「わたしが悪かったU:
   責を負う神、自罰する神」

2001年4月1日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教
(改訂版:じっさいに説教されたものに手を加えています)

説教時間:約25分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:コリントの信徒への手紙T 1章18−25節(神の愚かさ、神の弱さ)(新共同訳・新約・p.300)

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
  賢い者の賢さを意味のないものにする。」
 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

自責の杖

  今から121年前、1880年3月、創立5年目を迎えた同志社で、最初の学園紛争が起こりました。
  学校運営のための募金運動、またキリスト教伝道のために日本各地を飛び回っていた校長・新島襄の留守中に、教師会は、学力の違いから分かれていた二つのクラスを合併させることを決定しました。これに上級生が反発し、学校側の姿勢を問い質し、京都に帰った新島からも説明がなされましたが納得せず、ついには授業をボイコット、ストライキに突入しました。
  新島はいったんは教師会の席で、校則にしたがって一週間の謹慎処分を下しましたが、途中で処分を解除しました。そして、1880年4月13日の朝の全校礼拝において彼は、今回の生徒の集団欠席にいたる紛争は、生徒の罪でも幹事の責任でもなく、自らの落ち度である、と語りました。
  それは「校長たるの徳の欠けたるためである。されば、彼らの過ちは我が不行き届きと不徳の結果である。されば如何でこれを罰することができよう。されど、同志社の規則は厳然たるものである。よって、自ら校長を罰し、生徒に代わって学校の規則の重んずべき事を知らしむべき」。
  そう言って、彼は壇上に持ってきた杖で、自らの左拳を何度も、杖が折れるほど打ち続けたと言います。
  この新島の突飛な行動に対し、当時の同志社の教師、宣教師たちの多くは感心しなかったようです。中には怒って礼拝堂の席を立った者もいたと言います。他の多くの教師たちにとって、新島が処分を撤回し、自らを罰した行為は、かえって学園の秩序を混乱させ、生徒の指導上からも愚かな行為であるかのように見えたのでした。
  しかし、この「自責の杖」事件は、学生たちに衝撃を与え、新島襄の人となり、教育姿勢を示す出来事として、後世にまで語り継がれてきました。
  この新島の行動が、いかに彼のキリスト教信仰に裏打ちされたものであったかは、明らかであります。その時、彼の心にあったのは、他ならぬイエス・キリストが人間の罪のために自らの命を捨てた、その出来事であったことは間違いありません。新島は自らを罰することによって、学生たちへの愛と赦しを身をもって示そうとしたのであります。

責を負う神

  新島襄のこの行為は、ある面白い視点を私たちに提供してくれます。彼の行動は、彼が、イエスの十字架について、『神が自責の念を感じておられる。神は人間たちの過ちを自らの責任とし、自らが罰を受ける事で責任を果たそうとしておられるのだ』と理解していたことを示しています。この「神の自責・自罰」という考え方は、私たちが普段イエスの十字架の意義について語る場合とは少し異なるユニークなものと言えるでしょう。
  私たちがイエスの十字架について話すとき、よく「イエスは私たちの身代わりのいけにえとして神の裁きを受けられ、私たちの罪の代価を支払ってくださった」という言い方がされたり、あるいは、「キリストの死は、私たちを買い戻すためにサタンに支払われた代償である」と説明されることもあります。
  他にもいろいろな贖罪論が唱えられてきましたが、いずれにせよ「キリスト自身は全く罪のない存在であられたにもかかわらず……」という点では一致しております。これには、パウロがコリントの信徒への手紙Uで、「罪の何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Uコリント5章21節)と記していることなどが、影響しているのでしょう。
  しかし、新島が学生たちの問題行動に対して自らを罰した時、「校長である自分には実は罪がないのだが、あえて罪ある学生と同じ地平に立って……」というような理屈が彼の頭にあったとは、私には思えないのであります。
  むしろ、あふれんばかりの学生たちへの愛情から、そして、自分が責任を持っているはずの学校で学生が問題行動を起こすのは、ひとえに責任者たる自分の罪であると、じっさい心底から感じていたのではないかと思います。
  問題の責任をあいまいにはできない、誰かが責を負わねばならぬ、しかし学生には責を問うよりも、自ら悔い改めて、良心に立ち返って欲しい。そのような願いを込めての自罰であったろう。自らを罰する事で学生たちへの愛と赦しを示そうとしたのであろうと思うのであります。
  三位一体の立場に立てば、キリストが十字架で無惨な死をとげるということは、すなわち神ご自身が自らを十字架に釘付けにすることだ、との考えが成り立ちます。なぜ、神が人間の前で、そのような酷いやり方で自らを処罰し、あえて恥をさらされるのか。
  それは、神ご自身がこの世に生み出し、我が子のように愛し育てたはずの人間たちが、あまりにも愚かで悪に満ちているこの状況を見て、人間をこのように造ってしまったご自身を責めるあまりに、ご自身の血を流されたのである、とも考えられるのであり、新島襄が、自らの学校創立者としての意識を通して、そのような見方に至っていた可能性があるのであります。

