曖昧なるままに人生を引き受ける

2002年8月11日(日)日本キリスト教団鴨東教会・聖霊降臨節第13聖日礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:創世記 3章1−13節(新共同訳・旧約・p.3−4)

  主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
  「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
  女は蛇に答えた。
  「わたしたちは園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
  蛇は女に言った。
  「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
  女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
  その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
  「どこにいるのか。」
  彼は答えた。
  「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
  神は言われた。
  「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
  アダムは答えた。
  「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
  主なる神は女に向かって言われた。
  「何ということをしたのか」
  女が答えた。
  「蛇がだましたので、食べてしまいました」

誤解されやすい話

  学校で高校2年生といっしょに授業で旧約聖書を読んでいます。創世記の勉強をしていて、彼ら彼女らがいちばん面白い反応を示すのが、今日お読みいただきました、この『蛇の誘惑』の物語と、『カインとアベル』のお話です。
  毎週の授業で、小さな感想のレポートを書いてもらっているのですが、生徒たちは、たとえば『カインとアベル』の物語では、一様に「誰が悪いかといって、一番悪いのは神だ。人類最初の殺人事件などと言っているが、神がエコヒイキさえしなければ、こんな悲惨な事件は起こらなかった」と書いてきます。
  『蛇の誘惑』のほうでも、同じように、生徒たちは思い思いに誤解に基づいて感想を書いてきますので、授業のすすめ方を間違うとたいへんなことになります。
  物語をもう一度見てみましょう。
  蛇は女に、園の中央にある「善悪の知識の木」から取って食べさせるために、言葉巧みに女をそそのかします。
  ここでさっそく、高校生の女子生徒の中には、「なんでここで女なんだ」と反論を書いてくる子もいます。「どうして女の方が誘惑されて、さらにその女が男を誘惑する話になっているのか。これも書かれた時代の男尊女卑的な風潮が反映しているのではないか」となかなか鋭いです。
  私は返事を書きます。「そのとおりですよ。物語の元になった言い伝えは4000年以上も前から男の人たちによって伝えられてきたし、物語として確定したのも2500年ほど前のことだし、君の言ってることもある意味当たってるかも知れないね……。でも、今の世の中でも、たとえばレジャーやデートのスポットというのは、女の人が行きたいと思うような風に造ってあったり宣伝したりすることが多いよね? それは男の行きたいところには女は着いてこんけど、女の子の行きたいスポットには男の子もついてくるからでしょ?」
  とにかく、蛇はまんまと女から「食べたい」という欲求を引き出すことに成功し、男も一緒に食べてしまいました。
  善悪の知識の実を食べると、
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3章7節)と書いてあります。
  主なる神が風とともにエデンの園に戻ってくると、アダムは
「わたしは裸ですから」(10節)と身を隠します。そして、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)と聞かれると、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(12節)と答えました。アダムは女に責任転嫁をしていますが、同時に、その女を造った神さまにまで非難がましい言い方をしています。そこで主なる神は、女にも「何ということをしたのか」と言いますが、女も「蛇がだましたので、食べてしまいました」(13節)。

蛇さん、ありがとう

  この物語は一般に、「神に反逆して人間が自由を得た話」と言われることがあります。
  「神の言いつけに背いて、人間は好き勝手傲慢に自分たちの自由意志によって生きるようになってしまった。その結果、人間は自分たち自身を苦しめる結果になっているのだ。だから、人間は自由意志をある程度制限して、神に従っていきなければならない」と説明されるわけです。
  しかし、そういう説明には、高校生を絶対に納得しません。彼らは、神の命令に束縛されて生きるくらいなら、自由意志に従って生きた方がよいと考えています。
  封建制の時代もとっくに終わり、これだけ民主化や奴隷解放運動などを積み重ねて、人間は自由な生き方を獲得するために頑張ってきたのに、なんでここでわざわざその自由を否定しなくちゃいけないの? と。
  もしこの物語が、神に反逆して自由を獲得した事件を描いているとしたら、「はっきり言って、それは人間にとってよかったのではないか。この物語は『神に束縛された状態』すなわち『宗教の奴隷』になっている状態から解放された、喜ばしい話ではないか」と言うわけです。
  中には、かつては「人間を解放してくれて、蛇さん、ありがとう」とレポートに書いた生徒もいました。
  私は彼ら彼女らがそのように思うのも無理はないと思います。というのも、そもそもこの物語は、「善悪の知識の木」の物語なのであって、人間が自由意志を手に入れたとか、そういうことを述べている物語ではないからであります。
  人間の自由ということに関して言えば、新約聖書:ヨハネによる福音書には、『真理は汝らをして自由を得さすべし』『真理はあなたがたを自由にする』と、ちゃんと書いてあります。若い人たちの前で、自由を否定する必要はありません。むしろ「信仰は人を自由にするのだ」と堂々と語ってもいいはずなのです。
  しかし、この物語は、実は自由を手に入れる物語ではなく、自由を放棄したがっている人間の姿を描いた物語なのであります。

