sayaka chapel

キリスト教と自己犠牲

2015年2月9日
日本キリスト教婦人矯風会神学生交流会開会礼拝説教


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▼招詞……マタイによる福音書9章13節a

 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。


▼聖書……マルコによる福音書8章31~38節

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと想うものは、それを失うが、わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの詞を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



 


  某神学校4年の爽歌*sayakaと申します。この度は、矯風会神学生交流会の説教者としてこの場にたたせていただきありがとうございます。某神学校はは、東京都のある市部の郊外にございます。最寄り駅から30分程バスに乗り、下車したあと10分ほど坂道を上り竹藪の中を通り過ぎたところにございます。さながら竹藪の中の神学校です。夜は東京とは思えないほど星がきれいです。年に2度ほど雪がつもりますけれど、東京とは思えないような一面の雪景色で、驚きます。わたしは北海道出身ですから、雪国育ちとしてはそのときは少しだけうれしくなります。
 本日の聖書はマルコによる福音書8章31節からが与えられました。ここからキリスト・イエスの十字架にはどのような意味があるのか、そして「キリスト教と自己犠牲」の関係について考えてみたいと思います。

 みなさんはこの「字のない聖書」をご存知でしょうか。キリスト教の伝統的な信仰を色だけで表現したものです。私の母教会では手芸が得意な婦人たちがこれをつくって教会バザーで売っておりました。私は手先が不器用なので恐縮するのですけれど、それを真似てつくって何かの折りに人に差し上げるということをしてきました。実物はこのようにミニサイズなのですけれど、これではきっと見えないだろうと思って、大きいのをつくってみました。
 (大きな「字のない聖書」を開きながら)私たちは罪の中にいたのですけれど(黒)、主イエス・キリストの十字架の血潮によって(赤)、きよめられ救われ(白)、神の栄光に与ることができるようになりました(黄)・・・という意味がこの「字のない聖書」に込められております。つい最近も、1月に洗礼を受けた友達のためにこれを作り、お祝いのカードと共に渡しました。その友達はとてもよろこんでくれてすぐかばんにつけてくれました。
 それをみて、私もうれしかったのですが、胸がドキリとしました。「ほんとうにそうだろうか」ということを考えてしまったのです。特に、「黒→赤」の並びの意味のこと、「私たちの罪のためにイエスは十字架につけられ殺され、それによって私たちの罪がゆるされた」ということに対し、「ほんとうにそうだろうか」と感じてしまったのでした。イエスが十字架につけられたというあの出来事、その事実の意味は、果たしてそういうことなんだろうか、ということを考えてしまったからでした。

 キリスト教は、イエスのあの十字架の非業の死を、神のご計画による人間の罪の贖いのための神の業だと信じ、教えとして体系化してきました。その教えが何から何まで間違っていたり、何の恵みもなかったら、キリスト教も世界中に広まるような大きな宗教にはならなかったでしょう。しかし、教えとして体系化されていく中で、キリスト・イエスのあの十字架が信仰者としての模範となっていきました。「キリストもあのように犠牲となったのだから私たちもそれにならい苦しみに耐え忍ぼうではないか」という信仰です。そのような信仰が苦しむ人に寄り添い、また希望を与えてきたということも否定できません。本人が確信してそのような信仰を貫いているならこれほどすばらしいことはありません。しかし、一方で「キリストが過ごされた苦しみはそんなものではないのだからあなたは御自分の苦しみに耐えなければなりません」と、苦しむ人、悲しむ人、暴力的な状況に置かれた人にする必要のない忍耐を結果的に教会は押しつけてきたという事実は見逃すべきではないとも考えます。