二度と罰さない

  旧約聖書によれば、神はすでに一度、人間を罰してこの世からぬぐい去ったことがあると記されています。有名なノアの箱舟と洪水の物語です。しかし、その物語の結末には、「もう二度とこのような形で地上を打つことはしない」と神が告白したと書かれています。
  人間をその罪の故に地上からぬぐい去るという方法は、根本的な解決にはなりませんでした。自ら愛し、生み育てた人間をこの世から抹殺したところで、神ご自身の中にも残ったのは悔いだけであったのかも知れません。
  だから、神は「もう二度とこんな形で、人間を罰することはやめよう」と決意されたわけでしょう。ですからそれ以後、天罰はありえない、ということになります。ノアの物語の考えに従えば、天変地異でどんなに人の命が失われたとしても、それは神のなさったことではありません。
  しかしその後、人間はよくなったでしょうか?
  人間の罪の状況は相変わらずでした。現に生き残ったノアが洪水の後にとった行動は、これはあとで創世記の9章以降を読んでいただければわかりますが、アルコールに呑まれた親父の子どもたちへの理不尽で横暴な態度でありますし、その結果としてノアの子孫の民族は、ノアのそれぞれの息子の系統に従って互いに対立しあう関係へと陥ってゆきました。(創世記9章18節以降参照)

痛みによる超越

  天罰というものが二度とありえない以上、人間は野放しです。
  天罰のように見えた事件は単なる偶然であって、じっさいには極悪人が大笑いしながら長生きし、貧しく小さくされた者が屈辱と孤独の中で死んでゆくこともたいへん多い。どんな殺戮が起こっても、どんな略奪が起こっても、どんな災害や差別や不平等が起こっても、神は直接に手を下さず、沈黙しておられます。この沈黙ゆえに、信仰を失う者も多くいます。
  神は人間に、自由な自らの意志で、罪ではなく愛を選び取ることを望んでおられるのでしょうか? ロボットのように、ファシズムやナショナリズムのように、命令や強制で神への忠誠や奉仕をしてほしくはない、と。人間が自分の意志で神を愛し、自分の本心から人を愛してくれることを、神は望んでおられるのでしょうか? もしそうであるなら、神はあまりに楽観的過ぎます。
  たとえば、我々の住む一般社会では、確かにタテマエとしては民主主義が最良の政治形態だと言われてはいるけれども、ホンネの部分で「民主主義ではまとまる話もまとまらない」と思っている人は多いはずです。衆議独裁、しもじもの愚かな大衆には好き勝手言わせておくが、最終的に決める指導者は必要だ、そういうリーダーシップがないと、世の中混乱するばかりだ、とみんな心の片隅のどこかで思っている。ですから「すべての人が一人一人、自発的な自由意志にしたがって愛と奉仕に生きる道を選び取ってほしい」というのは、確かにそうなってくれれば素晴らしいには違いありませんが、単なる理想論に過ぎないと言われるのが関の山。それは、悪い意味での理想主義であります。
  そんな事を本気で人間に期待しているとしたら、神は甘い。そんな神さまは愚かな神さまです。
  しかも、神はさらに、人間に対する罰を身代わりに負って、自分を罰してみせる。人間には罪を一切問わない……。そんな事でいいでしょうか? そんな事で人間を変えることが本当にできるでしょうか?
  それは、人間社会の常識的な教育的配慮から見れば、ナンセンスです。先に紹介した新島襄、「自責の杖」のエピソードにおいて言えば、新島の行ないを愚かと見なして、礼拝堂を退席した教師たちの感覚のほうが、ある意味正常であったでしょう。
  しかし、この異常な行為、愚かとしか言い様の無い行為は、不思議に胸を打ちます。合理的にどう考えても、そんな事で人が指導できるわけがない。そんな事で人を変えることができるわけが無い。そう思わざるを得ないこの自罰的な行為が、心を揺るがすように感じられるのはなぜなのでしょうか。

あなたは悪くない

  人間には生まれながらに罪がある、と言うならば、人間は欠陥商品、失敗作であります。
  それは人間が自由意志を持っているからであり、人間は自らの過ちで罪への道を選んだのだと言っても、そういう自由を人間に与えたのは神であり、その事自体はやはり神の失敗だろうと言う人もいます。
  しかし、この失敗の責任を取られるかのように、神は自らを十字架に打ちつけられました。「君たち人間をそんな風に造ったわたしが悪かった」と、神は自分を罰せられます。この世でもっとも深く悔い改めておられるのは誰か? それは神かも知れません。
  この神の痛みを、感じ取ることができるのは、自らも生きることに「痛み」を抱いている人です。
  「こんな私なんかさっさと死んでしまえ」「こんな私なんて、生きていても仕方ない」と本気で思ったことが一度でもある人なら、
  『ちがう。あなたは悪くない。あなたをこの世に生んだわたしが悪いのだ』
  と自らを木に打ちつけて処罰し、自ら死をもって責任を引き受けようとされる神が、どれだけ人間にたいして心を痛めておられるかを推し量り、受けとめることは可能なはずです。
  唯一の神がご自身を痛めつけられる。人間の知恵から見れば、実に愚かです。そんな宗教は他に聞いた事がありません。
  しかし、この世に生きていて苦しみの多い人、小さくされてしまった人ほど、この神の抱いておられる痛みは感じ取ることができるはずであり、また応答する事ができるはずなのであります。
  その応答は、「主が私のために死んでくださった」「私たちはすでに赦された」と手放しで喜ぶようなものでしょうか? 自分のために代わって苦しむ方の痛みを本当に感じる者は、その痛みにいま一度立ち返り、自らを重ねてゆこうとする応答しかできないはずだと思うのですが、いかがでしょうか。

祈り

  私たちが今日も生きることを赦してくださっている神さま。
  今朝もこうして多くの方と共に同じ場所で礼拝を献げる事ができている恵みを感謝いたします。
  このレントの時期、あなたの十字架における痛みを推し量り、そこまであなたを追い込んだ私たちの問題性を、私たち自身で気付くことができますように。
  そして自らの問題に気付きつつ、互いに赦し合い、和解し合う私たちへと、どうか導いてくださいますように、切に祈ります。
  この貧しき祈りを、イエス・キリストの名によってお献げします。
  アーメン。

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