sayaka chapel

奇跡に期待せず、神を信じる

2015年1月17日
某神学校説教演習


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▼聖書……マタイによる福音書27章38節~44節

 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち壊し、三日で立てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。


 


 本日の聖書は、十字架の一場面です。十字架につけられたイエスに対して、祭司長たちから、果ては一緒に十字架につけらえていた強盗たちからもののしられるという、読んでいて胸をえぐられるような非情な場面です。
 聖書を読み進めて参りましょう。
「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」(38節)とあります。イエスと共に、二人の強盗がイエスの右と左に磔にされているということです。そこを通り過ぎる人たちがおり、「頭を振りながら」(39節)イエスをののしりました。「頭を振りながら」というのは侮辱を現わしています。その侮辱というのは、このようなものです。「神殿を打ち壊し、三日で立てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(40節)
 十字架の傍らには、祭司長、律法学者、長老がおりました。彼らもこのようにイエスをののしりました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(42~43節)
 また、
「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」(44節)とありますから、ここには強盗の言葉はありませんけれど、通りすがりの人たちや祭司長たちと同じような言葉で強盗もイエスをののしったのでしょう。「強盗」と書かれておりますけれど、ここでの「強盗」は、十字架につけられているということから、ローマ帝国に対しての「政治犯」として捕えられているということが考えられます。ローマ帝国に対する暴動、反逆の罪で強盗たちは捕えられているのです。ローマ帝国から見れば、イエスも反逆者です。それは、イエスの十字架の上につけられている「ユダヤ人の王」(37節)という罪状書きからわかります。ローマ帝国の側から見れば、イエスは「ユダヤ人の王としてローマに反旗をひるがえし、帝国の転覆をくわだてた者」であるということです。何が言いたいかと申し上げますと、ローマ帝国の側から見ると、「強盗たち」もイエスも同じ立場であるということです。イエスは同じ立場である強盗たち、しかも十字架刑という同じ苦しみを今ここで味わっている者たちからもののしられているのです。ここにはイエスをののしる者しかおりません。

 この物語は、詩編22編の影響を受けています。詩編22編9節に
「主に頼んで救ってもらうがよい。/主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」という言葉がでてきます。これは、イエスを侮辱する者の侮辱の言葉と重なります。また、先ほど申し上げた侮辱の表現である「頭をふりながら」(39節)は、詩編22編8節にも出てきます。福音記者は、詩編22編とイエスのご受難の出来事を重ね合わせることによって、イエスが神の御心を行う義人、正しい人であって、また義人であるゆえにこのような苦しみを受けることになったということをあらわしています。

