高みより深みを

2009年1月9日(金) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 新年祈祷会奨励

……説教時間:約20分

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聖書:フィリピの信徒への手紙 2章1〜11節 (新共同訳・新約)

  そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる何まさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

「わかりやすさ」を越えて

 みなさん、あけましておめでとうございます。
 この新しい2009年が、私たちの信仰がよりいっそう深められ、毎日の暮らしが喜びに満ちたものでありますように、神さまの導きをいつも感じて生きていけるように、今日も祈りを共にしたいと思っています。
 昨年の新年祈祷会では、私は体調を崩して新年祈祷会をドタキャンしてしまい、S牧師には本当にご負担をおかけしてしまい、申し訳ないことをしてしまいました。今日はこうしてここでお話しすることが許されて感謝しております。S先生、昨年はごめんなさい。
 さて、2009年私は、信仰における課題としては、キリスト教における「深み」を考え、感じ取れる1年にしたいなぁと思っています。
 昨年まで、私はキリスト教をいかに「わかりやすく」伝えるかということに粉骨砕身してきました。今まで、私の説教や、私の書いた本は、よく「わかりやすい」といわれてきました。
 一般に出ているキリスト教の本や説教は、初めて触れる人には難解なものが多いです。初めてキリスト教に触れようとする人に対して、あまりに不親切で、独りよがりで、自己満足的な思い込みの披瀝みたいな話や本が多い中で、私はいつもいかに「わかりやすく」キリスト教を理解してもらうのか、ということにチャレンジし続けてきました。
 じっさい、私が遣わされている学校という伝道の現場は、キリスト教のキの字も知らない、それどころか別にキリスト教のことなんか知りたくもないし、知る必要もない、と思っている人たちに取り囲まれて、キリスト教を伝えるという場所です。ここで私は、「わかりやすく」キリスト教を伝えるということに関しては、かなり鍛えられたと思います。
 ところが、私の書いたある本(『信じる気持ち』(日本キリスト教団出版局))についての、ある書評の中で、こんな文章に出会いました。
 「『信じる』ということは、ある意味では理性を越えた『わかりにくい』ことであり、合理的な説明だけでは割り切れないものである。聖餐の有り難さを言葉で説明できないように、キリスト教のリアリティは神秘的、霊的なところにあるとわたしは思っている。〔中略〕要するに、どんなにわかりやすさで迫っても、キリスト者は(富田さんも含めて)、結局は、一般の人から見ると『わかりにくく信じ難いことを信じ、それを大切にしている』絶対少数者なのだ」(藤井創氏による『信じる気持ち』書評、『教団ジャーナル「風」』vol.20, 2007年7月25日)。
 これを読んで、私は「そういう面も確かにあるなぁ、ぼくの著作の問題点を的確に突いているなぁ」と思いました。

垂直と水平

 「信仰は理性を越えた事柄である」とか、「理性で理解できないところに真理があり、恵みがある」とかいうのは、便利な言葉です。そういってしまえば説明する必要がなくなるかのように、そう言って済ませるクリスチャンが多いように感じます。しかしこれでは伝道になりません。ノンクリスチャンは門前払いです。
 また神学者や牧師たちの中には、「信仰の超越的次元」とか「垂直志向」とかいう言葉を使いたがる人がいます。しかし、私はもともと、あまりこの「超越」とか、「垂直」とかいう言葉が好きではありません。
 「垂直」といえば、当然「水平」という言葉もあるわけですが、「水平レベル」というのは、彼らによれば、人間的な世俗的な世界のことを指します。それに対して「垂直」というのは、神と人間の関係のことで、特に神さまが人間の世界を「超越」した「高み」におられ、全ての人類の上に君臨しておられるのだ、というような意味で使うようです。
 私がこういう言葉遣いを好きになれないのは、そういう言葉を使う人たちの中には、あたかも自分自身も「超越」し、「高み」におられる神とつながって、神と一緒に超越した次元から物を見ているような(そういうのを最近では「上から目線」と言いますが)、そんな思い上がった態度をとる人が多いように感じるからです。「人間は罪深い。神の赦しなしには生きることもできない」と言いながら、自分もそのような人間のひとりであるにもかかわらず、それでも自分を神の側に置いて、他の人間に対して不遜な態度をとる人が多いのです。
 神が無限で永遠で超越したお方であるならば、有限な人間にそんな神のことなど、全て把握し、理解することなどできません。どこまで行っても、どんなに努力しても、人間は有限な存在です。有限な人間が、どんなに背伸びをしてみても、神の高みにも、神の永遠性にも達することはできません。ですから私はこれまでも、視点を人間の側に置き、たとえばイエスのことについても、「人間としてのイエス」の側面を特に強調して、説教を語り、文章を書いてきました。

