正しい者も正しくない者も

2008年1月27日(日) 日本キリスト教団高槻日吉台教会 主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:使徒言行録24章14〜15節 (新共同訳・新約)

  しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と読んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。

「正しさ」への依存

  「キリスト教について、なんでもわからないこと、知りたいことがあったら、質問してください」と言うと、よく寄せられる質問に、「どうしてキリスト教にはこんなにたくさんの分派があるのですか?」とか、「一人の神さまを拝んでいる同じキリスト教のはずなのに、どうして教派が違うと戦争したりするのですか」というものがあります。
  西洋の歴史をちょっと勉強すると、キリスト教がいかに長い間、しかも実に執念深く他の宗教を弾圧していったかという話や、魔女狩り、十字軍、異端審問、あるいはキリスト教徒どうしでも、カトリックとプロテスタントが血で血を洗うような激烈な戦いをしてきていますし、現在でもアメリカのブッシュ政権がアフガニスタンやイラクを激しく攻撃する政策の背後にあったのは、宗教右派と呼ばれるキリスト教原理主義の支持者層であったことは周知の事実です。
  私のように学校で教えていますと、自分が担当している聖書の授業以外に、生徒たちは、たとえば社会科の授業などで、嫌というほどこのような情報を与えられます。こういう情報を与えられ続けている人たちが、「なんでキリスト教みたいな血なまぐさい宗教を信じる人がいるのだろうか?」と疑問に思い、聖書科の教員に不信感を抱くというのも、無理はないと思います。
  しかも、ちょっと勉強すると、ユダヤ教もキリスト教もイスラームも、実はもとは同じ神を礼拝しているのだ、ということもわかってきます。同じ神を信じている者どうしが、何故こうまでとことん争ってしまうのでしょうか……。
  突き詰めて本当のことを言えば、私たち人間は、神の本当のご意志や、神がいま何を望んでおられるのかを知ることはできません。世の中には実にありとあらゆる種類のキリスト教が存在します。そして、それらの教派のいずれもが、自分たちの正しさを主張します。しかし、このように無数の分派に分かれていること自体が、「人間は神の思いを、本当には知ることができない」ということの証拠なのではないでしょうか。
  人間は神に近づこうと望むことはできます。しかし、誰もそれを完全に表現することはできない。だから、人間はみな自分が育ってきた文化や生い立ちなどの影響を加えて、さまざまなタイプのキリスト教をそれぞれに生きる、それを認め合うということでよいのだ、認め合うことしかできないのだ、言えるのではないでしょうか。
  しかし残念ながら人間は、「これが正しいのだ」というお墨付きを欲しがります。自分の考えていることや、やっていることが正しいかどうか、裁いてほしがります。
  その正しさを、何らかの手続きで――たとえば教会会議などの多数決をもって――承認されると、それが「神の御心にかなった真理だ」ということになって、その決議に合わないものは「真理に反している」と見なし、今度は自分が真理の代理人のようになって、人を裁き始めます。そうやって、人は
「人を裁くな」(マタイによる福音書7章1節)というイエスの戒めを忘れてゆきます。
  初期のキリスト教の歴史においては、ユダヤ教やローマ帝国からキリスト教に加えられた弾圧よりも、キリスト教が公認化されて「正統派」というものが確立されてからの、正統派から異端と見なされた人びとへの弾圧のほうが、はるかに激しいものがあったと言われます。つまり、キリスト教からキリスト教に対して加えられた暴力のほうが、異なる宗教どうしの間での争いよりもひどかったというわけです。

同じ神を信じていても

  本日お読みしました聖書の箇所も、そのような同じ神を信じる者どうしの争いが描かれている場面です。
  ご存知の方も多いと思いますが、イエスを信じる人びとは、最初からキリスト教という独立した新しい宗教を作ろうとしたわけではありませんでした。信者は自分たちがユダヤ教徒であることを当然と思っていましたし、ユダヤ教の神殿での礼拝にも以前からと変わらず参加していました。自分たちのやっていることは、ユダヤ教の枠内での刷新運動であるというような自覚を持っていた程度だったでしょう。
  しかし、ユダヤ教サイドには、このグループを自分たちの宗教の枠内に受け入れるような寛容さはありませんでした。
  本日お読みしました聖書の箇所の、少し前、使徒言行録の24章5節から6節に、ユダヤ教の大祭司アナニアが、ローマ帝国から来た総督のフェリクスに対して、パウロのことをこんな風に告発しています。
  