 ここでひとつのことを考えたいと思います。「奇跡」ということについてです。
 この物語の中で、イエスを侮辱する者は、奇跡が起こることを期待しているような風に物を言います。通りかかった人々は「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言います。祭司長たちも「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。」と言います。「イエスが十字架から降りてくること」を奇跡であるとし、「そうすれば信じてやる」といいます。もちろん「そんな奇跡は起こらない」という含みもありますけど、「奇跡が起こったらおもしろい」くらいには思っているでしょう。いや、実際にイエスが十字架から降りて来られたら、「申し訳ありませんでした」と悔い改めてイエスに従うかもしれません。
 もちろんここには描かれておりませんけれど、もしここにイエスを愛する者たちがいたら、それは「十字架から降りてくる」奇跡を願うのではないでしょうか。それは単なる願い、というわけではなく、「どうにかこの正しい人を助けてください。」という切実な、切迫するものを含んでいます。奇跡に期待するしかないという思いに当然なるでしょう。
 また、この物語に心を寄せ読む者、聞く者も、また「奇跡」を期待するでしょう。「今すぐ十字架から降りてきて、イエスをののしっている人たちを驚かせて、悔い改めさせてください。」と思うでしょう。そこまで物語の中に入り込まなかったとしても、「イエスが十字架から降りてきてくだされば、このイエスをののしっている人たちも悔い改めたかもしれないのに」と思うでしょう。やはり誰もが奇跡を期待するのです。
 しかし、願うとおりには奇跡は起こらないのです。この聖書のあと、イエスは
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれ(46節)、大声を上げて絶命されました。十字架から降りて助かるという人間がそのまま期待する奇跡は起こりません。神はそれに代わり、それ以上の奇跡を起こされました。イエスの復活という奇跡です。神は神の御子であり、真の人であるイエスを、死者の中から起こしたのでした。神の奇跡は、人間が介入し得ないところで起こるのです。
 マタイによる福音書の中には、しるしを期待する人間の弱さに対してイエスが釘を刺す物語があります。マタイによる福音書12章38節からの物語です。律法学者とファリサイ派の人たちがイエスに
「先生、しるしを見せてください。」(38節)と言いました。それに対してイエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者のヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(39節)とお答えになりました。ヨナは旧約聖書のヨナ書に登場する預言者です。ヨナ書は神に異教の地ニネべへ、滅びの預言を托され、途中ヨナが使命から逃げ出すという紆余曲折ありながらも、最終的にはニネベの街が滅びから免れるという物語です。このイエスの言葉の「ヨナのしるし」とは具体的に何をさすのかはよくわかりませんが、少なくとも「しるしはヨナの時代やあの物語の中にあるのであって、今、あなたがたが願うような形ではしるしは与えられませんよ」ということをイエスはおっしゃいたかったのではないかと思うのです。生前のイエスもまた、しるしなり奇跡があるから神を信じるという態度には冷ややかであり、またそのような生き方が、あの十字架の出来事にも反映されているように思います。イエスは神を信じておりました。十字架にかけられても神を信じ、神を信頼していました。たとえ奇跡が起こらなくても、また奇跡が起こると期待することなく、神がそのときにも共にいて、神の御心がなることを信じていたのです。このように、十字架で殺されて終わりではないということを確信されていたのではないか、と思うのです。

 この物語を読んでいて、ひとりの人のことを思い出しました。ドイツを代表する神学者であり牧師であるボンヘッファーのことです。彼はドイツがナチスに支配され、このままだとさらに多くの命が犠牲になってしまうからと決心し、ヒトラーの暴走を止めるため、ヒトラー暗殺計画に加わり、それに失敗して捕えられ処刑されることとなりました。彼は
「これは終わりですが、私にとっていのちの始まりです。」(This is the end .For me beginning of life.)と言い残して処刑されました。39歳という終わりを迎えるには早すぎる生涯でした。彼は間違いなく殺されましたし、死にましたけれど、生前残した研究、著作、説教は今も多くの人の心をとらえています。このようなものを読むにつけ、私も「もっと生きていてほしかった」と思ってしまいますし、また彼と同じ時代に生きた仲間たちもそのように思ったことでしょう。しかし、ボンヘッファーが生き残るという奇跡は起こりませんでした。それでも、神は共にいて「これで終わり」ではなく「始まり」をくださったのだと信じます。生前のボンヘッファーがどれだけそのことをわかっていたかは分かりませんが、彼は、「殺されてそれで終わりではない」ということを信じていたのでしょう。そのような意味で、イエスの生き方、そして死に方と、ボンヘッファーの生き方と死に方は重なるように思うのです。

 私たちも人生にあって、苦難というしかないことに出会います。苦難とまではいかなくても小さな小石につまづくことはたびたびです。そして私たちに都合の良いように奇跡は起こりません。起こらないから奇跡なのです。それでも、私たちは神を信じるのです。神を信頼して歩むのです。奇跡があることが神の存在証明ではありません。奇跡が起こるとしたら、神の領域でのみ起こるのです。奇跡に期待せず、それでもイエスを復活させた神に希望を見出し、神の御心を目指し、歩み続けることが私たちに求められている生き方ではないでしょうか。


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