農とイエス

2002年8月18日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書 4章26−29節(新共同訳・新約・p.68)

  また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

農をちょっぴり実践

  ここ2−3年、野菜を育てるのが趣味になりまして。私の相方は花を育てるのも好きなのですが、私は貧乏性に育ったせいか、食べるものしか作ろうという気がいたしません。
  昨年は夏にナス、トマト、キュウリ、ピーマン、トウモロコシ、レタス、コマツナなどに成功しましたので、冬から年明けにかけて、タマネギ、ニンジン、ダイコンを収穫し、春からジャガイモ、カボチャ、ゴーヤなどに挑戦しました。
  きっかけは子どもに安全なものを食べさせたいという思いから、というと聞こえがいいですが、要するに自分が食べたかっただけだったのかなぁ、とも思います。でも、土に植えた種や苗が、成長し、実を結び、あるいは地中に芋を作り出し、それをいただいてきて、感謝の祈りをささげて食べるという行為を、時々でも日常の風景の一部として、子どもたちといっしょに積み重ねていくのは、悪い事ではないのかな、と思いながらやっています。
  とにかく農薬というものは一切使いませんから、安全な野菜であることはまちがいありません。しかし、農薬を使わない野菜作りというのは本当にたいへんだと思いました。というのも、何のために農薬を使うかというと、病気や害虫をさけるためです。
  もう夏もいちばん暑いころを過ぎて今ごろになると、さすがに虫も多少は勢力を落としていますけれども、春から初夏にかけての猛攻撃、特に、チョウやガの幼虫、アオムシ・シャクトリムシ関係、それからアブラムシ、ハクイムシ、テントウムシ、そして非常に厄介なのが、ナメクジ。もうこいつらがバリバリバリバリ景気よく葉っぱを食べていってくれるので、農薬なしで放置しておくと、2−3日で丸裸にされている場合もあるわけです。
  アブラムシ対策にプランタに銀紙を巻きつけたり、ナメクジを誘い出して溺れさせるために、発泡酒を――ビールでは高いので――小さなトレーにちょっとずつ入れて、あちこちにセットしたり。毎朝、葉っぱの裏に卵が産み付けられていないか、ムシが隠れていないか見回ったり。
  それはもう、たくさんの虫を殺しました。何千、何万の命を奪いました。ガーデニングで自然に親しむというのはウソだというのが、よくわかりました。「食べる」ために作るというのはハンパなことではありませんね。明らかに食物連鎖の輪を遮断して、人間だけ食べるように工夫するのが農業というものですから、あるものを食べる、という採集社会と違って、どこか自然のサイクルを破っているわけです。
  ですから、創世記の天地創造物語に、こんな風に神が――
  
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木をすべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(創世記1章29節)
  ――と命じられた、と書かれてあることも、なんとなく意味深く感じられてくような気がするのです。
  「神さまの許しがあって、初めて私はこの自然界にあえて手を入れ、手を加え、取って食べているのだ」という……神の造られた自然のシステムに、人間が介入して、食べる物を取ってくる。それは神の許しがあってのことだ、と……そういう風に読み取りたい気持ちにもなってくるのであります。