「実はこの男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」(使徒言行録24章5−6節)。つまり、このパウロという男は、我々ユダヤ人社会の治安を乱す悪質な新興宗教の主謀者なので、社会を乱す犯罪者として刑罰を与えてくださいと訴えているわけです。
  これに対してパウロは、本日お読みしましたように14節以降で、こんな風に答えます。
  
「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」(使徒言行録24章14−15節)。
  つまりパウロは、自分はユダヤ教の分派のひとつに属しているにすぎないのであって、自分のユダヤ教徒としての信仰は、基本的には他のユダヤ教徒と変わりありませんよ、と言っているわけです。そして今回のアナニアの訴えは、総督フェリクスのようなユダヤ教徒ではない人にとっては、さほど重要ではない細かな分派争いにすぎませんよ、ということをわかりやすく説得しているわけです。

逸脱・違反

  ここで、なかなかパウロの発言の微妙なところといいますか、巧みなところだと思うのですが、ユダヤ教徒ではない総督フェリクスに対しては、「同じユダヤ教徒どうしの些細な分派争いですから、私とアナニアの信仰の間には、大した違いはないのですよ」というニュアンスで証言していながら、裁判官であるフェリクスには気づかれないように、ライバルであるユダヤ教徒たちだけがムカッと腹を立てそうな一言を混ぜているのです。
  それが、
15節「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」という一言であります。
  
「正しい者も正しくない者も」。
  当時、たとえばファリサイ派のような、厳格なユダヤ教の信者たちは、「正しい者」のみが復活すると考えていました。
  この場合、「正しい」というのは、ギリシア語で「ディカイオス」というのですけれど、たとえばイエスの母マリアの夫ヨセフが「正しい人であったので」マリアをひそかに離縁しようとした、という場面。ここにも、今パウロが言った「正しい者」の「正しい(ディカイオス)」と同じ言葉が使われています。つまり、旧約聖書、ユダヤ人の聖書の律法をきちんと守る、ユダヤ教的に「正しい人」という意味です。
  これに対して、「正しくない者」というのは、律法を守らない者、不義な者、不正とされる者などを意味し、またあるいは、異教徒をさす場合もあります。
  パウロはもともとファリサイ派の出身ですから、ユダヤ教の律法にかなって「正しい」者だけが、神に義とされて――この「義」という言葉も「ディカイオシュネー」といって、「ディカイオス」(正しい)を名詞にしたものですから、「正しい事」「正しいと認められること」という意味になりますが――ユダヤ教の律法を厳格に守る「正しい」人だけが神に義であると認められて、復活の恵みにあずかるのだ、とファリサイ派が人びとに教えていたのは知っていたわけです。
  ですから、律法を厳格に守らなければならないと唱えていた人にしてみれば、
「正しい者も正しくない者もやがて復活する」(使徒言行録24章15節)などと言う言葉を聞けば、「これは律法に対する逸脱だ、律法違反だ!」ということになるのです。

正しい者も正しくない者も

  しかし、この論争の中に巧妙に混ぜ込まれた「正しい者も正しくない者も」という言葉の中には、パウロの人生体験に基づいた深い思いが読み取れるのではないかと思われます。
  パウロは、キリキア州のタルソスという、現在のトルコの南部、地中海に面した町の出身でしたが、ユダヤ教のエリートを目指してエルサレムに留学し、高名な律法の教師ガマリエルの門下に入り、勉学を続け、ファリサイ派の律法学者になりました。そして、イエスの名のもとに集まる「ナザレ人の分派(後のキリスト教)」に対する迫害を率先して行っていた人物でした。初期のナザレ人の分派の宣教者の一人であるステファノが石打ちで殺されるときに、石をなげる者たちの上着を預かって番をしていたのは、このパウロだといわれています(使徒言行録7章58節および22章20節)。
  しかし、そのパウロ自身が劇的な回心を経験して、キリスト教徒となりました。これまで自分が「正しい」と思って信じこんできたものが、根底からひっくり返されて、新しい道が与えられる。自分が「間違っている」と思い込んで、その命をも奪ってきた人びとが、実は間違っていなかった。そんな経験をした彼は、「何が正しくて、何が正しくないか」について人間が論じることの空しさ、あるいは危険さを痛いほど思い知ったことでしょう。
  彼はもともと、自分の信じる道が「正しい」、「義である」と思い込んで、「正しくない」と自分が判断した者を裁き、迫害する人間でした。しかし、回心したあとでは、キリスト教に改宗したからといって、キリスト教以外の宗教を弾圧するということはしませんでした。
  むしろ、彼が知ったのは、どう生きても神の御心に反して生きざるを得ない人間の、どうしようもない罪の身代わりとしてイエスが死んでくださったということであり、そのイエスが自分の前に姿を現してくださったということであり、人間はそのイエスを通して神に赦されなくては生きてゆけないという確信でした。
  
