ドキュメント

2006年2月19日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区 若手教師の「祈りの会」奨励

説教時間:約15分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書21章24−25節(新共同訳)

  これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないだろう。

古代のドキュメンテーション

  養老孟司さんの『バカの壁』という本に、「情報が変わるんじゃない。情報は変わらない。変化していくのは人間だ」という話が語られていました。だからこそ昔の人たちは、文字というものに変わらない永遠なものを想うことができたのだ、というのですね。
  なるほどなぁと思いました。
  聖書が書かれた時代というのは、ひとつの文書をひとりがサラサラ書いたり、パチパチと打ったりして手軽に文書を書いて保存したりできるような時代ではありませんでした。
  ある内容をドキュメントとして残してゆくということは、多くの人が伝承として後代に伝えるにふさわしいと判断できるものを、相談しながら、討議しながら、書き残していった、そういう慎重な作業を経て残ってきた文書の集まりがこの聖書という書物なわけです。
  そうやって自分たちの文書を、歴史をまたいで長く伝えるべき情報として書き残す。その文書は自分の死んだあとも、自分の子どもや孫が死んだあとにも残されてゆく。あるいは、いま私が手にしている文書は、私が生まれる前、わたしの親も、その親も生まれていなかった昔から伝えられてきたものだと考えながら読み、耳を傾ける。
  こういう情報に対する考え方で文書というものを残してきた人たちが、それだけの歴史の重みをもって、「ここに永遠がある」と言うのが聖書という本なわけです。

洪水のとき足りないもの

  さて、いまのわたしたちの生活は情報の洪水であふれかえっています。
  私の知り合いの牧師が話してくれたことですが、「洪水の災害のあと、まず必要なものは何か、それは水だ。飲める水だ」ということなんだそうです。
  私たちはテレビ、ラジオ、インターネット、新聞、などなどあらゆる方法、あらゆる方向から、あらゆる情報を受け取っています。
  子どもたちも、インターネットを駆使して論文やレポートらしきものを提出してきたりします。しかし、それが本当はどこから引用してきた誰のオリジナルのものなのか、果たして正しい情報なのか、あるいは書かれた当初は正しいデータであったが、今は通用しないような旧い情報なのか、情報の信頼性にいつも疑問を持たざるを得ないのが、われわれ教師の仕事上の立場でもあります。
  洪水のときには、身の回りに水があふれています。しかし、飲める水はいったいどこにあるのか……。
  同じようにわたしたちは情報の大洪水の中にいるけれども、泥水のような情報ばかりで、本当に私たちの身も心も養ってくれるような情報はないものか、と思います。

美しい水の出る泉

  聖書も人間の書いた書物である以上、書かれた当時にしか通用しないような記述もあります。特に旧約聖書のレビ記や民数記や申命記などに書かれている「律法」と呼ばれるユダヤ教の戒律などは、全くいまの私たちの生活にはあてはまらないものがたくさんあります。
  しかし、聖書の中には玉のような光を放つ言葉も、いくつか見つかると思います。それらの言葉は私たちのふだんの仕事である、子どもたちと向き合い、ふれあう仕事にもそのまま浸透してゆく言葉です。
  たとえば……
ローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
  あるいは……
コリントの信徒への手紙(T)13章4節以降「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」
  あるいは……
ヨハネの手紙(T)4章7節以降「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」
  私たちは、こういう聖書の中のあちこちに転がっている宝石のような言葉を大切にしながら、その言葉が教育現場のなかで実現するように働いていくべき存在なのではないかと思います。
  日々葛藤、連戦連敗ではありますが、そのように失敗して傷ついた心を癒す言葉も、この聖書の中にこめられていると思います。聖書というのは泥水ではない飲める水、しかも歴史のフィルターによってろ過された美しい水である、と思います。

飲める水の探し方

  聖書はなかなか通読するのは大変な本ですが、パラリパラリとページをめくってゆくもよし。それこそインターネットで、「聖書」というキーワードと自由なキーワードを打ち込めば、いろいろな場所でどのように聖書の言葉が引用されているのかが即座にわかります。そういう聖書の言葉の探り方もよしだと思います。
  その中で、泥水ではなく自分が「飲める」と思える水を見分ける嗅覚を働かせながら、検索をしてゆかれるのがよいと思います。信頼できると思える情報を見つけることを心がけながら、聖書の言葉が適切に用いられていると思われるサイトを訪ねるのは案外面白かったりするものです。
  今日は、なにか参考になるかも知れないと思って、わたしが運営しているウェブサイトの中の一部門である「三十番地ケータイ教会」というものを紹介します。これはケータイ電話からいろいろな聖書の箇所、語句などを探し出して、その場で読めるというものです。
  こんな風に、自分の状況に合わせて、聖書の言葉を探し出して、自分の心の支えや慰め、あるいは目標にしてゆく、あるいは忘れていた大切な心を思い出す助けにする、ということができるようになっています。
  また、参考にしていただければ、と思います。
  私たちはこのようにして、自分が生まれるずっと前から伝わっている人生の知恵を、今の日々の仕事や生活のなかで生かす。そういうことを理想とする学園に勤めています。
  なかなか実際の学校現場では、聖書の言葉どおりに物事を進めることができなかったり、聖書の言葉そのものを理解しようともしないし、読もうとも、知ろうともしないような人たちもいますが、それでも、少なくともここに集まって祈りを合わせている仲間においては、この聖書に書いてあるいくつもの玉のような言葉を実現させることのできる教育を目指してゆきたいと思います。
祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日ここに祈りをあわせる仲間が集められていることを心から感謝いたします。
  どうかあなたが御心によって私たち人間が伝えてきた聖書の数々の言葉を大切にし、それを少しでも実行し、生きるものとならせてください。
  イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

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