「わたしが悪かった」

2001年3月28日(水)キリスト教学校教育同盟・全国中高研究集会・第3日目朝拝説教(グランドホテル浜松にて)

説教時間:約15分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書23章32−43節(十字架につけられる)(新共同訳・新約・p.158-159)

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

失敗した子育て

  いまは、教会の暦で「レント」(受難節)、つまり悔い改めの時期であります。
  私はここで、ひとつの罪を告白しようと思います。デリケートな感性の方は、私の人格を疑うかも知れません。
  子育てというのは、数限りない失敗と成功の連続であり、親が忘れているような失敗を、子どもの方がしっかり憶えているというような事はよくあるものだと思います。私も自分の父親に対してはそうですので。しかし私は、自分がかつてやったある失敗を忘れることができません。
  それは、私が初めて娘に対して手を上げたときのことです。
  まだ赤ん坊だった妹たち――たち、というのは、私の子どもは、上の娘と下の双子の3人姉妹なのですが――その妹たちを、その当時間もなく2歳になる上の娘が、親の前ではかわいがるようなふりをしながら、親の目が離れると、突き飛ばしたり、踏んづけたりするという時期がありました。今思えば、突然この世に現れた妹、しかも二人、親の愛情を奪うこの赤ん坊というライバルに対する嫉妬からであろうと察しがつくのですが、私たち親も疲れていて、精神的に非常に余裕をなくしていたときでした。
  一時的に離れていた私たち親が戻ってきたのに気づかずに、泣き叫ぶ妹たちを踏んづけている娘の姿を見た瞬間、私はカアッとなり、気がついたときには彼女の頬を平手で張り倒していました。
  その瞬間、娘は凍りついたように呆然と私を見つめました。
  自分に何が起こったかわからないといった様子でした。
  それから彼女は何をしたか。
  初めて娘に手を上げてしまったショックでへなへなと座りこんでしまった私に、彼女はゆっくりと近づき、ゆっくりゆっくりと手を上げて私の頬に手を当て、そして、ぐいーっと押して来ました。
  そうやって彼女は、私の頬をゆっくりと押す動作を、儀式のように何度も何度も繰り返すのでした。そのゆっくりとした不器用なスローモーションのような動作で彼女は、彼女に私がいま何をしたのかをわからせようとしているように見えました。また、私に仕返しをしたいのだが、初めておぼえたこの「頬を張る」という動作のやり方、フォームを確かめているようにも見えました。
  私は、人間はこうやって暴力と復讐を学んでゆくのではないか。私は彼女にとって新しい暴力を教えてしまったのではないか。そう思うと私は、自分がやったことにもかかわらず、恐ろしさに体が震えました。
  いま、彼女は3歳半になり、今は私とはとても仲のいい親子です。彼女は母親どうしの友人たちの間でも近所でも有名なパパっ子です。彼女の心の傷は無意識の中にしまいこまれ、今はただ彼女の忘却だけが、今のところは私を赦してくれているように見えます。しかし、いつか彼女が成長の壁にぶつかるころ、また彼女が人の親になったとき、私が教えてしまった暴力がどのように再び姿を現すかはわかりません。

悪いのは大人だ

  最近、世の中では、「自己中心的な子が増えた」「最近の子は甘え過ぎだ」「我慢が足りなすぎる」「道徳が乱れている」……そういった言葉がよく聞かれます。
  しかしそれでは、「子どもが悪くなった」という声はよく聞く半面、そんな事を子どもに言えるような大人はどれだけいるのか? 道徳的に乱れていない大人、自己中心的でもなく、甘えることなく、我慢強い、責任感にあふれた大人が、どこにどれだけたくさん見つけることができるか、私は疑問に思う時があります。
  ある日、高校2年生の聖書科の授業で「十戒」を取り上げ、「殺してはならない」という戒律について、生徒たちと考える機会がありました。
  私は、生徒たちと一緒に「なぜ人を殺してはならないか」という問いを立てて、一緒に考えようとしました。その際、この愚問が、昨今改めて社会問題になっていること、またその背景として、「今の日本では君たちくらいの年齢層の人たちによる犯罪が特に注目される傾向があるようだ」ということも彼らに話しました。
  すると、ある生徒がすかさず応答してくれました。
  「先生、大人のほうがずっと悪いですよ」。
  それに続いて次々に生徒たちが発言しました。
  「大人の方がめちゃくちゃ悪いですよ。大人の犯罪のほうがはるかに多いじゃないですか」
  「悪い大人を見て育ったら、子どもが悪くなるのは当たり前じゃないですか」などなど……。
  彼らの発言は簡潔明瞭で、確信に満ちていました。すました顔で「そんな当たり前の事も先生知らんのか」とでも言いたげでした。私も彼らの言い分が間違っているとは思えませんでした。
  大人が今までやって来た殺戮をよそに、「なぜ人を殺してはいけないか?」はないだろう。「なぜ人を殺すのか?」と問われなければならないのは、大人社会のほうではないのか、と。
  多くの日本人の大人のモラルは語るに落ちます。大人の多くは、自分の言動について「大人だから許される」と思っているようですが、「子どもにとっては、彼らの目に入る大人の行動が、彼らの行動のモデルとなりうる」ということを忘れがちです。
  モラルの低下も、いじめも差別も暴力もポルノも戦争も、目的意識を見失って惰性で生きる生き方も、人に迷惑をかけなければ何をやってもいいんだと言わんばかりの生き方も、責任を取らされないために決してあやまらない、あるいは逆に安易に本心ではなくやたらとあやまる生き方も、みんな子どもに見えるところで大人が毎日やっていることです。そんな生き方でも生きていけるんだよ、と実例つきで教えているのは、大人です。
  それに加えて、携帯、ゲーム、音楽、マンガ、コンビニで買い放題のポルノ……子どもに媚びて、子どもにお金を使わせて何とか成り立っている、文字通り子供だましで何とか成り立っている経済もある社会。
  その大人が、子どもの状態を憂えて修正しようと試みるなどというのは、茶番ではないか……。

「わたしが悪かった」

  さて、キリストの受難、十字架の出来事とは、神学的に言えば、人間の創り主である神が、ご自分がこの世に生んだ子である人間の罪を、子なる神キリストとなって身代わりに負い、木に打ちつけられたという出来事です。三位一体の考えに従えば、キリストも神でありますから、いわばそれは、人間を造った神自らが、人間のために十字架に打ちつけられた出来事です。とすれば、それは我が子の罪を自らの罪として引き受け、自らを処罰する親の姿に等しいとも言うことができるでしょう。
  「製造物責任法」というものが世の中にはありますが、まさにこれは人間を造った張本人である神が、欠陥品・不良品である人間を創造した責任を自ら引き受け、自ら罰を受けているのであります。
  聖書の物語によれば、神は一度人類をその悪のために地上からぬぐい去っています。有名なノアの箱舟と洪水の物語です。しかし洪水の後、神は「もう二度とこのような形で生き物をことごとく打つことはしない」と約束されました。それ以来、天罰というものはありません。それどころか、人間を罰するかわりに自らを罰するという方法で人間の罪を清算しようとする神の姿が、聖書には描かれています。
  「君たちは自分が何をしているのかわかっていない。君たち人間がこんなに悪くなったのは、君たちを造ったこのわたしの責任だ……」と、もっとも悔い改められておられるのは実は神ご自身なのかも知れません。
  神が人間に対してそこまでなされたのに、自らを処刑するほどに、自らを責めておられるのに、人間の大人が、自分たちがその養育と教育をゆだねられているはずの子どもたちの罪を、一方的に責めることができるでしょうか。
  「君たち子どもを悪くしたのは、実は君たちを育てているはずの私たち大人なのかも知れない」と、悔い改めることなしに済ますのは欺瞞ではないでしょうか。
  親でも教師でも、大人は子どもになかなか謝りません。しかし、大人が自らの悪さ・弱さ、自らの破れ・矛盾を認めて謝罪し、悔いて、改めて生きてゆこうとする姿を、子どもに見せてもいいのではないかと私は思います。
  意識的にであれ、無意識的にであれ、多くの子どもは「大人は悪い」ということを知っています。大人の悪さを自ら認めることで大人は、硬直した居丈高な態度をやめることができ、子どもに原因を求めたり、子どもを責めようとする自分のすさんだ気持ちからも解放され、自由になれるかも知れません。ひょっとしたら、そうすることで子どもたちとの関係を新しく築き直すきっかけを手に入れることができるかも知れません。
  子どもを変えるためには、まずは大人が自らの十字架を背負い、大人自身が生まれ変わらなければならないのではないでしょうか。
  キリストがまずご自身の十字架を背負われた。だから我々も自分の欠けを自分で負おう。しかしキリストが再び起こされたのだから、私たちも再起して、新しい自分に生まれ変わってやりなおすことができる。まして若い君たちについては言うまでもないじゃないか、と子どもたちに語る者でありたい。そして共に生き、共に学んでゆきたい。そのような希望を持っていこうと願うものであります。

祈り

  終わりにお祈りをさせていただきます。
  日々私たちを生かしてくださっている神さま。
  学校の中で、また学校の間で、このようにして新たな出会いを用意してくださっていることに、心から感謝いたします。
  どうか私たちに悔いる力、赦す力、改める力を備えてください。
  そして、私たち人間ひとりひとりの間を、生きてゆくことの喜びで満たしてください。
  この短い、貧しい祈りを、イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

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