わたしはあなたとともにいる

2008年12月24日(月) 日本キリスト教団香里ケ丘教会クリスマス・イヴ礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書1章18〜25節 (新共同訳・新約)

  イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
  「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
  このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
  「見よ、おとまが身ごもって男の子を産む。
  その名はインマヌエルと呼ばれる。」
  この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使たちが命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

愛を確かめ合う季節

 みなさん、クリスマス、おめでとうございます。
 教会の暦ではこのクリスマスの4週間前にさかのぼって、アドヴェントという時期を過ごす事になっており、キリスト教ではこれが新年の始まりとされています。4週間、1本ずつ灯すろうそくを増やしながら、キリストの誕生を心待ちにしながら過ごします。そして、ろうそくが4本灯ったところで、クリスマスがやってきます。
 クリスマスという行事は、すっかり日本人の文化の中に定着したように思います。それも、単にどんちゃん騒ぎをするというのではなく、家族やパートナー、親子や恋人など、自分にとって大切な人との愛情を確認し合う季節としてこのクリスマスを受け止めている人が多くなってきているのではないかと感じています。そして、それはとてもよいことなのではないかと思います。
 確かに、クリスマスがキリストの誕生、すなわち神の子と呼ばれた方がこの世に姿を現してくださったことを記念する日なのだという、本来の意味を知らない人が多いでしょう。そして、本当の意味を知らない人の割合のほうが今も増え続けているのでしょう。しかし、そういったクリスマスの起源を知らなくても、クリスマスを大切な季節として過ごす人が増えている事は、悪い事ではないと思います。
 考えてみれば、日本の文化風俗に浸透したキリスト教の行事は、クリスマス以外にも、チャペル式の結婚式やバレンタインデーなどがあります。それらの本来の深い意味についても、今は知らない人のほうが多いでしょう。しかし、それでも、これらのキリスト教起源の風物が、いずれも自分にとって大切な人に、あらためて「あなたのことが好きだよ」、「あなたは私にとって大切な人だよ」、「私はあなたといることで幸せなんだ」ということを伝えるという目的を持っているということ、そういう気持ちが日本に浸透したのは、悪くないのではないかと思います。

なぜあなたは大切なのか

 人が自分にとって大切な人に「あなたは大切な人だ」と伝えることはとてもいいことです。人間にとって「自分は誰かに大切に思われている」「自分は愛されている」と感じることほどうれしいことはありません。
 自分は愛されているという事実を確かめることは、生きる喜びを与えてくれ、生きる意味を感じさせてくれます。ですから、逆に言えば、「あなたは私にとって大切な人だ」と伝える事は、相手の人に生きる意味と生きがいを与える尊い行いだということになります。
 しかし、私たちは、なぜ「私たちはみな大切な存在なのだ」ということが言えるのでしょうか。その根拠は一体どこにあるのでしょうか。それは神が私たち全ての者に命を与えてくださった方であり、私たちは一人残らず神に愛されているから。そのことを確かめるところが教会なのだと教会では語られます。
 なぜ私たち一人一人がみな大切な存在なのか。それは私たちを創った神が私たちを愛してくださっている。しかも神御自身の子どもの命を引き換えにしてでも守ろうとするほどに愛しているのだから、私たちの命はそれほどに大切だと神は告げ知らせてくださっているのだ。そう、いにしえより伝えられているのであり、その根本的な意味を説き続けてきたのは、確かに教会です。

