裏切り者の行く末

2004年2月29日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難節第1主日礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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■聖書:マタイによる福音書 26章69−75節(新共同訳・新約・p.55)

  ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

裏切り

  人を裏切ったことは、ありますか?
  人を裏切ることを喜びとしている人は少ないと思います。むしろ、裏切りたくは無い、裏切ってはならないことはわかっている、しかし、自分を犠牲にしきることができずに、結果的に裏切ることになった、という経験をする人のほうが多いのではないかと、わたしは思います。
  そして裏切ったあとは、「わたしは裏切りたくて裏切ったんじゃない」と言いたくてたまらないのだけれども、「人を裏切った分際で偉そうな口を利くな」と言われれば、どうしようもないのであります。
  人を裏切らずに愛しきるというのは難しいことです。困難な状況に陥ったときでも、自分を犠牲にしなさいと口で言うのは簡単です。しかし、ほんとうに自分を犠牲にすることは難しい。
  また世の中には、一方を立てればもう一方が立たないということも多々あります。誰かを立てる選択をすれば、結果として別の誰かを裏切る形になる。あるいは、両方とも立てようとして、両方から裏切り者と呼ばれることもあります。
  誰をも裏切らないで生きようと思えば、誰とも関わりを持たない生き方しかない、あるいは自分はもうこの世にいないほうがよいのではないか、そのような思いも、生きていればしばしば経験する感情であります。
  私たちは人を裏切らずに生きることができるでしょうか?

イエスを裏切った男たち

  聖書のなかで「裏切り」と言えば、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが有名です。しかし、イエスの弟子たちの中には、ユダと同じほどひどい裏切り方をした人物として、ペトロの名前をあげないわけにはいきません。
  ユダは、イエスを銀貨30枚で官憲に売り渡したとされます。しかし、彼はその後、受け取った金を捨てて命を絶ったとも(
マタイによる福音書27章3−5節)、あるいは転落事故で死んだとも(使徒言行録1章18節)伝えられています。
  いずれにしろユダは、裏切った人とも、自分を雇った人間とも、関わりを絶ち、この世から消えることで、裏切り者としての自分の行く末にピリオドを打ちました。
  しかしもう一人のペトロ。
  このペトロは、本日お読みしました聖書の箇所にもはっきりと書かれてあるように、イエスの名を3度知らないと言った男です。
  イエスがいちばん最初に声をかけて、
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイによる福音書4章19節)と誘った男。それ以来、イエスにもっとも近いところで寝食を共にし、旅を続けた男。イエスが「天の国の鍵を授ける」とまで信任し(同16章19節)、そのイエスに「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同26章35節)とまで言った男。
  その男が、
「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と人前で指摘されただけで、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と、とぼけて逃げた(同26章69−70節)。
  彼は、3度イエスのことを訊かれて、3度否定しました。自分の命を失いたくなかったからです。イエスと一緒に死にたくなかったからです。「死んでもあなたについていく」と一時の感情で約束した、そのときに熱い感情は、自分の身の危険を感じたとき一瞬にして吹き飛びました。
  ユダは確信犯で、しかも積極的にイエスを売ったから罪が重い、ペトロはわざと裏切ったわけではない、命惜しさにやむなくイエスを裏切ったのだと、そう言って弁護することもできます。
  しかし見方を変えれば、ユダは最初からイエスと共に命を捨てますとは言わなかった。イエスも最初からユダが自分を売ることを知っていた。しかしペトロは、そして他の弟子たちも、イエスに対して「あなたと一緒に死んでもかまいません」と約束した上で、その直後に、その誓いを自ら裏切ったわけですから、どちらが大きくイエスの心を傷つけたか、問うまでもないことではないでしょうか。
  こうしてイエスはユダに裏切られ、ペトロに裏切られ、他の弟子たちにも見捨てられ、手足を釘打たれた痛みと、最も親しかった人々から見放された孤独に苦しみながら、十字架の上で息絶えました。

傷つけた者の傷

  人を傷つけた者も傷を負います。
  もちろん被害者が受けた傷のほうが大きいのであり、加害者は責めを負わねばなりません。
  しかし、とりかえしのつかないような裏切り方、責任の取りようが無いような人の傷つけ方をしてしまったとき、加害者である人間は、ユダのようにそのまま死んでしまえば、それで全てを終われるわけで、ある意味、死んで楽になれるとも言えるのですが、ペトロのように、それでもこの世で生き続けてゆかねばならないという場合には、大きな重荷を背負って生きてゆかねばなりません。
  まして、自分が罪を犯した相手が、もうこの世にはいない場合、彼は時間をおいて謝罪して赦しを請うことも、罰を受けるなり、罪を償うなりして、自分の罪を終わらせることもできないのであります。
  自分は生きる価値も無い者だと思いつつ、かといってユダのように死ぬ勇気もなく、ただのうのうと生き長らえる情けない人間の屑として、ペトロはただ時が過ぎ行くのを待つように日々を過ごしていたのであります。

再会

  ヨハネによる福音書21章1節以降に、そんなペトロがどのような形でイエスと再会し、癒されていったかが記されています。新共同訳聖書、新約の211ページです。
  おのれの罪深さに押しつぶされたペトロが、故郷に戻り、かつて漁師として働いていた湖のほとりに、宵闇に浮かぶ亡霊のように立ち尽くす様子をご想像ください。そこはイエスと最初に出会い、弟子になるように誘われた場所でもあります。
  読んでみましょう……。
  
「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れてしなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
  食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは。イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」(ヨハネによる福音書21章1−19節)

裏切り者の甘え

  イエスに3度目に「わたしを愛しているか」と問われたとき、ペトロは自分が3度イエスを裏切った記憶に押しつぶされそうになりながら、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と言うしかありませんでした。
  
「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」
  わたしはあなたを愛している。あの時も、愛していたつもりだった。けれども「愛しきる」ことができなかった。命を捨ててでも愛しきることができるほど強い人間だったらどんなによかっただろうか。しかし、自分はそんなに強い人間じゃない。自分の身が危なくなれば、裏切って逃げる。結局は自分がかわいい、自分の都合優先の、エゴイスティックな人間に過ぎない。
  しかし、それでも主よ、あなたのことを愛しているのです。あなたはわたしの愛情も、弱さもご存知のはずです……。ペトロはそういうことを言いたかったのでしょうか?
  しかし、例えばわたしだったら、ここで「愛しています」なんてとても言えません。自分が人を愛しきれる人間ではないことはイヤと言うほどわかっていますから、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはご存じです」なんて、どの面下げて言えるでしょうか。
  「愛する」という日本語をそのままここに書かれたとおりに受け取れば、「なんぼほど甘えてんのや、このペトロという奴は」と思われても仕方ないと思います。

愛せないわたし

  しかしもう少し細かく見ると、ここでイエスとペトロは2種類の「愛する」という言葉を使っています。
  1つは「アガペー」の愛、もう1つは「フィリア」の愛です。アガペーはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、自分よりも相手を生かす、聖書でもっとも尊いとされている真実の愛です。神の愛もアガペーです。フィリアは友愛とも訳され、人間同士の友情や隣人愛として用いられます。
  イエスは1回目にペトロに問うた時、「他の弟子たちよりも、わたしをアガペーで愛しているか?」と聞いているのです。これに対してペトロは「主よ、わたしの愛がフィリアであることを、あなたはご存じです」と答えています。
  2回目にイエスがペトロに問います。「あなたはアガペーでわたしを愛しているか?」。ペトロは「主よ、あなたはわたしがフィリアで愛していることを知っています」と答えます。
  3回目についにイエスはこう言います。「あなたはフィリアでわたしを愛しているのか?」。ペトロは3度目にイエスが「おまえの愛はフィリアか」と聞かれたので、悲しくなり、「主よ、あなたはすべてをご存じです!」と告白せざるを得なかったのでした。
  つまり、このイエスとペトロの会話は、ペトロがいかに自分を犠牲にしてでも人ひとり愛しきることができなかったかが、明らかにされる対話だったのでした。
  ペトロはイエスのことを大好きだったけれども、愛したとはとても言えない、ということを、ペトロ自身が改めて思い知らされた、ということなのであります。

