羊飼いのみなさんへ

2005年10月16日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区 新人教師研修会 閉会礼拝奨励

説教時間:約15分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書10章11−15節(新共同訳)

  わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人たちは、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

「大草原の小さな家」

  私は、ここに集まっているみなさんは、ひとりひとりみな「羊飼い」だと思っています。みなさんは羊飼いです。
  昔、『大草原の小さな家』というアメリカ製のテレビドラマがありました。アメリカの西部開拓時代のお話ですが、ローラ・インガルスという少女とその家族が主人公で、毎回、何らかの事件が持ち上がるのですが、現代劇のドラマとは違い、古きよき時代ののどかな感じが漂う、いつ見ても安心できるストーリーで、最近はさすがにあまり見ることもなくなりましたが、何年か前までは、何度もNHKで再放送されていたドラマです。
  このドラマの中で、ときどき教会の場面が出てきます。そして、たいていその教会の場面は、日曜日の礼拝の場面ではなくて、学校として使われている場面で、主人公の少女がお勉強をしていたり、クラスメートとケンカをしていたりするわけです。
  つまり開拓時代のアメリカでは、教会が学校の役割を果たしていたわけです。いや、それだけではなく、教会が村や町の公会堂・集会所としての機能も果たしていたり、時には裁判所でもあったわけです。
  教会の牧師は、小さな村の中心で、もちろん日曜日の朝には牧師として礼拝の説教もしたのでしょうが、それ以外の日には、ある時は教師として子どもたちを教え、ある時は村の中で起こったトラブルの相談役になったり、家庭内での悩み事のカウンセラーとしての役割も果たしていたわけです。

日本で牧師の仕事をしているのは……

  『学校崩壊』という本が話題になった時期がありました。この本が出版されたのは、いまから9年前です。この本の中に、現在の日本の学校の先生は、かつてのアメリカの牧師の役割をしているのではないか、という文章がありました。
  日本では、残念ながら教会の牧師さんは、そこまで地域に根づいて仕事ができている人は珍しいですようが、あの『大草原の小さな家』のような時代にアメリカ各地の町や村で牧師が果たしていた役割を、いま日本で果たしているのは、学校の先生だという話に、私は「なるほどな」と思ったわけです。
  日本の学校の先生は、生徒の勉強を教えるだけではなく、生活のしかた、集団生活のルール全般までしつけていかなければいけません。加えて、生徒の家庭に問題が起こった場合には、どこまで踏み込んでいいのか悩みつつも、家庭内のことにまで心をめぐらせながら相談にのってゆかなくてはならない場面も出てくるでしょう。生徒どうしで問題が起こったときには、個々人の間での問題に留まらず、家庭どうしの対立に発展する場合もありますから、そのようなもめ事につきあってゆかなければならないケースも出てきます。
  加えて、私たちキリスト教学校の教師は、公立学校の教師とは違い、礼拝において、人間を超えた見えないものを見つめることも、指し示してゆかないといけません。
  もちろん、クリスチャンの教師ばかりではありません。人間をつつむ見えない愛の存在が、自分自身もよくわからない、ということもあるでしょう。しかし、少なくとも、子どもたちの前では、「あなたは、無条件に愛されるべき、かけがえのない人間なのだ」というメッセージを持っている宗教が、この学校の根本理念として存在しているのだ、ということだけは、知らせてゆかねばならない責任があるのではないかと思います。
  それらのすべての意味をこめて、キリスト教学校の教師は、ひとりひとりが、日本で牧師のような役割を果たしている存在なのだ、と思うのですね。
  キリスト教では、牧師のことを「羊飼い」という言葉で表現します。ですから、みなさんは、新人の羊飼いなわけです。

羊と羊のつながり

  しかし、羊飼いである私たち教師も、生徒の前を離れれば、ひとりの羊に過ぎないという面があります。
  生徒たちの前では羊飼いですが、一人の人間としては、自分自身も悩み、苦しみ、迷うことの多い羊のような存在です。
  私たちが悩み、苦しみ、迷うときに、まず頼りになるのは、他の羊たちの存在です。ひとりぼっちで悩んでいると、どうしても欝的な状態になり、悩みがさらに深まることが多くなります。同じ仕事をしていて、思いが理解し合える仲間がいることが、大きな助けになります。
  同じ学校に属している者どうしがそのような仲間になりうることももちろんありますが、私は、このようなキリスト教学校教育同盟で出会った仲間とのつながりも、大切にしていただきたいと思います。
  私事になりますが、たとえば私の場合は聖書の教員です。聖書の教員というのは、その学校の中でもたいへん数が少ないので、なかなか悩み事を共有する人がいません。そういうとき、この同盟で出会った仲間どうしで重荷を共有することが、自分にとっての大きな助けになっています。
  たとえ、その学校の中に、同じ教科の教員がたくさんいても、なかなか理解してもらいにくかったり、同じ学校だからこそ、打ち明けにくい話ということもあったりすることでしょう。そういうときに、少し離れてはいるけれども、連絡を取ろうと思えば連絡が取れる、会おうと思えば会うこともできる仲間と、こうして出会える場があるのは大切なことだと思います。

羊飼いの羊飼い

  そして、もうひとつ、わたしたちが忘れてはならないのは、キリスト教学校というのは、いつも、われわれ羊飼いを導くさらなる羊飼いを意識することが大切だということです。
つまり神を意識する集団であり、神を意識する仲間である、ということです。
  神さまは見えません。触ることもできません。存在を確かめることもできないのですから、無理に人に信じなさいということもできません。クリスチャンでさえも、時折見失いそうになるような、それが神さまというものです。
  しかし、信じる、信じないに関わらず、私たちが一人ひとり、どのような個性の持ち主であり、何をしてきた人間であろうと、全てを条件を超えて、人間は愛されるべき存在なのだ。愛されているのだ。……という考え自体は、いいものだと思うのです。
  私たち羊飼い一人ひとりが、確実に愛されている。わたしは愛されるべき存在なのだと自信を持つこと。そのことが、さらに幼い羊たちに接する上で、よい影響を与えることは言うまでもありません。
  私たちは愛されるべき存在です。子どもたちも愛されるべき存在です。共に神に愛されるべき存在として生きてゆく、ということが確かめ合えるような学校づくりを目指して、それぞれの持ち場で励んでゆきたいものです。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  2日間の研修会をお導きくださり、お守りくださったことを、心から感謝いたします。
  ここで与えられました出会い、学び、気づき、交わりを、ここにいる者それぞれの持ち場における糧として活かすことができますように、ここにいる全ての者のこれからの歩みを、どうか支え導いてくださいませ。
  主イエス・キリストの御名によって心より願います。
  アーメン。

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