「よくわからない」次元へ

 しかし近頃、キリスト教の「よくわかる部分」を「よくわかるように」語るだけではなく、キリスト教の「よくわからない部分」を語りたいという欲求が出てきました。
 というのも、先ほど紹介した書評で指摘されているとおり、私自身の信仰も、かなりの部分「わかりやすく」説明できますが、それでも言葉にはしにくい、理性ではわりきれない感情の部分が、案外自分にとっていちばん大事な部分であったりすることがあるからです。
 たとえば、バッハのマタイ受難曲を聴いていて、「本当に、この人は神の子であった」という合唱を聴くとなぜ涙が出てくるのか。また、讃美歌21の112番「イエスよ、みくににおいでになるときに、イエスよ、私を思い出してください」という讃美を歌うと、言葉に尽くせない感情の波がこみあげてくるのはなぜなのか。あるいは、ルカによる福音書の第15章11節以降、「放蕩息子」のたとえを読んでいて、放蕩のかぎりを尽くした息子が父親に受け入れられたことを読むたびに、心が揺さぶられるのはなぜなのか。それは、理屈で説明しがたい部分です。また、それを言葉で説明したからといって、聴いた人が同じ感情を共有してくれるかというと、そうとは限りません。
 「なるほど」と思うことと、「私も信じたい/信じよう」と思うことは別です。話が「わかりやすく」なったからと言って、それで信じてくれる人が増えるとは限りません。もちろん、初めての人に対して、キリスト教や教会の敷居を低くすることができますが、「信じない人」が「信じる人」になるには、やはりどこかで本人自らが何かを突破すること、あるいは何かを超越する経験があるものなのではないかなと思います。それが劇的な変化でなく、ゆっくりとした穏やかなものであったとしても、です。そんな超越的な経験を言葉によって表現できないものだろうか。そもそも言葉で表現しようとするのに無理があるものを、なんとか言葉で指し示すことはできないのか。それが課題だなと思い始めたのですね。
 説教者も執筆者も言葉で勝負します。言葉で福音を語ります。生き様によって無言のうちに語る、という人もおられるようで、たしかにそれしかないような気もするのですが、まぁ自分があまり人様にお見せできるような生き様をしているというわけでもありませんし、それから私はインターネットでの文書伝道ということもやっていますから、やはりもっぱら言葉の世界で勝負することになります。
 ですから、これからは、「言葉を越えたことを言葉で説明しようとする」ということに挑戦したいな、と思っているわけです。
 S先生のようなベテランの牧師から見れば、そんなことは当たり前だと言いたくなるようなことかもしれませんが、長い間「わかりやすさ」ばかりを追求してきた私にとっては、この、信仰の中の、言葉には尽くせない大切な部分を語るという点では、他の伝道者の方々よりも遅れをとっているかも知れないと感じています。
 あるいは、私は矛盾することを言っているのかもしれませんが、言葉を尽くした末に、やってくる沈黙のなかにこそ、神の体験を共有できるようなものなのかも知れません。まだまだ、これからが試行錯誤です。

高さより低さを

 ただし、私は、この人間の理性を超越した部分を、その「高み」において理解し、表現するというのには、やはり抵抗があります。さきほども申し上げましたように、神さまを、その「高み」において理解しようとする人は、どうも自分もいっしょに神の高みに持っていって、「あれはキリスト教ではない」とか何だとか言って人を裁こうとする傾向があるように感じてならないからです。
 本日取り上げました聖書の言葉では、
「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさい、と教えられています(フィリピの信徒への手紙2章3節)。そして、その模範は「キリスト・イエスにもみられるものです」(同5節)と記されています。
 そのあとにはこう書いてあります。
 