ローマの信徒への手紙3章28節で、彼は「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」と言い切っています。
本来、律法にかなって「正しい」とされる人のことを「義なる人」と呼んでいたのに、それをひっくり返して、律法に反している「正しくない」人でも、信仰があれば、それによって神に「義とされる」、つまり「正しいと認められる」と唱えたわけです。
  そういうわけで彼は、「正しい者も正しくない者も」同じ復活の恵みにあずかれるのだ、と宣言することができました。
  パウロにとっては、もはや律法というユダヤ教の戒律に照らしての、「正しい」とか「正しくない」という判別は意味をなしていません。むしろ、彼にとっては、神の目から見れば、
「義人はいない、ひとりもいない」(口語訳、ローマ人への手紙3章10節)のであり、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(新共同訳、ローマの信徒への手紙3章20節)わけです。
  しかし、人の目による「正しい」、「正しくない」の判別とは全く関係なしに、単純にイエスを信じることで神に「あなたは正しい」と認めてもらえる、そういうちょっと矛盾しているような無理のある言葉づかいですが、そういうことをパウロは言っているわけです。

同じ希望を抱きながら

  さて、再び本日の聖書の箇所に戻って、使徒言行録24章15節の後半ですが、パウロは復活の希望について、「この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」と弁明しています。
  つまり、大祭司からは「おまえは異端だ」、「律法から逸脱している」と告発されているのですが、パウロ本人は「私とあなたがたは、同じ神を信じ、同じ救済を望んでいるのですよ」と呼びかけているわけです。「正しくない者も救われるんだよ」と相手を挑発しておきながら、今度は握手の手を差し伸べようとしているようなものです。
  大祭司たちユダヤ教の執行部は、自分たちと違う見解を持つ者を「間違っている」と決めつけて裁こうとします。しかし、パウロは「あなたと私はただ『違って』いるだけで、どちらかが『間違って』いるわけではないんだよ」と呼びかけているわけです。
  
「間違っている」「間」はいらないわけです。ただ単に「違っている」だけなのです。「違ってはいるけれども、同じ神を見ているではないか」という和解へのラブコールです。先ほど申し上げたように、ちょっと皮肉も混じっていますが。
  初期のキリスト教は、このようにさまざまな立場や種類のキリスト教が広がりを見せていたといいます。しかし、4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教に定められて以来、キリスト教には「正統」と「異端」があることになってしまい、あるタイプのキリスト教が、他のタイプのキリスト教を排除し、追放してゆくという構図が出来上がります。そして、なんでも多数決で、「正しい一つの答」を決議してゆくという体質が作られていってしまいます。そうやって、「真理に近づくためには多様なアプローチがある」ということを完全に否定してゆく暗黒時代がやってくるわけです。
  プロテスタント教会も最初は、カトリックと血みどろの争いをしました。しかし、今は世界キリスト教協議会などの活動に見られるように、エキュメニズム、つまり多様な教会がたがいに相手と自分の違いを尊重しあいながら、同じ世界の課題に取り組んでいこうという流れが与えられるようになってきています。
  残念ながら、最近はローマ教皇も「プロテスタントは教会ではない」などと発言したり、日本基督教団の執行部が、自分たちと違う考え方をする牧師を多数決の数の暴力で排除しようとしたり、といった中世暗黒時代に逆戻りさせようとしているかのごとき言動も時折見られます。
  しかし、これからの時代、ますます社会への柔軟な対応が求められるときに、教会のなかに実に多様で多彩な人材が豊かにそろえられているような状態でなければならないのは確実であります。キリスト者どうしが足を引っ張っているような状況ではないのです。
  さまざまに違った道を通ってでも、最後に行き着く神さまはひとつ。さまざまに違った形であっても、みなそれぞれに望んだ救いが与えられている。そういう思いで、自分とは違う信仰の持ち主とも、「それでも同じキリスト教ではないか。同じ神に愛されて、生きているじゃないか」と呼びかけあえるような信仰を持ちたいものです。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  本日、このようにして高槻日吉台教会の方々と共に礼拝をささげることができます恵みを、心から感謝いたします。
  私たちの信仰が、この世に対して、本当に必要とされる良きものでありますように、どうか私たちをお導きください。
  主の御名によって祈ります。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール