sayaka chapel

教会とは何だろう

2014年8月31日
日本キリスト教団なか伝道所 主日礼拝使信


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詩編147編1-3節

 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく
  神への賛美はいかに美しく快いことか。
 主はエルサレムを再建し
  イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
 打ち砕かれた心の人々を癒し
  その傷を包んでくださる。

コリントの信徒への手紙(一)12章12-26節

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。



 


 おはようございます。某神学校4年の爽歌*sayakaです。毎年、8月のなか伝道所の夏のキャンプの「お留守番礼拝」に某神学校の学生を招いていただいております。今回は神学校を通して私を送って頂けることになりました。校長からこのお話をいただいてすぐにI牧師に連絡をしました。教会の運営委員会で「そういえばよくみかけるあの子の話をきいたことがないからきいてみたい」ということになった、ということをお伺いしました。そうやって覚えていただいて素朴に「うれしいなあ」と思いつつ、やはり緊張します。過去にここで使信を担当した先輩やら同期やら後輩から、といいつつ、3年分なので3人だけですけれど、使信の後の「分かち合い」がたいへんプレッシャーだったということを伺っております。せっかく選んでいただきましたので、本日のために私なりに考えていることをお話させていただきたいと願います。
 本日の聖書として、第1コリント12章12節から、そして詩編147編からの御言葉を選ばせて頂きました。ここから「教会とは何か」ということについて、考えてみたいと思います。
 Ⅰコリント書のこの部分は、「体」というたとえをもちいて、いわゆる教会とはどのような集まりであるのかということを伝えている部分です。12節に「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」とパウロは言います。つきつめて読むと実はよくわからない言葉です。特に「身体の部分は多くても、体は一つであるように」「キリストも同様」だというところです。「キリストはイエスのことではないか?イエスはおひとりだろうに?」と思うのですが、パウロは何を言いたかったのでしょうか?こればかりはパウロに聞いてみないとわからないところですが、キリストであるイエスも律法学者と対峙する厳しい面もあれば、癒し人として人々の悩み苦しみに寄り添い願いにこたえていたやさしいところもあるわけです。メシアおひとりのなかにもさまざまな面があるということを示している言葉なのかもしれません。それは、14節以下で一つの体に目があり、耳があり、鼻があるということを述べ、さまざまな働きをしている部分があって、一つの体であることを示しているからです。といってもこれも読み込みすぎであり、はずれているような気がします。別の書簡第2コリント5章16節で「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」とも述べているからです。生前のイエスには関心がないともとれる言葉です。これもパウロの中でももしかしたらいろいろな面があったということなのかもしれません。
 つづく13節には「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」とあります。これは洗礼式の式文の言葉にさかのぼるのではないかといわれています。つまり、ここでは「洗礼とは、身分の違いを超えて、ひとつの霊によってひとつとされることである」と宣言されております。
 パウロは洗礼式の言葉を引用しつつ、体のたとえを続けます。さきほど申し上げましたとおり、14節以下、「身体のたとえ」「体と部分の関係」について語っています。体のひとつひとつの部分が必要であり、大切であり、ある部分が他の部分に対して
「お前は要らない」(21節)とは言えないのです。たくさんの部分があることで一つの体がなりたっているということです。さらに「それどころか、身体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(22節)とも言います。見栄えの悪い部分を隠してかっこうよくしようとしがちだけれど、神はそうではない。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、身体を組み立てられました。」(24節)と述べ、神の配慮によって、体が組み立てられ、体に分裂が起こらず、それぞれの部分が配慮しあっている(26節)と言っています。最後に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(26節)という言葉でこの段落を閉じています。
 この部分を読んでおもしろいなと感じるのは、「一つ」ということをいいながらも、その「一つ」というのが、「多く」ということを含む「一つ」であるということです。
「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。」(19節)ということです。ここでいう「一つ」ということは、「同じ」になることでもすることでもないということです。何から何まで同じ考え方とか同じ生き方になるわけがないし、なるべきでもないということです。パウロもコリントにあった集まりに集うさまざまな人たちの現実を知っており、そのような実感をもっていたのでしょう。そして、私たちも同じだと思います。「同じ神を信じている。」「イエスを信じている。」と言ってみても、やはりその「神」に対してだったり、「イエス」に対して持っているイメージは、本当はひとりひとり微妙に違うのではないでしょうか。そして、それでいいのだと思います。
 教会とは、「ひとりひとり違う」ということに対して自覚している共同体なのではないか、と思うのです。「自覚している」というのが固いというなら、「ひとりひとり違う」ということを「わかっていて」、それを「わかっている」上で「それでひとつ」ということができる「集まり」ではないか、と思うのです。ひとりひとりが違うからこそ、違うということがわかっているからこそ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(26節)という言葉が言えるのではないでしょうか。
 このようなことを考えながら、現実の教会のことを考えます。人から聞く話でも、自分が体験したことをふりかえっても、また我が身のことを振り返っても、なかなかこれを実践していくのは難しいことに気が付きます。どれだけ他の部分を大事にできているだろうか、むしろできていないことの方が多いのではないだろうか、ということです。
 また、「違ったまま一つ」ということが思いとしてはわかったつもりであったとしても、人は「同じ」であることを求める傾向があるように感じます。なぜ、「同じ」であることを求めるのか、少し考えてみると、「共感」というキーワードがあるように思います。「同じ」であることで「共感」してもらえたと感じたり、「同じ」であるならば「自分の気持ちがわかってもらえる」と思ってしまいがちです。果たしてそうでしょうか?「違った」まま「共感」することはできないのでしょうか?26節で示されている「共に苦しみ、共に喜ぶ」ということは、「違ったまま共感する」とか「違ったまま理解する」ということです。「同じ」だから「共感してもらえる」ということとは違う生き方がここで示されているように感じます。
 そして、これとは別に考えたいことは、いわゆる教会の中でも「同じ」というか「一つ」ということを求めて、排除されるということが起こってきているということです。現実の世の中が、だんだん国がしていることに対して批判するだけで、非国民よばわりされる時代にだんだんなっているような気がしますが、教会の中でも、同じように、全体主義というか、やたら「一つ」ということを求めて、また声高に叫んで、細かな違いを認めないようになってきております。K牧師の免職裁判がつい最近結審しましたけれど、判決が残念だった以上に、そもそもこのようなことが教会で起こっていることが残念でなりません。Kさん、さまざまなところでお会いしますけれど、本当にいい人だと思います。しかし、「いい人だからこんな目に合うのはおかしい」というつもりはありません。たとえK牧師がどんなに悪い人だったとしても、ああいう形で、ああいう理由で「牧師の仕事をするな」と免職されるのは、やはりおかしいのです。
 そのような積極的な排除の他に、もっと自覚のない「消極的な排除」というのもあるのだろうと思います。今年の神学校の夏の集中講義に精神科のお医者さんがいらっしゃいました。教会の中で起こりうるいろんな事例から「こういうときどうするの?」ということをグループディスカッションしたのですけれど、その中でこのようなことを言われました。「統合失調症の有病率は有史以来変わっていない。どこでも同じ割合だけいるはずなのに、いないということは、そこで選別が起こっているということだ。勤めている大学病院で統合失調症の患者さんのガンの手術をしたということはない。そこで命の選別が起こっている。教会はどうか?」
 それを聞いて、ぐさっときました。確かにそうだと思いました。統合失調症に限らず、精神疾患に限らず、他のことであって、私たちが生きる社会の中でそばにいるはずの人が、私たちの教会にいてもそのはずなのに「いない」のだとしたら・・・やっぱり「来れなくなっている何か」があるのだろうと思います。
 つい最近また別の集会で「元気でないと教会に来れない」という声を聞きました。確かにそういうこともあるのかもしれないと思いつつ、でもそれも何かおかしいと思いました。「元気でないと来られない」というのは「元気でない人」を「来られなくしている何か」があるということです。それもまた「違いを認められない」ところからきているのかもしれません。
 どうすればそういうことがなくなっていうのか、ということは即効性のある答えはないのかもしれません。「違うまま一つ」ということがどうやって実現しているのか、わからないというのが正直なところです。ただ、私の中にはひとつの確信があります。それは、「人の訴えの中で何を優先して大切にすればいいか」ということに対して、その人の過去の「傷」や「痛み」に対してだろうということです。その人の傷なり痛みに対する訴えは、そのまま受け入れようということです。それを否定しても何にもならないし、その人がたちゆかなくなるだけです。
 そんなことを考えているときに、一つの御言葉が与えられました。詩編147編です。
 「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。/主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。/打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」
 「神」は「傷を包む神」なのだということを感じています。聖書の中には多様な神理解が証言されておりますけれど、この「傷を包む神」というのは、改めて聴くとまた新鮮が気がします。「『傷を包む神』に応答する生き方」というのは「違いを認める」ということにつながるような気がします。ひとりひとり持っている傷が違うからです。


 お祈りします。
 すべての命の源である神さま、御名をあがめます。
 あなたは、私たちひとりひとりを「違うもの」として創られました。
 そして「違ったままひとつ」ということに招こうとしておられます。
 あなたの招きに応えることができますように、導いてください。
 「違う」ということで関わらないということをしないように支えてください。
 そのことも含めて「あなたの体」であることを、教えてください。
 この教会のために祈ります。この教会が本当の意味であなたに仕え、あなたの御心を証しする集まりになるようにしてください。牧師をはじめ、教会に集まるひとりひとりがあなたのみ栄えを現わすことができますように。
 この祈りを、傷を包む神の子、キリスト・イエスの御名で祈ります。アーメン。


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