99匹の病める羊たち

2004年6月9日(火)同志社大学 火曜チャペル・アワー奨励 「病んでいる99匹」改題

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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■聖書:マタイによる福音書 18章10〜14節(新共同訳・新約・p.35)

  「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

「迷い出た」羊か、愛すべき99匹か

  99匹と1匹の羊の物語が好きだという人はたくさんおられます。どうもこの物語は、読む人が、自分が属している集団において自分がどういう立場にあり、どんな風に他者を認識しているのか、あるいはどんな集団経験をしてきたのかが投影しやすい物語のようです。
  少していねいに聖書を読んだ人ならご存知なはずなのですが、この99匹と1匹の羊のたとえは、マタイによる福音書18章10−14節のヴァージョンと、ルカによる福音書15章1−7節のヴァージョンの2種類があります。
  マタイ・ヴァージョンのエピソードは、百匹の羊の中の1匹が「迷い出た」と書いてあります。これに対して、ルカのエピソードは「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失った」(ルカ15.4)と述べられています。「迷い出た羊」のエピソードと、「見失った羊」のエピソード、似ているけれども違う、2つのエピソードが2つの福音書におさめられています。
  この羊の物語を、私の知っているある人はこんな風に解説しました。マタイの「迷い出た羊」のエピソードを引用して、「迷い出た羊は、他の99匹のように、社会や集団のルールを守ることもできず、自分がどこにいるべきか、誰に従うべきかもわからず、ただ自分の身勝手な欲望に身を任せて、無責任に集団行動を離れて放浪し、他の羊たちに迷惑をかける悪い羊です。そして、『迷っている』ということは、そのようにどんなに自分が身勝手で罪深く他の者に迷惑をかけているかということを、自分で気づきもしないほど愚かな状態なのです。みなさん、このような迷い出た羊のようにはならないようにしましょう」……と。

  あるいは、こういう読み方を聞いたこともあります。これも私の知り合いですが、こんな風にこの物語を読みました。「新学期間近いころのある日、ホームルームの時間に、自分が担任をしているクラスの生徒の一人が教室から行方不明になってしまったので、その子を探して学校中を歩き回らなければならなくなった。その間、教室に残された残りの生徒たちのことが心配だったのだけれど、やっとの思いで行方不明の生徒を見つけ出して教室に戻ってみたら、いつの間にか生徒たちの間にリーダーというか委員長みたいなものができあがっていて、担任がいなくても……というより、いないがゆえに逆に生徒どうし団結して結構楽しそうにやっていた。だから、この残された99匹の羊たちも、羊飼いが1匹を探しにいっている間、結構しっかりしていて、しかも楽しくやってたんとちゃうか」……と。

あるいは、99匹が「見失った羊」

  そしてあるいは、わたし自身がこの物語を読むとき、つい先週の今頃、わたしの前で涙を流しながら、自分の携帯電話に送られてきたメールを見せてくれたある生徒の様子が浮かんできます。
  そのメールは匿名で送られてきたものでした。Hotmail でアドレスを取り、しかも架空の日本語名をローマ字で打ったものがアドレスに使われているという姑息な名前隠しをしたものです。メール本文は、結論から言うと「(彼が所属している)クラブから出て行け」というものでした。
  「おまえがクラブの他のメンバーから煙たがられているのは周知の事実だ」、「誰が悪いとは言わないが、人間関係上障害になる」、「他の者がのびのびとできないから、できれば引き取ってもらえないか」、「なお、このメールは独断で出したものであるから、発信者については詮索しないこと、またこのメールのことは内緒にしておくこと」……などなどの文面がつづられておりました。
  このメールを明かしてくれた本人は「泣き寝入りをする前に」と、わたしに勇気を出してメールを見せてくれました。「誰かにわかってもらえたらそれでいいです」と、その子は言いました。しかし、わたしはそういうことを黙っておれる人間ではないので、そのクラブのメンバーに招集をかけ、そのような匿名メールによる仕打ちがいかに卑劣なものであるかを訴えた上で、このクラブは「決して他の部員を切り捨てない部員の集まりでなければならない」、「泣きながらでもケンカしながらでもいいから、とにかく『お前は出て行け』とは決してここでは言うな」と指導しました。
  匿名メールを送られた本人は、「自分が悪いのだ。自分さえいなければ全てが円く収まるのだ」と口では言っていましたが、本当はそれは当然この人にとっては不本意なのです。ですから、この人には「このような自分の素性を明かさずに人を排除するようなことを言うのは間違ったことなのだ。卑怯なことは卑怯だと言っていいんだ」と、力づけることを試みました。
  もちろん全てのことがすぐにうまくいくはずではないのですが、とりあえずこの生徒の場合は、その後すぐに誰かから報復イジメに合うこともなく、今日の段階ではクラブに居続けることができているようです。

迷い出ざるを得なかった羊

  これは中学生・高校生の例ですが、子ども、大人に限らず、人間という羊は、ただではなかなか集団の中で仲良くおさまっていることができません。むしろ、誰かを特定の一人か少数の者を仲間はずれにして、叩いたり排除したりすることで、仲良くまとまるという傾向があります。
  少数者や孤独ないじめられっ子は、そういう集団の動きに非常に過敏になります。過敏であり過剰に反応する傾向があるので、こういう小さな一人を排除するのはカンタンです。「おまえにいてもらうと迷惑なんだよ」というプレッシャーを、はっきりと言葉に出さずに態度で示したり、示し合わせた多数決で意見を否定したりして孤立化させればよい。そうやって本人が傷つくに任せて居づらくさせればよい。
  こういうイジメの場面、あるいは異分子排除の状況が頭に浮かんで仕方がない人間にとっては、マタイとルカの言葉遣いの違いは、決して些細なものではありません。
  他の羊といっしょに居続けることにいたたまれなくなって出て行った羊のことを、残された羊たちは口をそろえて、「あいつが自分で勝手に出て行ったんだよ」と言うことでしょう。その出て行った羊のことを、羊飼いまで一緒になって「迷い出た羊」と呼んだならば、そのとき羊飼いは、多数派の羊の側に立ってしまい、一匹の羊の気持ちも知らずに、その羊の存在を改めて「見失う」のではないかと思うのですね。

