「愛されていることに気づいていますか」

1999年12月24日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス音楽礼拝説教

説教時間:約20分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:マタイ1.18−25(イエス・キリストの誕生)(新共同訳・新約・p.1)

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

ルカ1.26−38(イエスの誕生が予告される)(新共同訳・新約・p.100)

 六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠のヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカ2.1−7(イエスの誕生)(新共同訳・新約・p.102)

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行なわれた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町に旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へと上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

  夜……。クリスマスは夜のお祭りです。
  なぜ夜なのか。
  それは、この世の闇を思い起こすためです。そして、闇の中にこそ、光がやってくることを思い起こすためです。

闇に呑まれている私たち

  思えば、1999年もたくさんの悲しい出来事がありました。
  たくさんの人が大きな災害の犠牲になり、たくさんの人が戦争で傷つき、命を失いました。たくさんの人が仕事を失い、自らの手によって命を絶つ人は大人も子どもも増えつづけ、またたくさんの子どもが虐待され、命を奪われたりしました。
人の体は疲れたり衰えたりすると、弱い部分から病状があらわれますが、同じように、社会が病んでいる時も、一番弱いところにしわ寄せが表われるようです。
  いまの世の中は、弱い人が殺されたり、弱い人をいじめたり、切り捨てたりする事で、社会の大勢が生き残ろうとする、そういう時代です。みな、自分が見捨てられぬように生きることで精一杯です。
  たとえば、職場に捨てられることの恐怖から、体を壊してもそれを隠し、カラ元気をふりしぼって働く人。人間関係からはじき出されまいと友人や上司にこびへつらったり、少し変わった人がいると一緒につまはじきにする事で仲間同士であることを確認する者。愛情と関心をつなぎとめるために必死になって親の要求にこたえようとする子ども。逆に子どもに見捨てられたくないがために、子どものわがままの奴隷になっている親。あるいは、独りになることの恐怖から、配偶者や恋人の無理な要求を断ることができない者などなど……。
  私たちは、ある条件を満たさなければ、「私が生きている」ということを「よし」としてもらえない。そういう社会に生きています。条件つきの愛情、条件つきの生きる権利が当たり前という風潮に呑み込まれてしまっています。呑み込まれてしまっているので、「どんな人間も無条件で大切な存在だ」「私は大切な存在だ」と勇気をもって言えず、あきらめている事が多いのではないでしょうか。

イエスの時代も

  さて、クリスマスは、キリスト・イエスのお誕生を祝うお祭りです。
  思えば、キリストが生まれた2000年前のユダヤの時代状況は、どこか私たちの社会状況と似ておりました。
大きな戦争は無かったものの、それは軍事大国であるローマ帝国の軍隊が世界各地に基地を作って駐留していたからですし、このローマ帝国や地元ユダヤの政治家に支払う税金で人びとの暮らしはひっ迫していました。基地の周りでは軍人が住民に迷惑をかけていましたし、地元ユダヤの政治家たちはたいてい大地主で、国民の多くはこれに雇われる貧農や日雇い労働者、または奴隷でした。
  みんな生活に追いまくられて精神的にも余裕が無く、体を壊したり病気になったりした人は「天罰だ」とか「汚れている」とか言われて、社会復帰はまずできませんでした。
  貧しい家庭が多かったので、子どもが子どもでいられる期間も非常に短かったですし、結婚した女性も割合簡単に離縁され捨てられる事がよくあったので、路上生活をしたり娼婦となって食いつなぐ女性も多かったようです。
  病気や人生の苦難は、神の呪いという風潮が出回っていたので、税金以外にも人々はがっぽり神殿に金品を献げさせられました。
  今ほど気晴らしの娯楽が世の中にあふれているご時世ではありませんでしたし、たいへん殺伐とした社会の中で、人びとの鬱屈した不満ばかりがたまっていきました。
  そんな社会に精神的に耐えられなくなって、心の病を患ったり、その結果犯罪を犯す者も増えていました。そういった人びとは「悪霊にとりつかれた者」と呼ばれ、遠い土地に流されたりしました。
  そんなすさんだ世の中で、人びとは力強い指導者を求めていました。何とか今の社会を変革し、私たちの苦しみを取り去ってくれるような指導者が出てきて欲しいものだ……と。当時のユダヤには、そんな「メシア」つまり救い主を待ち望む信仰がはやっていました。
  そして実際、いろいろな「自称メシア」が出現していました。たとえば、テロを起こして社会を転覆させ、ハルマゲドンを自ら起こそうとする自称メシア。あるいは、病気を治したりするような魔術や奇跡を見せつけてひと儲けする自称メシア。人びとはそういう動きが出るたびに群がってもてはやしてみたり、首謀者が逮捕されると逆にこきおろしてみたりしていましたが、結局はこれらの現象は国民の鬱憤ばらし以上のものにはなりませんでした……。
  どこか私たちの社会と似ていたのです。
  本当は弱い人が切り捨てられたり、殺されたりする世の中で、自分たち自身が苦しんでいるはずなのに、人びとは相変わらず「今よりももっとましな、もっと強い支配者が出てきて、自分たちを救ってくれる」という期待に呑み込まれていました。
  この世が闇であることはわかっているのですが、一体何が本当の光であるかを思い描く想像力さえも失っていた。それほどまでに深い闇の世の中であったと言えます。