イエスは農民ではない

  いままで作った野菜の中で、いちばん楽だったのは、オクラです。オクラは夏の初めごろ植えて、あとは水さえやっておけば、どんどん大きくなって、次々あの細い六角錐のオクラができてくる。虫もほとんどつかないので、おすすめです。花もきれいです。黄色と紫の、南国の花のような、明るい花です。
  オクラのように楽な野菜に限って言えば、今日お読みしました聖書の箇所のように、
「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次の穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(マルコによる福音書4章26−29節)という言葉はリアリティがあります。
  ですが、他の野菜を作ってみた経験で言えば、苦労すればするほど、「放っておいても、寝起きしているうちに、土がひとりでに実を結ばせる」という言葉は、ちょっとリアリティがないように感じられます。
  イエスは父親ゆずりの大工仕事はしていたでしょう。といっても、当時、家を作る時はたいてい日干しレンガで、木造では造りませんから、調度品などを作ったり修理したりする木工細工の職人か、あるいはナザレの大工は石を切って削って仕事をしていた、という説もあるので、石工の職人だったか。とにかく、手に職を持っていたということ。で、父親の仕事を手伝いながら、成長したわけです。
  そして、ローマの第2代皇帝ティベリウスの治世15年目に(ルカによる福音書3章1節)、つまり30歳を過ぎたくらいの時、ヨハネのところにやってきて洗礼を受けたことになっていますから、それまで寄り道をしなかったとしたら、30歳ごろまで、大工仕事をしていた。
  30過ぎと言えば、ユダヤ人は13歳で成人、つまり一人前の人間とみなされますし、当時の平均寿命はだいたい40歳から50歳くらいだったと言われますから、30過ぎはかなりベテランの域というか、今の日本でいえば、40−50歳くらいの熟年の印象に近いと言われます。
  で、とにかく、熟年になるまで木工職人として暮らし、その後、家を出て洗礼者ヨハネのところに出て行き、荒野で修行をして、それからガリラヤ地方を回る巡回伝道者となっていったわけですから、イエスは直接自分が農業を経験したことはありませんでした。直接経験してないからこそ、作物が育つ様子について、ある意味、当事者ではないところでロマンティックに表現する、というようなことができたのかも知れません。
  ただ、オリーブやブドウなど、農業がさかんなガリラヤ地方で、農家の暮らしを身近に感じながら育ったことは確かでしょう。当時のブドウは棚にツルを這わせるのではなく、地這いのブドウです。ナザレの村を歩く道々、地を這って伸び、実をつけているブドウを見ながら、地を這うように生きている人と人のつながりに思いを馳せていたのかも知れない。そして、つまみ食いのひとつくらいはしたかも知れない、などと想像はふくらむのであります。

ガリラヤ志向のマルコ

  さて、本日のマルコによる福音書4章26〜29節、「『成長する種』のたとえ」ですが、これはマルコによる福音書だけにおさめられた、たとえ話です。
  もう聖書研究などでご存知の方も多いとは思いますが、マタイとルカの2つの福音書は、マルコによる福音書を下敷きにして書かれた物です。マルコがいちばん古くて、それを基本的な柱にしながら、ルカが、そしてマタイが、それぞれ自分が仕入れてきた資料をもとに、さらに長い福音書を書いています。
  マタイとルカには共通しているのに、マルコにはのっていないという記事もあるので、マルコ以外にもマタイとルカが共通で使った資料があるようですが、それ以外にも、ルカにしかない物語や言葉、マタイにしかない物語や言葉があります。そうやって、福音書というのはそれぞれの作者の個性が出ているわけです。
  それで実は、互いに関係の深いこの3つの福音書におさめられた、イエスのたとえ話を全部洗い出して見たのですが、やはり3人の著者の特徴が現れてきました。
  最初の福音書であるマルコは、確かに農業や作物の成長に関する話が多いのです。
  しかしルカは、もちろんそういうマルコの福音書をそのままベースに使ってはいますが、それに加えてルカ独自に仕入れてきて加えている話は、圧倒的に、お金や財産の管理に関する話題、宴会の話、僕を雇っている主人の話、裁判の話、などなど都会的で、しかもリッチな人を登場人物にした話題が多いです。これは、ルカ自身が都会的なインテリだったということもあるでしょうし、ルカが読者として想定していたのも、ローマ帝国各地の都会の人々だったと考えられるので、なるほどということになります。
  一方マタイが独自に取り入れているのは、「もし、こうしたら、こうだ」というような倫理的・道徳的なものが多いです。さすがはユダヤ教の律法学者出身という雰囲気を漂わせています。特に「山上の説教」のあたりは、「律法にはこういう風に書いてあるが、もしこんな事があったら、このように振舞いなさい」とか「もしこういう振る舞いをするなら裁かれるであろう」みたいな話がかたまっています。実はこういう話は、エルサレムの都会の律法学者が毎日、ああでもない、こうでもないと律法の解釈について議論していたのと同じ雰囲気をかもし出しているわけで、これもルカとは別の意味でではありますが、やはり都会的だと言えるのかもしれません。
  しかし、最初の福音書であるマルコには圧倒的に農業や植物に関するたとえ話が多いのであります。
  もちろん、いちばん古いからいちばん信憑性があると単純に言うことはできません。ルカもマタイも、マルコには抜け落ちていたエピソードを補ってフォローしたつもりかも知れませんし、マルコは田舎のくらし以外の話題をあえて無視した可能性もあります。
  マルコは、十字架でイエスが死んだ3日目の朝のできごとを、16章1節から8節(p.97)で描いていますが、イエスに従ってきていた女性たちが空っぽのお墓を発見した時、墓の中に白い衣を着た若者がいて、この若者がこう言ったと伝えています。
  
