Beloved

2004年2月8日(日)関西地区キリスト教学校若手教師「祈りの会」ショート礼拝奨励

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ローマの信徒への手紙9章25−26節(新共同訳・新約・p.287)

  ホセアの書にも、次のように述べられています。
  「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
  『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、
  彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

迷い出た1匹

  わたしたちが働くキリスト教学校は、私立学校:私学です。
  私立学校は、経営上、生き残りのためにも、できるだけ優秀な生徒を集めたいと願うものです。
  また、社会からの学校への評価を下げないためにも、問題を起こしがちな生徒や、集団の規律を乱す生徒は喜ばれません。じっさいに問題を起こす生徒は、その問題が一定限度を越えると排除されます。
  特別な問題を起こすような生徒でなくても、生徒はふだんから勉強ができるかできないか、で常にランク付けされたり、選別されたりしていますし、教師の指導に従順に従うかどうか、あるいは生徒同士の群れになじんでいるかどうかで、容易に居場所を失う恐怖を潜在的に持っています。
  「それが世の中の現実だ、そういうことをしつけておかないと、世の中で生きてゆく力が身につかない」
そういう人がいます。わたしもそういう面は否定できないと思います。
  しかし、同時にキリスト教学校の理念であるキリスト教というのは、そのような世の中の厳しい現実を教え、鍛える観点と、ときどき全く逆のことを言うことがあります。
  たとえば、有名な「99匹の羊のたとえ」というお話が聖書の中にあります。

  
マタイによる福音書18章10−14節、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

  この物語は言っていることは、普段われわれがやっている学校教育の論理としばしば逆行します。
  さあ100人の生徒で一つのことをやろう、としている時に、1匹だけが迷い出てしまうと、非常に困ります。
  よくみなさん、校外学習や遠足・修学旅行などで、全体で集合させるときに、一人、二人が連絡もなく遅れてきて、全体が待たされてしまったり、なんてことないですか?
  それで、遅れてきた生徒がボロカスに教師に口汚く罵られたり、時間がないから全体が出発してしまって、遅れた生徒のために一人の先生が必死に家や電鉄会社に電話をかけたり、待ちぼうけを食らわされたりする……なんてことが起こったりするわけです。

たった1匹の逸脱者をも

  1人が逸脱行動を取ると、全体が迷惑する、だからそういうことは極力やめなさい。それが学校の論理だし、実社会でもそういう勝手な奴がいると困ることが多いので、しつけておかないかん、それが学校の使命だ、と考える人は多いわけなんですが……。
  しかし、この「『迷い出た羊』のたとえ」は、それとは逆に、迷い出た1人の子どもがいたならば、ひょっとしたら残りの99匹を待たせてでも、探し出して安全を確保し、面倒を見てやらねばならないのではないか、という事を考えさせます。
  これは遠足の集合だけではなく、たとえばクラスの平均点を一人で下げているような勉強の苦手な子や、担任の評価を一人で下げているような問題児についても同じことが言えます。そして文字通り、群れの中に入れない羊:教室といった群れの中に入れない、あるいは学校という囲いのなかに入れない不登校児についても同じです。
  キリスト教学校における「キリスト教」というのは、どこまでそのような、いわゆる「逸脱者」を迎え入れる度量があるのか、と一人ひとりの教員に問いを投げかけているのだと思います。
  もちろん無責任なことはできません。自分の能力を超えて、責任のとれないことを引き受けることは、かえって子どもを傷つけることになります。けれども、引き受ける能力が自分にないことを当然のように思ってはならないとも思います。
  なぜならキリスト教学校は、普通の学校と同じように子どもたちを鍛え、育てるのも大事な役割ですが、しかし同時にキリスト教学校は、普通の学校とはちがって、子どもたちに、
  
「君らは誰一人例外なく、一人残らず、みんな神さまに愛された、神さまの子どもだ」
  ということを知らせ、伝えてゆく、ということが使命だからです。

条件つきの愛も、無条件の愛も

  聖書が教えてくれる愛というのは、無条件の愛です。
  でも学校や社会の当たり前の論理は、条件つきの愛です。
  努力した者が評価され、歓迎される。努力しない者は評価もされないし、歓迎もされない。努力しない者が歓迎されたら、努力した者が「自分のやった努力の意味がない」と怒り出す。
  それが、当たり前の世界の論理です。
  けれども、キリスト教というのは、その当たり前の論理と逆のことを言います。
  努力しても、しなくても、その人の存在の値打ちは神さまの目からみたら、同じように高価で尊いわけです(
イザヤ書43章4節「わたしの目にあなたは値高く、尊く……」)。
  
