sayaka chapel

人は裁くことはできない

2014年11月4日
某神学校 説教演習


 "Sayaka Chapel"入口に戻る
三十番地キリスト教会・礼拝堂に入る
三十番地キリスト教会・案内図に入る
 
 
ヨハネによる福音書8章1-11節

 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分の所にやって来たので、座って教え始めれられた。
 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
 イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」。




 


 本日の聖書は、いわゆる「姦通の現場を捕えられた女の物語」です。姦通の現場を捕えられた女性が、ファリサイ派や律法学者によってイエスのところに引き出されるのですが、それをイエスがお助けになったという物語です。
 聖書によりますと、まず、イエスは神殿の境内に座って民衆に教えを説いておられました(2節)。そこへ、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女性を連れて来て、真ん中に立たせて、(3節)イエスにこう言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(5節)これは6節にあるように「イエスを試して、訴える口実を得るために」律法学者たちはこのようなことを言ったのでした。これは大変危険な質問でありました。もしイエスが「モーセの律法に従ってこの女を石で打ち殺すがいい」と言われたなら、「神は罪人を赦す方である」というイエスの教えと矛盾することになります。イエスに新しい権威を求めていた民衆は失望し去っていくことになるでしょう。逆に「打ち殺してはならない」とお答えになったならば、モーセの律法を否定することになります。この女性は「姦通の現場」で捕えられ、言い逃れができないという状況です。その者ですら赦せ、ということは、社会通念を侵し、人々の共同体感情を逆撫ですることになります。また、モーセの律法を冒涜したということで、イエス御自身が石打ちの刑に処せられる可能性があります。この質問は、諸刃の剣であり、イエスがどちらの回答をされてもイエスが不利になるというものでした。
 この意地の悪い質問をされたイエスは、地面に何かを書きはじめられました。(6節)何を書かれたかは本文にはありません。またどのようなことをお考えになっていかかも書かれておりません。古来からさまざまな方がさまざまなことを想像しております。また、この諸刃の剣を質問からどう切り抜けようかとお考えになっていたのかもしれません。私は、このイエスの沈黙に、イエスの憤りを感じとることができるように思います。「積極的には言葉をかけない」「行動しない」もっと言うなら「やる気がない」という他の部分にはないイエス像のように思われます。
 律法学者やファリサイ派の人々はどう感じたのでしょう。イエスのこのような奇怪な行動に面食らったかもしれません。それでも彼らはしつこく問い続けますので、イエスは身を起こされ、このように言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)そして、イエスはまた身をかがめて何かを書き始められました。
 イエスがこのようにおっしゃった瞬間、沈黙が走ったのではないか、と思うのです。断罪する立場であった律法学者やファリサイ派の人々が、このイエスの言葉によって、逆に問われる立場に立たされたのです。彼らにとっては思ってみない問いだったでしょう。これを聞き、自分の内面を問われることとなったファリサイ派、律法学者たちは「年長者から始まって、一人また一人と」(9節)立ち去り、そこにはその女性とイエスだけが残りました。
 イエスは身を起こして女性に「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」(10節)と言われます。女性は「主よ、だれも」(11節)と答えました。それを聞いたイエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)と改めて赦しを宣言されたのでした。この11節の「もう罪を犯してはならない。」という言葉は加筆されたという説があります。確かにこの言葉があると、結局この物語では、イエスもこの女性を罪を裁いていることになるだろうというのです。私は、この言葉があろうがなかろうがイエスはこの女性を罪に定めているということはないだろうと思うのです。仮に、「もう罪を犯してはならない。」という言葉がイエスに溯るとしても、これは「もうこんなことしないように」という優しい言葉でしょう。また、「自分が罪人である」ということを内面化してしまっている人にとって、「あなたは罪人ではありません」と言うより「あなたの罪は赦された」という方が、その人を解放するということもあります。ですから、この部分はイエスの赦しの宣言として読みたいと思います。

 この物語は、もともとのヨハネ福音書には無かったものであります。ヨハネ福音書の記事ではないということは、他の部分と文体が明らかに違うということ、ヨハネ福音書の他の箇所では出てこないファリサイ派と律法学者が登場するからです。写本が書き進められていく中で、この部分に編入されたものでしょう。外典文書にはこの物語が残されているようです。それがまだ未完成と思われていたヨハネ福音書に入れられました。新共同訳では括弧書きにされております。この物語は、姦淫が「棄教」と重ねられて読まれました。というのは、ローマ・カトリック教会が国教となる中で、一度「棄教」した者をどのように扱うか、ということがいくどとなく取りだたされるのですが、最終的にはそのような者も受け入れていくことになりました。その時にこの「姦通の女」物語が読まれました。「姦通」が「棄教」と重ねられて読まれるのです。「イエスもこの姦通の女を赦されたのだからわれわれも棄教した者を赦して受け容れるべきだ」というわけです。この物語はそのように読まれていたということがありました。