自由をみずから放棄する物語

  物語をよく読むと、最初から人間は自由を奪われていたわけではありません。人間は「園のどの木からでも食べてもよい」(2章17節)と言われていました。「善悪の知識の木からは食べてはいけない」と言われていましたが、「食べたら罰を与える」とか、あるいは「食べられないように柵をして囲っておいた」というわけでもない。食べようと思えば食べられる状況になっていたわけです。
  「食べると必ず死んでしまうよ」と神さまは言いますが、別に毒が入っていたわけではないことは、食べたあとの二人の反応でも明らかです。食べてもすぐには死ななかった。ということは、多分このときの神さまの戒め方も、例えば、戸棚の上のお菓子を見上げている小さな子どもに「食べたらあかんよ。ポンポン痛くなるよ」と言っているようなニュアンスに近いのかな、と思うのであります。非常にゆるやかな禁止であります。
  だから、食べておなかが痛くなったら本人の責任。同様に、善悪の知識の木から食べて、もし本当に死んでも本人の責任。死んでも食べたかったら食べなはれ。誰も止めません。とまぁ、フグの肝と同じようなものだとも言えましょう。
  蛇も、別に強制的に木の実を口に押し込んだわけではありません。ふつう「食べたらあかん」と言われると余計にうまそうに見えるものですが、そういう気持ちを巧みに刺激しただけであります。「死なへん、死なへん。食べたら神さまみたいに賢こなりまっせ」とそそのかしただけであります。
  そう言われて女が見ると、確かにうまそうに見える……。一人で食べるのは気が引けたので、男にも食べさせて共犯者にした……。
  手をのばして木の実を取ることができた、ということは、「食べたから自由になった」のではなくて、「もともと自由だったから手をのばすことができた」んです。取って食べるのは二人の自由意志です。二人は神の言葉と蛇の言葉の二つの判断材料を得て、最終的には自分の判断で、蛇の言葉に従うことを選んだんです。
  むしろ問題は、二人が自分たちの意志で選んだくせに、その結果を引き受ける自覚がこの二人に欠けていることです。アダムは神が悪いかのように言う。女は蛇が悪いかのように言っている。
  こういう様子を眺めていると、またまた生徒たちを見ているような気分になってきます。
  生徒たちはよく「自由にしてくれ、自由にしてくれ」と言ってきます。「茶髪、自由にしてくれ」「携帯電話、自由にしてくれ」……。「『自由にしてくれ』とは何を甘えたことを言っておるのか? 自由とは自ら勝ち取るものだ」と答えるのですが……。
  「これはしていけません」と誰か強い立場の者が――たとえば学校であるとか、神さまであるとかが――言うから「しない」。「これはしても構わない」と言ってくれたから「する」。これはどちらにしても、自分の行動の責任を自分で取れない甘ったれた姿勢のあらわれです。「やっていい事」にしても「やっていけない事」にしても、自分がどうすべきか考えたくないので、人に決めてほしいんですね。つまり、文句を言いながらも、自由よりも命令されている方が楽なわけです。
  アダムと女の二人は、自分の判断で食べたにも関わらず、「自分のせいじゃない」と言い張っている。ということは、「私をこんな風にしたのはあの人だ」と言っているわけですから、これは自分の自由意志というものの存在を否定してかかっているわけです。