「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイによる福音書20章1−16節)は有名ですね。9時にぶどう園に行っても、12時に行っても、3時に行っても、5時に行っても、もらう給料は同じ。こういう聖書のお話を聴くと、生徒も怒り出します。ふだん努力型ではない生徒まで怒り出すから面白いんですが。
  学校というところは、担当教科の教諭や、生活指導部の教諭や、何人などの教諭の評価が、その人間の値打ちの評価であるかのように思わせる仕組みを持っています。大人がそこまで意識していなくても、子どもにとっては学校というのは自分の生活の大きな部分をしめる居場所であり、しかも学校というのは外部の社会に対して、閉じた完結した空間になりやすいからです。
  だからこそ、評価がよかろうが悪かろうが、あなたが人間であることの値打ちにはいささかの変わりもない、ということを、特に教諭が意識して生徒に伝わるようにしていかないといけないと思います。
  このようなキリスト教の考えを目の敵のようにしている先生もいます。キリスト教学校にいながら、キリスト教のこのような無条件の愛に納得してくれない先生がいます。そして、キリスト教のような考え方をしていたら生徒がダメになる、と言ってみたり、あるいは逆に、人の道を教える宗教だったら、もっとしっかりと人をしつけてほしいと要求されたりもします。
  しかしわたしは、両方の論理があっていいのではないかと思います。一方では努力することの喜びを教え、責任を果たすことの喜びを教えつつ、同時に一方で、努力しない人間であっても、責任を果たせなくとも、人として生きる権利は同じであることの恵みを教えたいと思います。

強い者の弱さ、弱い者の強さ

  強さや優秀さで人を裁く教師は、やがて自分も同じ論理で裁かれます。自分が歳をとって強くもなく、健康でもなくなったとき、そしてだんだんと頭の回転が鈍り、記憶力も怪しくなってきたとき、自分の教師としての存在意義を失う。学校で生きてゆく限り、人間としての尊厳とか存在価値というものを見失わざるを得なくなります。そのとき、自分がどれだけ弱く、優秀でもない者を裁いていたか、気づくと思うんですね。
  むしろ学校には、それほど優秀でもない、正論を振りかざすでもない、強くもない、あるいは身体の弱い人や、障がいを持っている人がいることが、その学校の生徒にとって救いになっているのではないか。そのような人びとが学校には必要なのではないでしょうか。
  本当はじっさいの社会には、強い人もいれば弱い人もいます。金持ちもいれば貧乏人もいる。誰かが成功すれば必ず誰かが失敗し、誰かが勝てば当然その人に負けた人が現れる。
  負けてくれる人がいるから人は勝てるんであって、失敗してくれる人がいるから人は成功できるんであって、だから、勝っている人は負けている人に感謝いないといけないし、成功者こそが生き残り、失敗者には存在価値もないというのは、間違っています。
  勝つこと、成功すること、高い評価を得ることに値打ちがあるという、片っ方の論理だけでは、たとえば教え子が将来、不幸にして努力のかいなく挫折したり、敗北してしまったときに、その子に希望を見失わせてしまうことになると思うのです。これが強さばかりを求める人間の弱さです。
  そうではなく、どのような状況にあっても神さまは自分を無条件で愛してくれているんやと、心の片隅にでも思い浮かべることができたなら、その人は完全な絶望に陥ってしまう一歩手前で踏みとどまることができるのではないでしょうか。これが自分の弱さを知る人の強さです。
  これがあれば、どんな状態にあっても「それでも神は自分を愛してくれている」ということを支えに生きてゆけます。これが本当の「生きる力」なのであり、そういうしぶとい「生きる力」を与えるのがキリスト教教育なのではないか、とぼくは思います。

愛されなかった者を

  今日、読んでいただいた聖書の箇所、ローマの信徒への手紙9章25節には「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」と書いてあります。
  どんなにこの世のふつうの論理では愛されるに足る人間ではなかったとしても、神は愛している。どんなにこの世が切り捨てられたとしても、神は切り捨てない。この論理を伝えることが、本当に人を強くすると思います。
  願わくばわれわれも、このように子どもたちを愛し、育てるような教師でありたい。
弱さの中でこそかえって力が発揮される(コリントの信徒への手紙U12章9節)ということを証明するような教師でありたいと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか?
  一言、お祈りいたしましょう。

愛する天の御神さま。

  わたしたちを愛してくださって感謝いたします。
  わたしたちに、わたしたちのあとから生まれたたくさんの後輩たちと出会う仕事を与えてくださって、ありがとうございます。
  わたしたちにその子どもたちを愛するチャンスを与えてくださってありがとうございます。
  どうぞ、子どもたちがどのような状況にあったとしても、あなたが愛してくださっているのだということを、勇気をもって子どもたちに伝えてゆくことができますように。
  子どもたちを愛するためにも、どうか神さまわたしたちを愛してください。わたしたちの心の中に愛を満たしてください。
  この感謝と願いの祈りを、イエス・キリストの御名によって、お聞きください。
  アーメン。

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