センス・オブ・ワンダー

 でも、これは(既にお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが)こういう風に言葉で言っただけでは、本当は答になっておりません。神が愛してくださるから、私たちは尊い存在なのだというだけでは、答になっていません。なぜなら、神という存在は、本当にそんな方がおられるのかどうか、証明のしようがないからです。つまり神という方がおられるというのは、客観的な根拠がありません。教会は根拠のないものを根拠にして「あなたは愛されている」と言っているわけです。
 実は、神を信じる人は、客観的な根拠を確認してから、神は存在すると信じるようになるわけではありません。私たちがこの肉体とこの精神の合わさった形で生きているということ、この生きている命の驚くべき不思議さ。私が「私」としてこの世に生を受けた事の不思議さ。そして、私たちが誰かを大切に思い、愛し、その人のために何か喜ぶことをしてあげたい、そしてその人が喜んでくれると、自分までうれしくなる。そういう心を与えられていることの不思議さ。それら数多くの不思議さのなかに、何者かがある意図をもって私たち人間を設計したのではないだろうか、いや、きっと私たちを創造した何者かの意志が存在しているに違いない。そう考えなければ、この地球とこの命とこの愛の、驚くべき奇跡を理解することはできない……。そういう洞察、そういう風に世界を見る視点のなかに神を信じる気持ちの芽生えがあります。
 『センス・オブ・ワンダー』というレイチェル・カーソンという方の有名な著作があります。自然の神秘と不思議さに目を見はる感性、その感動を分かち合う事の大切さを教えてくれる1冊ですが、その言葉のとおり、まさに「センス・オブ・ワンダー」(驚きの感覚)、この命があることと、誰かを愛そうとする気持ちがあることの不思議さに目を見はる感性が、具体的な姿形は浮かばなくとも、何かこの世を、そして私たちをこういう者に創造した心があるはずだ、と直観させます。そして私たちは、その心に愛されてここに存在しているのだ、と感じることができるのであります。さらには、この命に対する「センス・オブ・ワンダー」を失ってしまうところから戦争や環境破壊が起こるのです。

愛を見失った人のために

 「センス・オブ・ワンダー」、しかし、全ての人がそのような感性を持っているわけではありません。あるいは感性があったとしても、それに素直に従うかどうかはわかりません。かえって、人と人の愛の関係を打ち壊したり、自分を愛する人を裏切る事に自虐的な喜びを感じてみたりする人も、現実にはたくさんいるでしょう。
 また、誰からも愛されない人もいます。たった一人で生きていて、不安定な職についているか、あるいは無職。財産も家族もなく孤独に黙々とただ生きている人が、この日本にも世界にも、いくらでもいます。愛されるということを体験できない人がたくさんいます。今のように景気が急激に悪くなる時代には、すぐに切り捨てられて、衣食住も満たされぬまま、路頭で寒さに身を縮ませながら、死んでしまう人もいます。
 そんな人に、「神はあなたを愛しているのですよ」と言葉で告げ知らせたところで、なんの役に立つでしょうか。「そんなものより、部屋をくれ、ストーブをくれ、飯をくれ」と言われてしまうのが落ちなのではないでしょうか。
 そのような人には、食べ物と温かい場所が必要です。それを与えてくれる人が、自分を愛してくれる人なのです。そして、その上で、やはり人間には話し相手が必要です。どんなに飲食や物質が満たされたとしても、人とのつながりがなければ、本当には満たされないでしょう。日本は1年に3万人近くの人が自殺する、「自殺大国」です。もちろんそれは自殺に「成功」した人が3万人近くいるということであって、「未遂」に終わった、あるいは行動を起こすに至らないまでも、「死んでしまいたい」「人生なんかやめてしまいたい」と思っている人はその何倍もいるでしょう。それほどまでに孤独なまま生きづらさを抱えている人が、この国にはたくさんいるということです。
 誰からも愛されていない人。誰からの愛も信じる事ができない人。そういう人のところには、具体的に誰かが付き添ってあげないといけません。神が人を愛しているということを言葉で言うことも大事ですが、その愛を人間が現実のなかで神の代わりに実行しないと意味がないのであります。

インマヌエル(神、我らと共にいます)

 さて、クリスマスの物語がつづられているいくつかの聖書の箇所のなかで、今日は、マタイによる福音書の1章後半に注目してみます。それは、大工のヨセフが眠っている間に見た夢のお話です。
 