確かさにとらわれる人たち

  この「人のせいにする」という責任転嫁の行為ですが、これも皮肉な見方をすれば「善悪の判断の結果」とも言えない事はありません。
  二人は「善悪の知識の木」から取って食べた結果、「善悪の知識」を得て、そしてそれをさっそく使ったわけです。すなわち「私は悪くありません。あの人が悪いんです」と。
  善悪の知識を手に入れて人が最初にやったことは何か。それは、なんのことはない、「自分は善で、他人は悪だ」と判断することであった、ということ。実に皮肉な話であります。
  もちろん二人は、私が善だ、自分が正しい、と本気で信じ込んでいたわけではなく、基本的には自分のありのままの姿、裸の姿を自分自身で受け入れることができませんでした。ですから、自分のありのままの姿を隠したり、神さまの前から隠れようとしたりしました。そして、いざ神の前に立たざるを得なくなると、「わたしは悪くない」と主張する。いや、「わたしは悪くない」とは言えず、他人の過ちをあげつらう事で自己正当化をなそうとする……。
  これも、よくある話ではないでしょうか。特に信仰の世界で時折見られる人間の姿かもしれない、と私は思っています。
  私は、インターネットのホームページを作っています。そのホームページは教会仕立てになっていて、パソコンの画面で見ると、上は礼拝堂から、下は牧師室、真ん中へんに質問コーナーなど、いろんな部屋を作ってお迎えするような形になっています。
このホームページに、時折、全国の見知らぬ方から――ときどき海外の日本人の方からも――メールが送られてきます。送られてくる方の傾向は大きく2つに分かれます。
  1つは、現実の教会生活で疑問を持たざるを得なくなったり、ついていけなくなりかけている人たちです。その中でも多くの人が「何が罪なのかを知りたかった」という問いを、表現する言葉は違えど、持っておられます。
  「何が罪なのか知りたい」という問いは、裏返せば「何が正しいことなのか知りたい」、あるいは「何が善で何が悪なのか知りたい」ということにつながります。
  そして、そういう疑問を持ってメールを送ってこられる方の中には、何らかの形ではっきりと、あるいはそれとなく、教会から「自分は罪を犯している」「自分は善くない生き方をしている」「自分は清くない存在だ」という思いを抱かされてきた方が多いようです。
  神さまの前にはとても自分を肯定できない。しかし、完全に自分が悪いのだ、ともどうしても思えない。そこで、教会から遠ざかりながら、インターネットの世界で、「本当は何が正しいのだろうか」と更に問いつづけてゆくのであります。
  もう1つの傾向は、質問と称しながら、じっさいには非難・中傷・暴言、ひどい場合は脅迫を浴びせてくる人たちです。脅迫といっても、「おまえを殺してやる」とかじゃなくて「おまえは神に命を奪われるであろう」……と、多分言ってる本人にとっては違うことなんでしょうが、言われているこっちにしてみれば、まぁ同じ事のような気もします……。
  要するに、私のホームページがあまりにリベラルというか、善悪の問題に関しては間口が広いものですから、罪とか善悪の区別ははっきりしていると信じ込んでいる人にとっては、冒涜にしか見えないようなんですね。それで、「おまえは罪を広めようとしている」「この世は堕落している。おまえは神の教えを堕落したこの世に迎合させようとする者だ。因って近い将来おまえに神の裁きが下るであろう」「こうして、この世はますます堕落し、神の御心にかなう者とかなわない者の違いはいよいよクッキリと際立ってゆくのだ」と。
  この2つの傾向の人たちには共通点があります。それは、「確かな善悪の基準」「確かな罪の基準」といったものが存在しなければならない、という幻想にとらわれているということです。
  いま、『確かさへの逃避』という本が出ているようですが、いま世界で台頭してきている「原理主義」について書いた本のようです。私はまだ読んでいませんが、「確かさへの逃避」という題名だけ見ても、「ああ確かに今の世の中は確かさへ逃避しようとする傾向が強いんだな」と、自分のところに来る見知らぬ人々からのメールを読んでいて、私は実感します。
  いま、世界のあちこちの宗教が原理主義的な傾向を強めたり、原理主義的な宗派が台頭してきたりしています。イスラム原理主義だけではありません。アメリカの保守的なキリスト教勢力も「キリスト教原理主義」だとか「キリスト教右派」と呼ばれています。そしてそういうキリスト教右派の人たちが、ブッシュ大統領の有力な支持基盤であり、また核戦力の強化やイラクへのプレッシャーを後押しする勢力にもなっています。
  ブッシュ大統領の論法は実に単純明快です。「われわれは善であり、彼らは悪である」と。こういう発言を支持するキリスト教勢力が力を強めてきている時代だということ。
  しかも、キリスト教については圧倒的にマイナーな国であるはずの日本でさえ、現在勢いよく教勢を伸ばしているのは、善悪をスッパリと切り分け、答えをズバリと教えてくれる原理主義的な傾向の、わかりやすい教派なのであります。そういうものを多くの人が求めている、世界的にそういう時代だということです。
  そして、そうやってはっきりとした答が求められ、答を与えようとする教会が流行る中で、「おまえには救いはない」と他人を裁く人間が増え、「どうせ私には救いはない」と屈折する人間が生み出されてゆきます……。
  いつも思うのですが、そういう風になるために、イエスは十字架にかかられたのだろうか……?

十字架の優しさ、十字架の厳しさ

  イエスは自分を十字架にかけた人々に嘲られながら、その人たちについて「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と神に赦しを求めました。
  そのイエスの裁判に際して、世俗の権力者であるピラトは実は判決に迷っています。むしろ確信を持って裁いたのは、当時の宗教的な指導者であり、民衆でした。彼らは自分たちが何をやっているのかわからないとは思っていなかったはずです。しかし、その集団を前にして、イエスは「何をしているのかわかってない。神よどうかお赦しください」と言ったのであります。
  イエスが死なれたのは「律法を完璧に守らない者は、神の救いから外れる」という思想が横行していた社会でした。何をすれば神の御心にかなっていて、何をすれば逆らっているかということを、一生懸命研究していた時代でした。それは一見信仰深い生き方のように見えて、実は自分の生き方を命令してもらいたい、権威に認めてもらいたい、自由の放棄、自由からの逃避、確かさへの逃避だったのであります。
  イエスが十字架で一切の罪を贖われた……。ということは、もう誰も裁かれない、ということ。しかも、当人たちが「何をしているのかわかってない」状態であったとしても、それが赦されているというのですから、もはや善悪の知識などは、救いに関しては何の価値もない、ということになります。
  と同時に、イエスの十字架は、善とも悪とも正体がつかない曖昧なる人生の現実を、自分についても他人についても、否定せずに受け入れなさい、ということをも要求しているのであります。
  「私の人生は必ずしも美しくはないし、清くもない。どちらかといえばよご汚れたことや、報われなかった事のほうが多かった。人に知られたくないような現実や、自分でも受け入れたくない、忘れていたい自分もある……」そういう人にこそ、イエスは言われます。
  「あなたが神に嫌われたり拒まれたりしてもしょうがない、と思っているような事があるのなら、代わりに私が罰を受けておいたから、もういいんだ。次のステップに向かって歩いていきなさい」と。
  そんなありがたい話があったとしても、なかなか素直に受け取ろうとしない人も現実には多くいらっしゃいます。「いや、私はいいです。どうせよご汚れた人間ですから」と、そういう状況に安住したがる人がいることも確かです。ですから、イエスの十字架を受け入れるには、「素直になる」という能力も必要なのかも知れません。
  また、国家であれ、学校であれ、家庭であれ、組織であれ、自分よりも強い者や自分が属する集団に、生き方の基準を決めてもらうのは、愉快ではないけれども、楽なことです。しかし同時に危険なことでもあります。そしてそれは、その基準を決めてもらう相手が、神や教会であったとしても同じ事です。
  しかし幸か不幸か、私たちは神の善悪の判断を知ることができません。「神のご意志はこうに違いない」と言っている人々の見解も十人十色であります。ということは、何が罪で、何がそうでないか、厳密にはわからない曖昧な世界で、自己責任で生きていくしかない。自分が判断したことの理由として神さまを利用するな、ということなのであります。
  そういうわけで……
  
「曖昧なる人生をそのままに受け入れてよいのだよ」という神の優しさと、
  
「いかに人生が曖昧なるとも、私を利用せず、己の道を行け」という神の厳しさ。
  イエスの十字架は、この両面を宿しているのであります。
  真理が私たちに与える自由は、優しく、かつ厳しい。
  しかし神は、信じる者がいかなる道を歩もうとも、決して私たちを滅ぼされることはない。そういう意味で、やはり神は本当の意味でふところの深い、優しい方なのであります。

祈り

  祈りましょう。
  愛する天の御神さま。
  今日も生かされていることを感謝いたします。
  新しい人と人の出会い、新しいあなたとの出会いの機会が、この聖日もこうして与えられましたことを、心から感謝いたします。
  あなたの赦しの恵みを謙虚に、しかし素直に受け入れ、心からあなたを信頼して、平安のうちに生きる私たちであらせてください。
  あなたに対していつも開かれた心を保ち続けることができますように、どうか私たちを助けてください。
  この祈りを愛するイエス・キリストの御名によってお聞きください。
  アーメン。

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