捜し、見つけ、戻す

  しかし、イエスは「羊飼いは見つけに行くんだよ」と教えてくれます。
  羊飼いは、この見失われた存在、見捨てられた存在を捜しに出かけ、見つけ出し、そして喜ぶのです。羊飼いは1匹の存在の価値を決して見失われたままにはしないのだ、と。
  そして、問題はその後です。まぁ常識的に考えて、この羊は百匹の群れの中に戻されるのではないでしょうか。
  ルカ・ヴァージョンには、羊飼いは「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達は近所の人々を呼び集めて……『一緒に喜んでください』」(ルカ15.5−6)と言ったとあります。その後「その羊を屠(ほふ)って食べた。それは、甚(はなは)だ美味であった」とは書いてないです。「苦労して見つけた羊の肉はうまい」とか。
  そうではなく、たぶんこの羊は群れに中に戻されたんでしょうね。そして、戻ってきてからが大事なんですね。
  その1匹が戻ってきたとき、さっと緊張が走ります。その時、羊飼いがしっかりしていなければ、羊飼いが心からこの1匹が帰ってきたことを喜ばなければ、99匹も本気にはなれないのです。
  99匹にとっては迷惑な話なんです。せっかく不愉快な変わり者が出て行ったのに、また帰ってきたよアイツ、てなわけで、この羊飼いは実に羊たちにとって鬱陶(うっとう)しいことをしてくれているわけです。
  単純に、この物語に出てくる羊飼いを神さま、羊たちを人間、とたとえて読むならば、神さまは私たちにとても鬱陶しいことを望んでおられるのだな、ということになります。
  神さまが望んでおられるのは、異質な者、いわゆるノイズになるような存在を排除しないで、共に同じ場所で生きてゆけということです。神さまが私たちに望んでいるのは、実に面白くないというか、ストレスフルな生き方ですね。

異なる存在への免疫

  本当は、物事の感じ方も考え方も、ひとりひとりあまりにも違うはずの人間たちが、おとなしくニコニコ笑って同じ方向を向いて一致団結、「私たちは思いも心も一つですよ」なんて、そんなおかしなことは人間の集団や社会ではホンネの部分ではありえないのであって、もしそういうことが起こっているとすれば、それは誰かがいじめられている可能性がある。みんなの不満やストレスや鬱屈した怒りをぶつけられている、誰か1匹が他の99匹の暴力性のはけ口になって引き受けさせられているからこそ、99匹の偽善的な一致と安定が保たれているという……。それが往々にして我々の社会集団でよく見られる景色なのではないでしょうか。
  したがって、一見健全に見える乱れのない人間の群れほど、実は病んだ暴力性の上に成り立っているのであり、本当に健全な人間の群れというのは、実は雑多でさまざまなタイプの人間が、ごたごたと不器用にあちこちでぶつかりあっているというようなものではないでしょうか。
  じっさい、わたしたちが商品企画どおりの家畜の肉をほしがるあまり、画一化された育て方と無菌状態を保つことを家畜生産者の方々に強いてしまった結果、かえって免疫の弱い病気にかかりやすい家畜ばかりでき、大打撃をうけてしまった事件が最近わたしたちのまわりでも起こりましたが、これはたいへん示唆に富む話だと思います。
  本当に強い家畜を作るためには、雑菌だらけの環境で、自然淘汰に身をさらすことが必要だという話を聞いたことがありますが、これは人間の身体に関しても、そしてもちろん精神においても言えることではないかと感じます。
  自分とは異質な存在を認め、その異質な存在とさまざまな予想を超えるぶつかり合いを経験することで、こころの免疫を鍛えることが、他者への寛容を生むのではないでしょうか。
  わたしたちは、1匹を見せしめにすることで99匹の表面的な一致を図るのではなく、どんな変わり者の1匹をも見失わない真の強さを神さまから求められているのではないか。そのために神さまは、どの1匹に対しても、互いに他者を認める謙虚さと、共存する道を探る優しさと、したたかさを求めておられるのではないか。
  わたしは、この羊たちの物語を読んで、そんなことを教えられる気がします。
  お祈りをいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  本日のこの礼拝を感謝いたします。この場に私たちを集めてくださったことを感謝いたします。
  私たちを互いに違う姿、かたち、中身に造ってくださって、ありがとうございます。
  私たちがもし、誰かを痛めつけることでしか、自分の存在の正当化を主張できないでいるとしたら、どうかそのような自分の姿に気づかせてください。悔い改めさせてくださいませ。
  私たちが、互いに理解できないほど異質な存在とさえも、互いに認め合い存在を尊重しあうことができるような寛容を身に着けた存在とさせてください。
  私たちが全て、互いにあなたに造られた、あなたの愛する子であることを、いつも私たちの心に刻んでくださいませ。
  この感謝と願いを、イエス・キリストの名によって、お聴きください。
  アーメン。

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