マタイ1章23節にはこう書いてあります。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」
 「インマヌエル」とは、「神われらと共にいます」という意味であるのは、ここで書かれている通りですが、この言葉は
イザヤ書という旧約聖書の中の本に、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7章14節)と預言されているので、マタイはそれを引用して、イエスの誕生と結びつけたわけです。マタイは「イエスが誕生する事で、神が私たちのそばにいてくださる(インマヌエル)ということが実現するのですよ」と言っているわけです。
 言葉だけで「神はあなたと共におられるんですよ」と言うのではなく、その言葉が現実になる。つまり、神が天から降りて来て、私たちと生活を共にし、苦楽を分かち合ってくださるのだ、ということを、ここでは言っています。イエスが私たちの間に来られたということは、神が私たちのところにいるのと同じ事です。もちろんこれも、イエスが神の子であるということには、何ら具体的な証拠はありませんが、それでも最初のキリスト教徒たちは、イエスの中に神と同じ神秘と愛を感じたがゆえに、「イエスは神の子である」という言葉で信仰を告白しました。
 そしてマタイは、その信仰の告白を、自分の書いた福音書の一番最初にもってきました。「インマヌエル」:「神、我らと共におられる」その宣言からマタイ福音書のイエス物語は始まります。
 いっぽう、マタイの福音書の一番最後の言葉はこうなっています。
28章20節「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」……マタイの福音書の最初で「インマヌエル:神はわれらと共におられる」と言われたテーマが、最後にもう一度くりかえされていることにお気づきでしょうか。「私は、いつもあなたがたと共にいる。すなわちインマヌエル」とイエス自身が語って、この福音書は終わるのです。
 さらには、この福音書の中間部分、
18章20節では、イエスはこういう言葉を語ります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。やはり「わたしはあなたがたと共にいるよ」と語られています。この部分をマタイ福音書の中心であると述べている神学者もいます。
 つまり、マタイによる福音書は、「神は私たちと共におられる」。私のそばにも、あなたのそばにも、神はおられる。そのことを人びとに告げるために書かれた書物なのだ、と言ってもいいでしょう。
 「ほら、イエスはいつも寂しい人や、悲しんでいる人や、病んでいる人や貧しい人のところに、どんどん自分から訪ねていったでしょう。あれが神の愛というものですよ。私たちのそばにはいつも神がいる、それをわからせてくれたのは、あの人ですよ。もし、神を信じる事ができなくても、少なくともこのイエスという人は信じられるでしょう」、そうマタイは述べているのであります。

この世にやってきた神

 もっと言うならば、神は、御自分が人間を愛していることを示すためには、人間としてこの世にやってくること以外に方法がなかったのだ、と解釈することもできるでしょう。
 人間ですから、いつかは死にます。神の子だから特別、という方法を神はとりませんでした。イエスは、この世で最も惨めな死に方をしました。その死は、御自分の弟子たちの命を助ける身代わりの死でもありました。
 しかし、その後、イエスの弟子たちは真実を知りました。イエスは、味方もなく、報いもなく、生きていた意味などみじんもないものにされるような、この世で最も惨めな死に方をする人のそばに寄り添う者になろうとして、無惨な死をあえて受け入れたのです。そこまでして、いちばん苦しんでいる人のそばで「私はあなたと共にいる:インマヌエル」ということを実践しようとしたイエスの姿に、人びとは神を見ました。
 ですから、弟子たちは、「イエスが指し示してくれたこの神は、どんなことがあっても、私たちを見捨てず、私たちと共にいてくださるだろう」と信じることができました。
 そして、神が、その生と死に至るまで、徹底的に人間として人間を愛された姿にならい、弟子たちも、そしてそれに続く最初のクリスチャンたちも、自分が神の代理人として、人を愛する実践のわざに励むようになりました。それが、キリスト教会が世に受け入れられてゆく原因となりました。
 ですから、みなさん、クリスマスというのは、人間界からは遠く、天の上にいらっしゃると思われているような神が、「わたしはそんな手の届かないところにいるような神ではないのだ」といって、地上に人間の姿で現われた。それも、かよわい赤ん坊の最初から人生を歩まれるというまどろっこしい方法をとられた。そういう神の思い、神さまの心意気を、喜び合うのがクリスマスなのであります。
 そのことに感謝し、私たちも、できるところからで結構ですから、神さまの心意気に意気を感じて、人を愛する事に励みたい。自分にできる方法で。自分にできる力量で。愛されていない人を愛することができるように。「わたしはあなたと共にいるよ」と一人でも多くの人に声をかけることができるように。捨て身でこの世を愛してくださったイエスの心を深く受け止めるクリスマスにしたいものです。
祈りましょう。

祈り

 愛する天の御神。
 今私たちは、あなたの分身がこの世にやってこられたことをお祝いする、クリスマスの礼拝を共にしております。こうして私たちがひとときの和らぎと温かさを共有する事ができますことを、心から感謝いたします。
 この和らぎと温かさを、一人でも多くの人と分け合う事ができますように、一人でも多くの人に「いっしょに生きよう」と声をかけることができますように、どうか私たちを強め、励ましてください。
 主の御名によって祈ります。
 アーメン。

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