「驚くことはない。あなたがたは十字架にかけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコによる福音書16章6−7節)
  この場面で「ナザレのイエス」とはっきり言っているのはマルコだけです。そして、マルコの福音書はもともとはここで終わっていたと言われておりますので、そうすると「ガリラヤに行けば、イエスに会えるよ」というアドバイスで福音書がしめくくられていることになります。
  マタイは「ナザレの」というイエスの育った村のことはカットした上に、ガリラヤに行く前に、待ちきれなかったように、お墓からの帰り道に女性たちの前にイエスが現れてしまいます。そして、イエス自身の口から
「ガリラヤに行けば私に会えるからね」(マタイによる福音書28章10節)
  ルカは「ナザレのイエス」とか「ガリラヤで」とか、そういう言葉を全部削除してしまって、イエスはガリラヤではなく、まずエルサレム近郊のエマオに現れ、それからエルサレムのどこかに隠れていた弟子たちの前に現れます。(ルカによる福音書24章)
  都会人のマタイとルカにとっては、まず最初に北の辺境の地、ガリラヤにイエスが現れる、ということを描くのがためらわれたのかも知れない。ひょっとしたら、そういう偏見が少しあったのかも知れません。
  あるいはそうではなく、イエスが亡くなられたエルサレムでこそ、まず現れてくれないと気持ちがおさまらない、という偽らざる気持ちがあったのかもしれません。
  あるいは、マルコがあえてエルサレムに復活のイエスが現れる場面を描かなかったのかも知れません。
  マルコは徹底的に、
「ガリラヤ地方出身のナザレ村のイエス」であることにこだわったようであります。首都エルサレムのような都会から時々地方のシナゴーグに派遣されてくるようなキャリア組のラビではなくて、ナザレの農村で育った木工職人の息子で、ガリラヤ湖で働いていた漁師を弟子の筆頭に据えて――イスカリオテのユダ以外の、11人の弟子は全員ガリラヤ出身ですから。イエスもペトロも同じ方言をしゃべっていたからこそ、ペトロはイエスが逮捕された時、しゃべり方でイエスの弟子だとさとられてしまった――そんなガリラヤ訛まるだしで人を教え、病人を癒し、貧しい農夫や漁師たちや女性たちといっしょに魚やパンを食べて笑い合った、ガリラヤ地方プロパーのたたき上げのラビとしてのイエスを前面に押し出しているのではないか。
  だから
「ガリラヤに行けば、イエスに会えるだろう」(マルコ16章7節)「ガリラヤに行ってみなければ、イエスのことはわからないだろう」と、福音書をしめくくったと思われるのであります。
  このマルコの主張を、みなさんはどのように受け止められますでしょうか……。
  それは、このテロの危険の中、飛行機に乗ってテルアビブに飛んでゆき、ガリラヤ行きのバスに乗れという意味ではありません。
  そうではなく、マルコが言いたいのは、地方の農村から見る視点を持たないと、イエスの言っていることはわからないよ、ということなのであります。

