくは「知らないで」しないということはどういうことでしょうか?
 人が愛を行うというときには、また具体的に何かをしようとしているときには、自分が「特定の信仰信条をもっているから今これをしなければならないんだ」ということは考えていないのではないでしょうか。確かに特定の信仰・信条はその人の生き方の方向性を決め、その人のあり方を決めるものでありますが、具体的な行動に出るときに、それも何かに突き動かされて行動を起こすというとき、それを全面に出して何かをするということは、少ないのではないでしょうか。「知らない」ということには計算が働きません。「神のため」とか「信仰のため」という理由づけすら忘れて仕えていることがあるのではないでしょうか。よく聖書の中で「憐れむ」とか「憐れに思って」という言葉が出て来ます。原語にさかのぼれば「腸が突き動かされて」という意味になろうかと思います。またそれは旧約聖書の中では「子宮」という言葉につながります。「腸」ないし「子宮」が痛み、動き突き動かされる感覚をさす言葉です。もっと直観的でもっと言葉にしにくいような感覚の言葉です。そこには、観念になりかねない「信仰」は存在しないかもしれません。
 この物語は「すべての国の民」、すなわち、すべての民族、すべての人がこの裁きにあずかることになるというものです。ユダヤ人だけでなく、ましてはキリスト教徒だけではなく、すべての人が、という点が大切です。この物語は、特定の宗教に属している、いない、に関わらず、人としてかくあるべきという「通念」を示しているように思います。すべての人が「神を愛し人を愛せ」という最大の律法に招かれているということ、もっというならば、社会の中で抑圧を受けている人の助けになるということが、神のためになり人のためになるということです。私たちが知っているように神を信じていなかったとしても、その人の返ってくることになるということです。逆に、信仰を持ちながら、その神への信仰に対する応答としての具体的な行ないが何もないのだとしたら、その人の信仰はいかなるものであろうか?ということも同時に問われています。ある特定の信仰を持っているからといって無条件に「羊の側」に分けていただけるとは限らないというわけです。これは、「生前のイエスが、神を愛し人を愛し、小さくされた人の痛みに寄り添い、願いを聴き、具体的に癒し、具体的に支えられたのだから、私たちもそうあるべきである」ということ、そして当時の「宗教的儀礼だけをしていればそれでいい」となっていった教会共同体への批判であるとも言えるでしょう。

 最後に、「なぜ山羊の側に分けられた人はそうなのか」ということを考えたいと思います。「山羊」というものに何が象徴されているのかということです。先ほど申し上げました通り、当時のパレスチナでは羊と山羊を同じ群の中で飼うことは一般的に行われていたことで、夕方になると羊飼いは羊には涼しさが必要になるため、山羊には暖かさが必要となるため別々のところに置かなければなりません。羊は体温が高いですから、涼しさが必要で、山羊は細身で体温が奪われやすいですから暖かさが必要です。
 「山羊」とは「冷たさ」の象徴なのではないでしょうか。近くに抑圧されている人がいるのにも関わらずそこに関心を向けることができないような「冷たさ」です。その冷たさはもしかしたら「愛されたことがない」から起こることかもしれません。人に何をすればいいのかわからないから「冷たい」のかもしれません。同じマタイ福音書7章12節に「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これが律法と預言者である。」という言葉があります。人に何かしてもらった、愛された体験がなければ、人を愛することはできないのかもしれません。
 そうであるならば、まず愛を体験しなければならないのは、暖められなければならないのは「山羊に分けられた人たち」なのかもしれません。「こうしなければ喜ばれない」と批判するのではなく、そのような人が愛を体験し、愛を返していく道筋をつくっていくことが必要なのではないでしょうか。もしかして「最も小さくされた人」は「山羊」の中にもいるのかもしれません。山羊に分けられた人も愛を体験することで愛を返している「羊」の側に分けて頂くことができるようになるのです。

 これは人の子が栄光の座につく時の物語です。まだそれを見た人はいません。裁きがこの通り行われるかどうかも本当のところよくわかりません。しかし、それは、福音記者が書き残して伝えたかったことのごく一部でしょう。福音記者が伝え残したかったことは、「律法を全うするとはどのようなことであるか」ということであり、それは自分の計算なしに行った、もしかしたら当人は覚えていない愛の業であるということでしょう。世の終わりに王なる神に目をとめていただけるか、選んでいただけるかは関係なく、「知らずにしたことが神のためであった」ということが大切であるということを、この記事は伝えているのです。


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