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をおあたえになりました」(同6−9節)。
 8節には「へりくだられた」と書いてありますし、9節には「高く上げられた」と書いてあります。このキリストが「へりくだられた」ということと「高く上げられた」ということの、どちらに力点を置くかで、クリスチャンの生き様の姿勢が変わってくるように思います。
 「へりくだられた」も、「高く上げられた」も、本当はどちらも大事なのであり、どちらもキリストを表すにはかけがえのない言葉なのですが、それでも、もっぱら「高く上げられたキリスト」をあがめ、その栄光と権威を強調する人には、自分もその栄光と権威に近い者だという勘違いを起こす危険性があるように思います。
 たとえば、一昨年の2月、刊行されたばかりの私の本に対して、日本キリスト教団総会議長は「キリストの神性を水平化している」(2007年2月1日、日本キリスト教団総会議長より教団出版局に出された『信じる気持ち』出版に対する非難文書より)と攻撃をかけてきました。しかし、なんと言われようと、キリストが人間と同じ地平に「へりくだられた」、つまり、キリスご自身が自らを「水平化」したということを忘れてはならないと思います。
 なぜなら、この聖書の箇所にも書かれてあるように、われわれ人間は、キリストと同じように「高み」に上げてもらえるようにしなさいとか、自分から「高み」に昇りなさいとは一言も言われていないからです。そうではなく、われわれ人間もキリストと同じように
「へりくだって」(3節)生きなさいと勧められているからです。
 いまフィリピの信徒への手紙を読んでいますが、この手紙で言われているパウロの主張ははっきりしています。少し飛んで、
3章10節には、キリストの「苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と記されています。同じく3章21節には「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」のは、神でありキリストだと言っています。自分で自分を聖なる存在のように見なしたり、権威のある者であるかのようにふるまったりする必要はないのです。私たちを高みにあげてくださるのは神のみであり、自分が神の側に立って裁くということは聖書では勧められていません。
 信仰的に何が正しいか、何が間違いであるか、自分が知っているかのようにふるまうこと自体が間違っています。そうではなく、キリストがへりくだって、この泥臭い人間世界の只中で、人間と同じ苦しみを、「ちょっと一日体験してみました」とかいうのではなく、ひとりの人間として徹底的に辛酸をなめつくし、そして完全に死んだ、というその姿に我々もあやかろうじゃないか。それが我々に望まれている生き方ではないのか。生きて、生きて、そして死んで、それから神が引き上げてくださることを信じるのみであって、死ぬ前から自分を自分で高みに上げているなどというのは、ちゃんちゃらおかしいのであります。

降りてゆく生き方

 神は「高み」というよりもむしろ、「低み」のなかにおられるのだ、と語った神学者がいます(パウル・ティリッヒ:1886〜1965、参照『組織神学』新教出版社)。神は、私たちの、この存在を下のほうから支えている。神は私たちの存在の根底におられるのであり、神のいらっしゃるところを象徴的に表すとき、上ではなく下を指すべきではないのか、という提案です。
 また、私は昨年いっぱいを通じて、北海道の浦河町というところにある、精神障がい者支援をしている「浦河べてるの家」から発刊されているいくつかの本にたいへん刺激を受けたのですが、そこから発信されているメッセージのなかに「降りてゆく生き方」という言葉があり、私はこの言葉をたいへん気に入ってます。
 私たちは、神の「高さ」を知るのも大事なことだと思いますが、それ以上に神をその「低さ」「深さ」において受け止めようとすることも大事なのではないかと思います。そして、そのようなクリスチャンの生き方は、人の上に立とうとするものではなく、人の下に立って仕えようとする生き方であろうとも思います。どこまでそれができるかわかりませんし、私だってそれにほど遠い生き方をしています。でも、それを神さまがお望みだということを知っていることと、それも忘れて思い上がることとは、えらい違いです。
 最後に、もう一ヶ所、聖書の記事を読んでみたいと思います。エフェソの信徒への手紙第3章18節以降です。みなさんの聖書では新約の355ページになります。
 お読みします。
 
「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソの信徒への手紙3章18−19節)
 神とキリストを、その高さのみならず、深さ、広さ、長さにおいても感じ取りなさい、と告げられています。ここに記されてあるように、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを感じ取る者でありたいと願います。
 祈りましょう。

祈り

 愛する神さま。
 2009年の年頭にあたり、こうして同じあなたにとらえられた者である教友の方がたと共に、こうして祈りをささげることができます恵みを心から感謝いたします。
 この新しい年が、和らぎに満ちたものでありますように、どうか私たちを守ってください。
 また、和らぎのない世界に生きている人と共に、恵みを分かち合う勇気をどうか私たちに与えてください。
 人間となられた神、キリストのへりくだりにあやかって、この1年も過ごさせてくださいますように、どうか私たちを導いてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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