罰であり、赦しである

  ペトロが望むことができる唯一の救いは、イエスがそんな自分を理解していてほしい、自分の弱さ、卑怯さを赦してほしい、受け入れてほしい、ということであったでしょう。そしてじっさい、イエスは確かにペトロの弱さをじゅうぶんご存知です。
  しかし、それ以上に、イエスはペトロに歩み寄ってこられます。
  それは
「わたしの羊を飼いなさい」ということと、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ということ。すなわち「イエスが愛した人びとに仕えなさい」との命令と、「イエスと同じようにこの世から裁かれ、見捨てられ、殺されるであろう」という予告であります。
  イエスは、ご自身が愛したい、愛さなければならない、面倒を見なければならないと思われた人びとについては、時に彼が生きていた時代の法律や慣習を無視してでも、自由に愛し、関係を持たれた方ですから、イエスの言動は常にスキャンダルとして人びとの注目の的であり、また法や秩序を重んじる人びとは反社会的であるとして裁きます。
そんなイエスにならうことは、必ずしもこの世の多くの人の模範として理解されるとは限りません。むしろ時代や場所によっては、反社会的というレッテルを貼られて攻撃を受けることになる可能性もあります。
  もし本当に、イエスについてゆこうとすることで、この世の友から見捨てられ、痛みを受け、殺されることになったならば……その運命から今度こそ逃げないでいるならば、ペトロはイエスと同じ苦痛と孤独を体験することで、イエスに近づくことができます。
  それは苦痛であり孤独であるがゆえに、当初は罰であるかのように感じられます。しかしその苦痛はイエスと同じものであるがゆえに、同じ道を歩もう、とのイエスからの招きであり、赦しであります。
  この苦痛を身に受けることで、ペトロは自分の罪の重荷から解放されるだけでなく、イエスと同じ道をたどることでイエスとつながる喜びを味わうことができます。
  この道以外に、ペトロが自分の後半生に意味を見出す生き方はありません。ですからペトロはイエスを裏切った人間であるにも関わらず、イエスの羊の群れに留まり、迫害で死ぬまでイエスの弟子であり続けたのであります。
  イエスは、最初にペトロを弟子にしたガリラヤ湖のほとりで、いま一度彼に新しいチャンスを与え、生きる方向性を与えたのでした。

罰であり、赦しである

  イエスが人々の模範となる人物として、多くの人に敬愛されながら亡くなっていった人物であるならば、こういうことは起こりえなかったはずです。ペトロはそのような立派でまともな人間の世界には二度と足を踏み入れることはできない人間ですから。
  しかし、イエスご自身が、人びとの間で恥をかかされ、見捨てられ、社会の逸脱者として、犯罪者とともに罰せられて死んでいった方だからこそ、人の道を踏み外したペトロの傍らにも立ってくださる方である。そのことが罪を犯した者を孤独から救い、支えるのであります。
  人を裏切らずに生きられる人はいません。人を裏切ってでも守りたいエゴがある、それが人間であります。
  イエスは、そのようなどうしようもない人間の姿をご存知です。
  イエスは決して裁きません。
  ペトロとの対話で明らかにされたように、イエスは人を愛することのできない人間の姿を明らかにされますが、それを裁いたりはしません。しかしその代わり、安易に「それでよい」と赦したりもしません。
  イエスは人間が罰を受けることを否定しません。罪を犯した者は罰を受けねばなりません。ただ、イエスは罰を受ける者と共に罰を受けてくださり、同じ刑罰を受けている犯罪人に
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃる方であります(ルカによる福音書23章43節)。
  同じ罰を受けてくださる。罰を受ける人間をも孤独にさせない。むしろ苦痛のなかで共につながっていようと招いてくださるのが、イエスのイエスたるゆえんであります。
イエスの十字架での刑罰の死は、罪の被害者の苦しみに寄り添うだけでなく、罪を犯した者にも寄り添う痛みであったということを、ペトロはイエスとの出会いから悟らされたのであります。
  イエスが自らの痛みをもって、傷ついた者も、傷つけた者も、すべての人を癒そうとされていることを覚えて、この受難節の時季を過ごしてまいりたいと思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日も生かされてここにあることを感謝します。
  浅ましくも自らのエゴのままに生きる我々の姿に気づかせてください。
  そのように生きざるを得ない我々を赦してください。
  わたしたちが生きる上で取らなければならない責任をきちんと取ることができますように、また願わくば、果たしきれない責任からわたしたちを解放してくださいますように。
  わたしたち一人ひとりの苦しみ悩みと共にいてくださる主に深く感謝しつつ、この願いばかりの貧しき祈りを、主の御名によって祈ります。
  アーメン。

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