 本日与えられた聖書の中、
マルコによる福音書8章34節には、イエスの言葉としてこのような言葉が残されています。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」この言葉だけを取り出して聞くと、「イエスに従いたいと願う人は、自分の十字架を背負って死ななければならない」という印象が残ります。果たして、イエスは、神はそのような御自分に従いたいと願う者の死を求めているのでしょうか。このように書き残した福音記者の意図はどのようなものであったのでしょうか。
 この言葉と聖書テキスト全体に戻して考えてみましょう。
 まず、このイエスの言葉は「事後預言」であると言われています。つまり、生きて人間としてご生涯を歩まれていたイエスの言葉ではなく、あのイエスの十字架の出来事を見聞きして知っていた福音記者がこの場面を描いているということです。福音記者は、イエスのあの十字架での死の出来事を知った上で、この物語の形をとって、「イエスの弟子であるとはどのようなことであるか」浮かび上がらせております。
 本日の聖書でのイエスの言葉とされているものから導き出せる弟子の条件とは、「自分を捨てること」「自分の十字架を背負ってイエスに従うこと」(34節b)、「福音のために命を捨てること、その結果それで「命」を救うことがあるということ」(35節)、「神に背いた罪深い時代にあっても、イエスの言葉を恥じない」(38節)ということです。
 このイエスの言葉は、「イエスに従うということは、結果として自分の十字架を背負うことになる(受難は避けられない)」「イエスの福音に生きようとするならば、結果的に命を失う」ということを意味しているのではないでしょうか。
 では、「イエスに従う」とはどのようなことであるのでしょうか?「イエスの福音に生きる」とはどのようなことなのでしょうか?結果として十字架につけられて殺されなければならなかったイエスの生き方とはどのようなものであったのでしょうか?
 このような問いをもってマルコ福音書全体を読み返してみます。31節に「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」とありますから、福音書の中でのイエスと律法学者のやりとりを見直すことが、「イエスがなぜ殺されなければならなかったのか」ということに対するヒントとなるでしょう。そのような観点からマルコによる福音書を読み返すと次のようなことに気がつきます。

 イエスと律法学者たちが対決し、律法学者に明確な殺意を抱かせることとなった事柄は「安息日」のことと「神殿」に対することでした。
 マルコによる福音書1章21節から28節にはカファルナウムの会堂での悪霊退治の物語がございますけれど、これは読み進めていきますと安息日(21節)の出来事であるとわかります。この物語に続く29節から31節のシモンのしゅうとめへの癒しも29節に「すぐに」とありますから、安息日の出来事であると考えられます。イエスは安息日でも悪霊を追放し、癒しを行われました。
 2章23節から28節には、弟子たちが麦を摘んでいることについて、ファリサイ派の人々がイエスに、
「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と批難する物語があります。それに対してイエスは、ダビデが神殿で供えのパンを食べたという言い伝えをひいて、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」(27~28節)と宣言されました。
 3章1節から6節には安息日での会堂で起こった事件について述べられています。そこには片手の萎えた人がおりました。
「人々はイエスを訴えようと思って」(2節)、安息日にも関わらずイエスが癒しを行われるか注目しておりました。イエスは手の萎えた人に真ん中に立つように促して、人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)と問いました。イエスはお怒りになって人々を見回して、そのかたくなな心を悲しみながら、手の萎えた人を癒されました。そのことから「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(6節)と書いているとおり、律法学者たちを怒らせ、殺意を抱かせることになりました。
 安息日は十戒の第4戒です。(出20:8、申5:12)。律法学者たちにとっては、イエスの安息日のふるまいは十戒の安息日の戒めに対する違反にしか捉えられず、許し難いものだったのでしょう。
神殿に対しては、11章15節から18節にあります、いわゆる「宮清め」の記事から読み取ることができます。イエスは神殿の境内に入り、神殿で商売を売買していた人を追い出し、両替人の台や神殿でいけにえにされるために売られていた鳩の商人の腰掛けをひっくり返すという実力行使を行いました。そして
「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」(17節)と神殿体制を痛烈に批判しています。神殿は本来ならば祈りの場であるはずなのに、そこで不当に稼いで結果的に貧しい人を抑圧することになってしまっていることに対して、イエスはお怒りになったのでした。そのことが、「祭司長や律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」(18節)と律法学者たちに明確な殺意を抱かせることになりました。律法学者たちにはイエスのこの怒りを伴うふるまいは、イエスの真意を受けとられることなく、ただ神殿にたいする冒瀆にしか映りませんでした。

 マルコ福音書によれば、それらのことがイエスを死においやることになりました。過越祭と除酵祭の2日前、
「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えて」(4:1)、そこでイスカリオテのユダが裏切り(14:10~11)、イエスは逮捕され、弟子たちに逃げられ(14:43~50)、最高法院で違法な裁判にかけられ(14:53~65)、祭司長、長老、律法学者たちによってピラトに引き渡され(15:1~5)、死刑判決を受け(15:6~14)、十字架につけられ、そこで祭司長、律法学者を含めあらゆる人にののしられ(15:25~32)、絶叫して息をひきとることになりました。(15:37)。

 以上のことをふまえると、マルコ福音書によれば、イエスは、ご自分の信じるところを貫いた結果、律法学者たちと衝突することになった、ということがいえるのではないでしょうか。イエスは「律法」よりも「人間」を優先されました。「人間」を優先させたというのが誤解を招くようなら、「人が生きること」を優先されたのでした。ですから安息日においても人を癒すということをなさるのです。「律法」よりも「人が生きること」を大事にされた、それがイエスのお示しになった生き方であり、福音であります。
 当時は、律法を遵守すること、安息日を聖別すること、神殿を尊重することが、律法学者たちの勧める「世間の常識」であったでしょう。イエスは、その「世間の常識」に挑戦し、結果殺されることになりました。イエスの死は「世間に殺された非業の死」と言えるのではないでしょうか。イエスが十字架につけられることとなったのは、律法学者たちから「あいつはゆるしておけない。殺さなければならない」という思いを抱かせるような言動をされたからです。「十字架につけられるために律法学者たちに挑戦した」わけではありません。
 イエスの弟子に求められる生き方は、「律法」よりも「人が生きること」を優先するということです。「自分の十字架を背負って私に従いなさい。」という言葉は、イエスが弟子に求められる生き方を全うしたゆえに「律法」にふれてしまい、たとえ「十字架」につけられることになろうともそのような生き方を選ぶことが、イエスの弟子たり得るということです。そのような生き方をした結果、残念ながら「世間から殺される」ということも現実としてありえるだろうということです。「人が生きること」を優先させる生き方をするということが「目的」であり、「十字架について殺される」ことが「目的」なのではありません。少なくとも、この部分から、「十字架は贖罪のための死」であるとか「十字架を根拠に己を犠牲にする」という結論を導くことはできないでしょう。
 
 私たちは世にあって苦難があります。イエスのふるまいに従って生きることには困難が伴います。ともすると「世間に挑戦」し、「世間から見棄てられ」「権力によって殺される」ということもあるかもしれません。神の御心をなそうとしたがために暴力の犠牲になることもあるでしょう。そのような現実の中を私たちは生きています。そのような意味で、イエスのあの十字架の出来事は、私たちの模範なのです。結果としてあのようなこともあるという現実が残念ながら存在するということです。ただし、それはあくまで結果です。暴力の犠牲になることが「目的」なのではない、ということを忘れないようにしたいと思います。暴力の犠牲になったり、権力によって命を奪われるということは、本来あってはならないことなのです。暴力的に命を失ったり、被害を受けたりするということは、どう考えてもないほうがよいのです。ましてやイエスの十字架の出来事を引き合いに出して、人の苦しみ悲しみ痛みを抑え込んで「耐えなさい」ということは、イエスのお示しになった生き方に反するのではないでしょうか。

 友達がかばんにつけてくれた「字のない聖書」を見て、胸が痛んだあの出来事から思い直して自分のために、「字のない聖書」を作り直しました。色の順番を変えました。(もうひとつの「字のない聖書」を出して)イエスは、人間が抑圧されている世界の中で(黒)、神の国の到来を宣べ伝え、罪の赦しを宣言し(白)、その結果十字架につけられ殺された(赤)、けれど神はそれをよしとしてイエスを復活させた・・・そんな「字のない聖書」です。これを自分のかばんにつけています。私の信仰告白です。
 (ふたつの「字のない聖書」を出して)どちらも聖書の解釈のひとつであり、イエスのご生涯をそれぞれの良心に従ってみつめ直し、信仰を告白しているものであると信じます。大切なことは、イエスが命がけでお示しになった福音を私たちがねじ曲げず、人が生きるために、人を生かすために、信じ行っていくことだと思います。どのような教えも趣旨をあやまれば人を追い詰めるだけになってしまいます。キリスト教が暴力的なものになってしまわないようにするにはどうすればいいか、教会が本当に人を生かすためのキリストの御体であるようにしていくにはどうすればいいのか、これからも考えていきたいと願います。

 お祈りします。
 すべての命の源である神さま、御名をあがめて賛美します。
 あなたの御子イエスはあなたの御心を全うし、そのことを理解しない人間のために殺されました。あなたはそのイエスのご生涯をお認めになり、イエスのご生涯をよしとされていることを示すためにイエスを復活させられました。世間から殺されるという究極の苦難があったとしてもイエスはあなたの御心を全うしたのでした。そのような意味で十字架は私たちの模範です。その意味を私たちが忘れることなく、イエスの教えをねじ曲げることなく、イエスを宣べ伝えることができますように、導いてください。
 日本キリスト教婦人矯風会のためにお祈りします。矯風会はイエスが命をかけて伝えた、人を生かすための教えを全うしてきた働きです。あなたが矯風会を祝福し、これからもあなたのみ旨を全うすることができますように支えてください。
 この礼拝の後にもたれる神学生交流会のすべてのプログラムの上に、あなたの恵みがありますように。この会に招かれたひとりひとりが矯風会の働きを正しく覚え、世の救いのために連帯することができるよう導いてください。
 この祈りを、命をかけてあなたの御旨に生きたあなたの御子、キリスト・イエスの御名によって祈ります。アーメン


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