神さまのユーモア

  さて、ここで神さまはちょっとしたユーモアを用意しました。それは救い主を赤ん坊としてこの世に送り込むという計画でした。
  「救い主と言えば、やっぱり力強く我らを導き、神の力をもって、群がる敵を打ち散らし……」と、救い主はこうでなくっちゃならんとみんなが思っている所に、やってきた救い主はなんと「赤ちゃん」でした。聖書に
「マリアは……子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2章7節)とありますが、ここで「布にくるんで」と言うのはオムツの事であります。
  救い主とはいえ赤ん坊は手がかかります。頼りにならないどころか、おっぱいはあげないといけないし、オムツは変えないといけないし、夜中は泣くし、大変手のかかる救い主です。
  世話をするマリア、ヨセフの夫婦も大変だったことでしょう。なにしろ、この若い夫婦ははるばる旅をしてきたにもかかわらず、
「宿屋には彼らの泊まる場所も無かった」(7節)といいます。
  宿屋が満室だったとしても、ここは税金の申告のために戻った父親ヨセフのいわば本籍地ではないか。親戚一人いなかったのでしょうか。あるいは親戚はいなくても、出産間近の大きなおなかを抱えた妊婦が旅をしてきたというのに、「どうぞこの部屋をお使いください」と言ってくれるような民家も無かったのか。そんな思いやりのひとつもないまでに冷たい世の中であったということでしょうか。この出産を控えた若い夫婦は、誰からも人間として大切にされず、人間扱いされていませんでした。
  しかし、誰からもその存在を歓迎されなかったこの若い夫婦を最も必要としたのは、生まれたばかりの赤ん坊でした。
  赤ん坊は泣きわめき、おっぱいを求め、だっこを求めたことでしょう。マリアとヨセフが守り、世話をしなければ、この子は死んでしまいます。なんと弱々しい救い主。しかし、その泣き声に隠されているのは、
  「あなたが必要だ……!」
  というメッセージそのものでした。
  「あなたがいなければ、私は死んでしまう。私にはあなたが必要だ。あなたは私にとって大切な人だ」そう赤ん坊は叫びつづけています。
  誰からも見放された若い二人が、その孤独とむなしさから這い上がることができたのは、あるいは這い上がらずにおれなかったのは、そんな小さな自分をも必要としてくれる、さらに小さな弱い存在が現れたからです。
  もはや二人は誇らしく感じていたかもしれません。二人は、自分たちがこの子にとってかけがえのない存在であることを確認できたからです。

赤ん坊の神さま

  もし救い主が強い支配者のようだったら、みんなその救い主に依存してしまいます。自分でものを考え、自分で判断し努力して、自分の人生を生きる代わりに、支配者に命令され、支配者のために働く人生を送るようになります。そして引き換えに、支配者からの保護や見返りを求めるようになります。そしてその支配者が敗れた時には、自分まで支えを失ってしまいます。節操のない人はまた次の依存先を求めるでしょう。しかしきりがない、救いもないくりかえしです。
  しかし、赤ん坊の救い主には、私たちは依存することができません。
私たちが赤ん坊を育てるとき、自分でものを考え、知恵を仕入れ、創意工夫し、試行錯誤をしながら子どもを育てなければなりません。大失敗もありますし、苦労した割には思ったとおりにいかないことばかりです。しかし、うまくいかなかった時「なぜだ」と怒ったり、うまくいかない原因を考えたり、これからどうすればいいのか悩んだり、そうやって懸命に目前の現実に関わる事で、私たちは精神的に自立し、成長することができます。そして、ふと我に返ると、案外そうやってじたばたしている自分自身が可愛いと思えるときがあるものです。
  これは子育てに限ったことではありません。仕事でも。あるいは仕事でなくても、遊びでも、勉強でも。芸術活動でも奉仕活動でも。私たちは心を込めて、愛を込めて何でもやってみる事で、実は案外自分は値打ちのある人間ではないかということに気づいてゆきます。
  不思議なことですが、業績を生み出さなくても、効果をあげなくても、私たちは一生懸命誰かを、あるいは何かを愛することを通して、逆に自分が愛すべき人間だということを教えられるのです。

光はあなた自身のふところに

  救い主がなぜ赤ん坊の姿でやってきたか……。
  それは、このすさんだ世の中で、自分が誰からも必要とされず、生きていることに何の意味が無いように感じる、そんな状況に置かれた人間に、どうやったら「あなたが必要だ」「あなたに生きていてもらいたいのだ」と伝えることができるだろうかと、悩みに悩んだあげく思いついた神さまのすばらしいアイデアでした。
  「そうだ! 私が赤ん坊になって、生まれてやろう!」と。
  「愛する努力によってこそ人間は自分で自分のすばらしさに気づくはずだ。きっと自分を好きになれるはずだ」と。
  それが神さまの計らいであります。
  というわけで、今年のこのクリスマス・イヴも、心の中に生まれたばかりのキリストが力いっぱい泣く姿を思い描きつつ、人間を愛するあまり赤ん坊になってこの世にやってきてしまった神さまの、そのあふれる思いを、改めて受け取りたい。そう思うのであります。

祈り

  お祈りいたします。
  私たちを今日も生かし、養ってくださる神さま。今宵、闇の中に輝く光である、御子イエス・キリストのご降誕をお祝いすることができます恵みを感謝いたします。
  暗い知らせが多いこの世の中で、私たちがこの暗さの中に埋没し、苦しみを当たり前だとあきらめてしまうのではなく、自らの心の中にあなたの光を受け入れて、自から愛を分かち合ってゆこうとする者となれますように。大切な赤ん坊を守るように、大切な思いを心の内に守り、その思いをロウソクの炎のように一人ずつ伝え、この世を住みよい社会としてゆけますように。あなたのお導きを心からお祈り申し上げます。
  一言の感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。
  アーメン。
  「クリスマス。おめでとうございます」


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