 私はまた別の側面からこの物語を読みたいと願います。この女性の「姦通の罪」とはどういうことか?ということです。ここで「姦通」と言われていることはどのようなことであるか、ということです。

 物語の中で、「律法学者たちがイエスに「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。」(5節)と迫るわけですが、この「モーセの律法」とは具体的に律法のどの部分でしょうか?
 まず、レビ記の20章10節です。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は、姦淫した者は男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあります。ユダヤ民族の中でいとうべき性関係について列挙され規定された部分です。
 もう一つ、申命記の22章22~27節にもっと詳しい規定があります。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。
 ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を待ちの門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力づくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけ殺さねばならない。その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない。これはある人がその隣人を襲い、殺害した場合と同じような事件である。男が野で彼女に出会い、婚約している娘は助けを求めたが、助ける者がいなかったからである。」
 このような規定でありますが、みなさんどのように感じられるでしょうか?
 一つ目の規定は、「男と人の妻が寝ていたら、男女共に死刑」という規定、二つ目は、「婚約している処女の女性が別の男と寝ていたら、男女共に死刑」、三つ目の規定は、二つ目の規定の例外で「それが野原であったら、男のみが死刑」ということです。二つ目と三つ目でこの女性が死刑になるかならないかの境目は、「助けを求めることができるか否か」です。二つ目の規定「その娘は町の中で助けを求めず」(申22:24)とあるように、また三つ目の規定で「婚約している娘が助けを求めたが、助ける者がいなかったからである。」とされているように、「町の中では助けを求めることができただろうからたとえ強姦であろうが女性にも落ち度があるため死刑にされなければならず、逆に町の外で誰もいないところであったら助けを求めることができないから赦す」という趣旨であります。
 話は横道にそれますが、この規定を現代にそのまま当てはめることはできませんし、許されません。強姦被害者から「被害にあっている時には怖くて声も出ず助けを求めることができなかった。」という証言があります。「まわりに人がいるから助けを呼べたろう」とは簡単には言えません。また被害者も「自分にも悪いところがあるかもしれない」と罪悪感を覚えています。聖書のテキストも時代の産物ですし、限界をもっているということを付け加えたいと思います。
 この旧約聖書の光によってこの物語を照らすと、また違った印象をこの物語に対して持つことになるのではないか、と思うのです。つまり、この「姦通の女性」は「『強姦被害にあった女性』かもしれない」ということです。強姦被害にあった女性が、イエスを試すために律法学者たちから利用され、公衆の面前で好奇の目にさらされている、ということです。「セカンドレイプ」という言葉があります。強姦被害者がまわりの心ない対応によって更に被害を拡大させ、傷を深くすることを指す言葉でありますが、まさにこの女性にとってはこの状況はそれそのものです。いたたまれない、という言葉にしかなりません。

 この物語から「人が人を裁く」ということを考えたいのです。「人は人を裁くことはできるのか?」ということです。私たちはこの「姦通の女」の事情とどのような事件があったのかは想像するしかありません。「強姦被害者」であるというのもひとつの考えられる予測にすぎません。「姦通」と「強姦」ではこの女性に向けられる同情の度合いは変わるでしょう。逆に、この女性が本当に「姦通」と評価できることをしていたとしても、それに至るまでの事情すべてを人間はすべて知ることはできません。事情を知らないのにそれだけで簡単に批判したり批難したりすることはやはり許されないことでしょう。それに関する事情をすべて知りつくすということは、人間にはできないことです。「裁く」というのはすべての事情を知っているからこそできることであります。「すべての事情を知る」ということはやはり人間にはできないのでしょうか。

人は人を裁くことはそもそもできない、のではないでしょうか?


Clip to Evernote



“Sayaka Chapel” 爽歌*sayaka神学生のホームへ

“Big Chapel” 礼拝堂/メッセージライブラリに戻る
“Small Chapel” 小礼拝堂/ショート・メッセージ・ライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール