3Dの地図

2002年6月3日(月)同志社香里中学校高等学校・早天祈祷礼拝奨励

説教時間:約10分

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聖書:ヨハネによる福音書 8章31−32節(新共同訳・旧約・p.182)

 イエスは、御自身を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

  
  学校でも週に2回から3回は礼拝をやっているし、結婚式でも最近ではほとんどがキリスト教式で行われますから、きょうびキリスト教というのが悪いものだとは思う人はほとんどいないと思います。
  しかし、まさか洗礼を受けて本気で信者になるところまでいくのはちょっとどうか、と思っている人は多いと思います。そこまで決心するのは相当の事だ、あるいは、そこまで思いつめるのは行きすぎだと思っている人もいるかも知れない。
  ぼくはよく、「別にキリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになったからといって、ケロッと人間が変わるわけではないよ」と言いますが、そういう風に言っていると、今度は、「それではありがたくない」と思うのか、「何も変わらんのやったら、なんで洗礼なんかうけんといかんのや」と逆に言われることもあります。やっぱり何か特別なところがないといかんのでしょうか。
  でも、本当に大して違いはないと思います。逆にある宗教に関わるようになったら、急に人が変わったとか、前の記憶は全部抜けてしまったのだとか言い出したら、それはちょっと怖いし、危ないですよね。でもじっさいそういうことは全くありません。ぼくは特別な善人でもなく、特別な悪人でもない、ただの人間です。
  しかし、あえて、信仰のある人とない人の違いと言うなら、ぼくが思うには、それは心の中に描いている地図が二次元ではなくて、三次元だという、それだけのことではないかと思います。
  私たちは心の中に一種の地図を描きながら生きています。それは人間関係の地図です。
誰だれは自分の事とは仲よくしてもいいと思っているらしい。でも、誰それは自分のことを嫌っているみたいだ……とか。誰それより、誰それの方が権力がある……とか、誰と誰は付き合っているとか、この男の子とこの男の子が一人の女の子を巡ってライバルになっている、とか、そういうのを図で描いたりするのが好きな人もいるでしょう。
  で、そういう図は書かれている他の人には見られたくないものだけれど、でも人に言ったり、ほんとうに絵に描いたりしなくても、私たちはそんな勝手な地図を頭の中に描きながら毎日くらしています。
  そして、こういう地図は実は一人一人かなり違っていたりなんかもします。ある人から見るとこんな風に見えるけれども、別の人から見ると「えー? そうかー?」と言うくらい変わっている。みんなそれぞれ違う自分の地図で世の中を渡っているわけです。
  でも、多くの人の地図に見られる共通点もあります。それは、たいていの人の地図は二次元の絵で描かれているということです。二次元というのは縦と横のある平面の地図ということですね。人間には横の関係と縦の関係がありますが、これを絵に書いてバタンと倒せば平面の相関図になる。
これに対して、信仰のある人が持っている地図は三次元です。つまり、縦の関係と横の関係に加えて高さがある。上にあるのは神さまですね。こういう3Dの立体地図をイメージするかどうか、それだけの違いです。
  「天の神さま」とよくお祈りの中でも言いますが、天というのは物理的に「上」のことを言ってるんじゃなくて……日本で上だと思っていても、それはブラジルから見れば下なわけで……この心の中の立体地図の中での「上」のことを言っているわけです。
  この三次元の地図を持っている人は、人間ばかりがうようよしている縦横の地図を、ちょっと上から眺めてみる視点を持つことができます。
  たとえ、人間どうしの関係でどうにもこうにも行き詰まってしまっても、「上から神さまが見てくれているさ」と思えれば少し楽になります。
  そして、誰も自分のことなんかわかってくれないんだ、自分は独りぼっちなんだ、と感じるときでも、「まぁいいか。神さまがわかってくださっているから大丈夫だな」と思えるようになったら、それは逆に孤独に負けない強い精神力になっていきます。
  二次元の地図しか持っていない人は、誰かに嫌われたらどうしようとか、独りぼっちになるのがいやだなぁとか、そんなことばかりが気になって、本当に自立した自由な精神を持つ事ができません。人と違うことをするのはイヤだ。独りで浮いてしまうのはイヤだ。間違っているとわかっていても、ついつい他人がしていると流されてしまう。そんなことでは本当に自由な心になることはできません。
  たいていの人は、教会に言ったり神さまを信じたりすることは、人間を不自由にすることだと思い込んでいます。ところが実際には逆で、神さまが別の次元から見てくれている、ということをイメージできる人のほうが、他人に流されない自立した心を持てることが多いんですね。
  今日読んだ聖書の箇所には、「真理は自由を得させる」と書いてあるますが、まさにそのとおりではないかな、と私は思います。

  お祈りをいたしましょう。
  愛する天の神さま。
  目覚めることをゆるされて、今日もこうしてここに生かされてある恵みを感謝いたします。
  ここにいるひとりひとりが、自由で自立した心を持って、生きてゆくことができますように、どうか守り導いてください。
  この小さな祈りを、イエス・キリストの名によってお献げいたします。
  アーメン。

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