農村から見えるもの

  大阪の西成区にある、金井愛明牧師主催の「いこい食堂」については皆さんもご存知の事と思います。毎年、香里ケ丘教会からも献金を行っているはずですね。炊き出しの手伝いのボランティアにも、何回か参加した人もいます。
  そこの炊き出しで、おにぎりを握るとき、梅干を中に入れますが、その梅干を毎年一年分、すべて寄付しておられるのが、和歌山県にあるOさんというクリスチャンの農家です。
  そして、年に何回か、その梅干を作る作業をしに行ったり、Oさんのところの農園の仕事を手伝ったり、というボランティアもあります。
  支援の「援」と農業の「農」で、「援農」=農作業を支援しに行くというこのボランティアに最近私も「いこい食堂」のつながりで、私も最近、参加し始めたところです。
  Oさんのところでは、今のところ二世代で農園を経営されていて、おじいちゃん・おばあちゃんの方が畑のほうを、息子さん夫婦の方が畜産の方をやっておられます。そして親子とも、薬を使わない有機農法で、作物を作り、豚を育てておられます。息子さん夫婦はお二人とも、三重県にある愛農学園という、キリスト教主義の農業高校を卒業しておられます。私、実はこの今年の1月に、この愛農学園でも聖書科の教師の研修会を企画して、牛の世話をさせてもらってきました。
  Oさんの農園で、梅の土用干しをやったり、タマネギの根っこをむしって選別したり、そんな作業をしながら私は、手も動かしますが、口もよく動くので、いろんな話をしながら楽しく農作業。
  そんな会話の中で、Oさんのおばあちゃんと話していて、おばあちゃんがポロリとおっしゃいました。
  
「農業を大事にしないと国が滅ぶよ……」
  食品業界の不祥事が相次いで報道されています。もっとも不祥事は食品業界だけではありませんが、しかし、報道されるたびに、私たちは職場で、家庭で、小さな声で本音を交し合います。
  「あんなん、どこでもやってるんちゃうの」
  たぶん、報道されているのは氷山の一角で、おそらく我々が食べているものについての表示で、信じられるものなどほとんどないのでしょう。我々は何を食べされられているのかわからない。そして、そうでもしないとやっていけない会社もたくさんあるというのも、切実な事情なのでしょう。
(※注)
  どうせきちんと表示されていたとしても、やっぱりそれを買って食べるのでしょうし、コンビニに並んでいる弁当やサンドイッチの表示をまともに読んだら、「こんな薬品漬けは食えない」と思うようなものでも、若い子たちはパクパク食べている。私の勤めている学校でも、運動部でいっしょうけんめい体を鍛えている子らが、いっしょうけんめい体を壊すような弁当やお菓子やジュースをお腹に流し込んでいる。「やめとめよ」と言っても、やめてくれない。お腹がすいていて、すぐ手に入る食べ物はコンビニにしかないんです。
  そして、そういう事態に際して、国は何も言わない。従軍慰安婦の時と同じ理屈です。「民間企業がやっている事だから、国は関係ない」。他人事です。それでいて、有事の時には自衛隊に最大の便宜を図るよう国民に強制する法案づくりには熱心なのです。去る7月24日には官房長官が「有事の際には、信仰の理由であっても自衛隊に協力しないということは認められない」と発言しました。国家を守るというのは、「高度の公共の福祉」にあたるので、信仰に基づく戦争への非協力は犯罪である、という考えを国は持っているということです。もっとも自衛隊も不祥事が多いですが。
  戦える国にしたい。国家としての威信を示せる存在感のある国でありたい。そういう風に都会の政治家の先生方はおっしゃるけれども。
  無農薬の田んぼで米を作り、有機栽培の畑で野菜を作り、餌にこだわって安全な肉を生産するために苦労している農家がある。そこで作られているのは、人の口に入ってその人を生かす物です。人の食べる物を作っている現場で、たった一日でもいいから、汗を流して働いてみれば、そんな先生方の言葉がいかに空しいかがわかります。
  国民の食べるものの安全も守ることができない。体力は低下し、アレルギーのおかげで年々国民の体は内側からボロボロになっている。同じ学年を何年も担任しているとわかるんです。毎年、修学旅行などで健康調査表をまとめるたびに、年々書き込みが増えて、表が真っ黒になっていく。若い人の体がボロボロになっている。こんなボロボロのアレルギーだらけ、病気だらけの体で、いったい誰と戦おうと言うんでしょうか?
法律や兵器だけが整備され、国民の健康はボロボロ。兵隊の体もいずれはボロボロ。何が「高度の公共の福祉」か、ちゃんちゃらおかしい。私たちは本当に大事にされていないんだなぁ……。
  そういうことが、農村に立つとわかります。

