討ち死にのカミか、平和の神の子か

2005年8月7日(日)日本キリスト教団 香里ケ丘教会 平和聖日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書5章9−11節(新共同訳)

  平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

平和な礼拝

  わたしにとっての平和な宗教のイメージのもとになっている姿、いわば原風景となっているもののひとつに、イスラームの礼拝があります。
  イスラームには教会籍という考え方がなく、世界中のムスリム(イスラーム信徒)は、基本的には乾いた清潔な場所であればどこで礼拝してもよい、ということになっています。もしモスクがある土地であれば、礼拝の時間に合わせて今自分がいる場所にいちばん近いモスクに行って礼拝をすればよいわけです。
  ですから彼らは、見ず知らずの同信の友と、横並びになって、平等に神の前に座るということを常々やっています。
  一日5回礼拝の時間がありますが、きっかりと何時何分からいっせいに始めるというものでもありません。何時から何時まで、という具合に、幅のある時間帯の間に、そのモスクに同じタイミングで入ってきた者どうしが、互いに暗黙の了解で横並びになり、そしてその横並びの列の中で、誰ということもなく誰かがリーダーになり、そのリーダーに従って一列が声を合わせて、自然な形で礼拝が始まります。
  1回の礼拝は15分くらいで、モスクのなかでは、入れ替わり立ち代わり、その時の人数によって長かったり短かったりするような横の列が、できあがっては解散してゆく、そんな風景が見られます。
  つまり、神さまと自分との平和という縦の関係と、隣人と自分との平和という横の関係が、礼拝のなかで視覚的にも確認されるようになっており、しかもそれが、どこの人間であるということと関係なく、その都度その都度で毎回違った人間同士で形づくられる列で確認されます。
  一日5回と申しましたが、夜明け前の礼拝は家族との礼拝、朝、昼、夕の礼拝は、職場や出張先や買い物先で出会う人びととの礼拝、そして夜の礼拝は、たとえば住んでいる地域のモスクでするのでしたら近所の人たちとの礼拝、家でするのでしたら再び家族との礼拝、という具合に、その都度、相手を変えて、神と人とのつながりを確認しあいます。
  そしてひととおりの礼拝が終わると、互いににこやかに挨拶をし合い、そしてそれぞれに再び散ってゆきます。
  そのときの挨拶のことばは、たとえよく知っている人間どうしであったとしても、あるいは出かけた先での初対面の人であったとしても、信徒どうしの挨拶は同じ、「アッサラーム・アライクム」(あなたに神さまの平和がありますように)です。先に相手にそう言われると、返事をするほうは「ム・アライクム・サラーム」(あなたにこそ神さまの平和がありますように)と返します。これは、礼拝のあとの挨拶に限らず、日常の相手との「こんにちは」の場面でも、あるいは手紙の書き出しでも、いつも同じです。「あなたに神さまの平和がありますように」。
  わたしたちのキリスト教会でも、礼拝のなかで「平和の挨拶」というものを組み込んでいる場所がありますね。礼拝の中、あるいは礼拝の後で、その場で互いに「主の平和」と声をかけあう、あるいは「主の平和がありますように」と声をかけあう。
  あれは、最初は気恥ずかしいけれども、慣れればやらないよりはやったほうがいい習慣なのかも知れません。「あなたに主の平和がありますように」、「いえ、あなたにこそ主の平和がありますように」と。

わたし「たち」の平和

  わたしたちクリスチャンが「平和」ということを考えるとき、ともすれば、個人的な平和あるいは平安を守ることばかりに心を砕きがちです。
  神さまと自分との関係のなかで、神さまに祈りをささげ、神さまの愛を感じ、そして平安な精神状態を神さまに与えていただくこと。
  そのこと自体は大切なことです。
  しかし、わたしたちは、わたくし個人の平和、わたくしひとりの平安を得ることは得意であったりするけれども、わたくしをも含めた共同の平和を達成することは、あまり得意でなかったりします。
  じっさいのところ、比較的、個人の平和、わたくしひとりの平安というものは簡単に手に入るのではないでしょうか。
  人とぶつかれば必ず緊張関係が発生する人は、人といっしょにいなかったらいいわけです。ひとりの時間を持つようにすれば、あとは自分の心持ち次第で平安になったり、平安にならなかったりします。人間同士の関係でわずらわしいことばかり抱える人は、人との関わりを忘れることができるような、ひとりの場所へ逃げ込むことで、平和な状態を一時的に手に入れることができます。
  しかし、人と接した状態で平和を実現することは、本当に大変なことです。人はそれぞれ違う個性を持っていますから、自分との違いが大きいほど気を遣いますし、自分だけ気を遣って相手が好き勝手やっているように見えると、不公平な気がして腹が立ったりする場合もあります。
  また、いっしょにいてもいなくても、人と自分を比べて、自らの心の平安をかき乱してしまう場合もあります。「あの人は恵まれているのに、わたしは恵まれていない。どうしてなんだろう。神さまは不公平だ。教会は不公平だ」。そういう風に考え始めると、もう神の愛への信頼も何もなくなってしまって、不平不満の嵐のなかに心が巻き込まれてしまって、とても平和どころではありません。自分が平和ではないし、自分の周囲の人びとにも自分の不平不満を撒き散らして、自ら平和をかき乱す原因になってしまったりする場合もあります。
  わたしたちは、どこか遠い国の平和や、世界の平和、などといった大きな、そして漠然とした、自分の生々しい日常生活とはかけ離れた領域の話なら安心して「平和、平和」と連呼できますが、振り返って自分たちの身近な領域に目を転じてみると、たとえ日々接する人間関係の中においてさえも、本当の心の底から平和を分かち合うことさえも難しいというのが私たちの実態ではないでしょうか。

平和を作り出す神の子

  そう思うと、本日お読みしました聖書の「平和を実現する人々は幸いである」というマタイによる福音書の言葉も、わたしにはこういうニュアンスに響いてきます。すなわち……
  
「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)
  ……なぜなら、そんな人びとは、たいへん希少価値だからだ、と。
  そんな風に読めるような気がしてならないのです。
  前後関係から読み直しても、この言葉が収められている「山上の説教」の始まりの部分、
マタイによる福音書の5章の最初から読んでみても、「幸いである」と言われている人々、すなわち、「心の貧しい人々」(3節)「悲しむ人々」(4節)「柔和な人々」(5節)「義に飢え渇く人々」(6節)「憐れみ深い人々」(7節)「心の清い人々」(8節)「平和を実現する人々」(9節)、そして「義のために迫害される人々」(10節)というのは、皆、世の中の少数派であったり、あるいは片隅に追いやられているような目立たない人であったりするのではないでしょうか。
  世の中のどこに、本当の意味で「心の貧しい、へりくだった人」がいるでしょうか。世の中のどこに、本当の意味で「義に飢え乾く人」がいるでしょうか。本当の意味で「憐れみ深い人」、本当の「心の清い人」など、どこに行けば見つかるでしょうか。
  そんな人はいない、
「正しい者はいない。一人もいない」ローマの信徒への手紙(3章10節)でパウロは言い切りましたが、本当にこの世に一人もいないかどうかはともかく、「義なる人」と呼ばれるにふさわしい人びとが少数派であることは間違いないでしょうね。
  人から顧みられることの少ない、顕彰されるなどもってのほか、このようなごくごく数少ない人たちこそ、神を見、神の子と呼ばれ、天の国をうけつぐのではないのか、とマタイによる福音書には書いてある。
  そのような文脈で読んでみると、つまり、本当の意味で「平和を作り出せる人」は、「神の子」と呼ばれるほど、世の中では珍しい存在なのだ、と読むことが出来るのであります。

いけにえの宗教

  そういえば、「現在の平和を作り出すために命をささげた人を、カミとして祀る」という宗教が、この日本にはあります。
  「追悼」ではありません。「参拝」つまり「礼拝」です。明治維新時の戊辰戦争以来、天皇の軍隊の兵士として死んだ者を「英霊」として崇拝対象とする、「国家神道」という宗教です。
  繰り返して言いますが、「追悼」ではありません。
  「追悼」と言うのなら、兵士であろうがなかろうが、これまでの戦争で亡くなった一般人の戦没者も全て含めて、その死を悼み、死後の魂の平安を祈るのが追悼というものでしょう。
  しかし、この「国家神道」という宗教は、一般人の戦没者は相手にしていません。兵隊だけを崇拝の対象とします。
  また、同じ日本人でも天皇にたてついた者は祀りません。一番古い英霊は明治維新のときの戊辰戦争で死んだ西軍、つまり薩摩・長州を中心勢力とする西の軍隊の兵士たちですが、たとえ日本人であったとしても天皇の軍隊と闘った幕府側についた武士たちは排除されています。
  ですから、それは日本人全体のものだとも言えません。それは「日本のため」あるいは「日本人のために」死んだ人々を祀っているのではなく、「天皇のために」死んだと見なされる人だけを祀ろうとする宗教なのであります。
  そして、その宗教の中心施設が、宗教法人靖国神社で、毎年この季節になると、政治家が公式参拝を繰り返し、政治と宗教の癒着ぶりが露わになるわけです。
  戦争を遂行し、その結果として命を失った者をカミとして讃美し、礼拝するこの国家神道、いわば「戦争宗教」と言うことができるでしょう。この戦争宗教は、現在でも、政治家を含めた一部の人々によって熱心に続けられております。
  戦争遂行者をカミとして讃美・礼拝するこの戦争宗教を、「現在の平和があるのは、この英霊となった方々のおかげだ」と説明する人がいます。本当にそうでしょうか。
  もしその理屈が本当なら、「私たちが平和を手に入れるには、戦争を実際に行なって、たくさんの兵士が死ぬことが必要だ」と言っているのと同じことになります。
  なぜ、平和を作り出すために兵士が死ななければならないのでしょうか。それは平和と言えるのでしょうか。それは平和状態ではなく、単純に戦争状態でしかないのではないでしょうか。
  「大量の戦死者がいるから、今の平和がある」。それが正しいのなら、その理屈をひっくり返せば、「平和のためには戦死者が必要だ」ということになります。これは単純に論理としておかしいのではないでしょうか。
  むしろ、「今の平和は、先の戦争で死んでくださった方々のおかげだ」という甘い言葉で、遺族の感情を取り込もうとするようなマインドコントロールの仕方のほうが、よほど危険なのではないでしょうか。

信じ合い、支え合う仲間に

  わたしたちの信じているキリスト教は、このような戦争宗教とは、全く相容れないものではないかと私は考えます。
  私たちの信仰は、
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)と言う言葉を信じる信仰です。
  「戦争を実行した人々は、英霊である」と言う言葉を信じる信仰とは、全く異なる立場に立つものです。
  私は、ひとりひとりの兵士にも責任があるとか、亡くなった兵士の方々の死に価値はないとか、そういうことをここで今言おうとしているのではありません。
  ただ、ひとりひとりの兵士の死を神格化したり、美化したりすることによって、戦争によって死ぬことに何か大切な価値があるかのように人に思わせて、国民に戦争を肯定するように仕向けてきた宗教が、今もなお存続している。そのことが危険だ、と申し上げたいのであります。
  昨今の政治や教育の事情を見ておりますと、このままで行くと、国家による武力行使に反対する者が圧倒的少数派になる時代は間近いのではないか、という危機感を抱かざるをえません。
  戦争の実行者を讃美するのではなく、まさに平和そのものを作り出そうと努力する者がこの世の中で希少価値になり、
「平和を実現する人は……神の子と呼ばれる」(9節)という言葉を信じる者たちが、まさに神さまへの「義のために迫害される人々」(10節)となってしまい、神さまのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(11節)ようになってしまう時代が来るのは間近いような気がいたします。
  そのような状況下でも、私たちは、「平和を実現するために努力している私たちは、幸いです」と言い続けることができるでしょうか。
  わたしたちは、自分ひとりの平安で精一杯、ごくごく小さな身の回りの領域で平和を実現することさえもおぼつかないような、弱く、心の狭い、頼りない存在です。
  しかし、願わくば、平和を実現しようとするだけでも迫害を受けるような時代にこの先なってしまったとしても、その迫害に対して、「(聖書に書いてあるとおり)迫害を受けている私たちは幸いです」と言って、少しでも平和を作り出す仕事が実行できるような、野太い信仰を与えてくださいと、私たちは神さまに必死に祈り求めるしかないのかも知れません。
  神さまとの縦の関係、隣人との横の関係、そのいずれにおいても真実に平和を求める心とわざを、追い求めつづける信仰を手放さないように、私たちは共に励まし合いたい。
  私たちはいつもいつも、「(わたしよりも)あなたに神の平和がありますように」と声を掛け合って、祈り合えるような仲間でなければならないのではないでしょうか。
  イスラームの人びとは、「アッサラーム・アライクム」とアラビア語で声をかけあいますが、私たちは日本語でもじゅうぶんでしょう。「あなたに平和がありますように」。「いや、あなたにこそ平和がありますように」と声をかけあえるような仲間でありたいものです。
  そして、願わくば、教会の外に出て、教会とは関わりのない人びとと会ったときにも、心のなかで「あなたとわたしの間に平和がありますように」と声をかけ、祈りを念じつつ生きてゆく。そのような者でありたいものです。
  お祈りいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  あなたによって今日も生かされていることを感謝いたします。
  今日もこうして、わたしたちが集い、共に礼拝をささげることができます恵みを感謝いたします。
  ここに集うわたしたちに、あなたの平和と平安と満たしてください。
  わたしたちが、あなたの平和へのご意志を裏切って、他者を傷つけたり、他者に圧力をかけたり、他者との平和を破っているとするならば、その罪にどうか自ら気づく力を与えてください。
  わたしたちが、常に悔い改め、互いに愛し、配慮する者となれますように、どうか神さまわたしたちを強めてください。
  わたしたちが、自分の心の中に平和を作り出し、隣人と平和に暮らす成熟した心を手に入れ、さらには、ささやかではあったとしても、この社会に平和を広げるための業をなすことができますように、どうか、このわたしたちを支え導いてください。
  天にはあなたの栄光が満ち、地にはあなたの平和が満ちますように。
  この祈りを、われらの主イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
  アーメン。

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