イエスを感じながら

  Oさんの農園には、もうすぐ「ベテスダの郷」という建物が完成します。
  計画し始めたのがずいぶん前だったのかも知れませんが、「ベテスダ」というのは聖書に出てくる「ベテスダの池」から取っているのですが、前の口語訳の聖書の呼び方でして、今のこの新共同訳では「べトザタの池」になっていますけれども、もうすぐ建とうとしているのは、「ベテスダの郷」というファーム・ステイのための宿泊施設です。
  ほんの数日間、あるいは1日でも2日でも、祈りつつ農作業を体験してみる。植物や動物の命を生かすこと、そしてその事が、それを食べる人間の命をも生かすということにつながっていることを、体と心で感じてみる。そんなファーム・ステイをやってみたいと今、構想中です。もしよろしければ、ご一緒したい。子どもたちも連れて行きたい。そう思います。
  イエスは
「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコによる福音書16章7節)と、マルコは語ります。
  私たちは都会よりも農村のほうが、少しでもイエスの息吹を身近に感じることができるのではないでしょうか。
  命というものを身近に感じて、人間らしく生きることができるかも知れません。
  祈りましょう……。

祈り

  愛する天のお父さま。
  今日もあなたからいただいた命が保たれ、生かされていることを感謝いたします。
  あなたからいただいた命を、お互いに大切にする事ができますように。
  あなたが下さった体を、お互いに大切にする事ができますように。
  若い、幼い次の世代の体を、私たちはどう守ってゆけばよいのでしょうか?
  神さま、どうか知恵と勇気を与えてください。
  この祈りを、私たちの愛する主、イエス・キリストの御名を通して、お聞きください。
  アーメン。


(※注)

  2002年8月に日本を騒がせた食品業者の偽装ラベル問題には、実は消費者にも責任の一端がある。
  日本の消費者は、食品にも工業製品のような規格を求める。大きさ、色、形、重さ、価格などが、同一規格内できちんと揃っていて、しかもそれが地域によって差が出ないようにどこでも手に入る、しかも年中手に入ることを要求する傾向があるのだ。そして、それが達成できない業者は取り引きを断られる、という事情がある。
  しかし、食品と言うものは、たとえば肉であれば、牛や豚、鶏といった動物であり、米も野菜も植物である。すべて生き物であり、天候など自然の影響も受けやすい。だから本当は、不揃いなのが本来の姿で、事情により今日は品物がありません、ということも充分あっておかしくないのだ。ところが、それを日本の消費者はゆるさない。
  したがって、日本の食品産業で生き残ってゆくには、この消費者ニーズの規格に合わせるために、日本産でも外国産でもとにかくかき集めてきて、そして建前のラベルを貼ってでも、どんどん出荷してゆくしかないのだ。
  だから、昨今の偽装ラベル問題は、生き物を食べているという感覚を失って、工業製品のように規格化された食品がスーパーで年中供給されているのが当然だ、と思っている消費者にも責任がある。
  消費者が、じっさいに食べ物がどのように作られているかを知らない、ということが問題なのだろう。そしてそれは、生き物を殺して食べて生きているという、生命のあり方に対しても無感覚になるということでもある。こんな時代に生きていたら、食べることに感謝の念がわかなくてもおかしくはない。実に憂慮すべき時代だ。

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