弱い者のすることこそ

2005年10月2日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区 若手教師の「祈りの会」奨励

説教時間:約18分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書10章13−16節(新共同訳)

  イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。
  「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
  はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
  そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

子どものように

  今日お読みした聖書の箇所は、よく知られているエピソードで、マルコによる福音書だけではなく、マタイによる福音書にもルカによる福音書にも書かれています。
  ただ、今日お読みしたマルコのバージョンが他の2つの福音書に書かれたものと違うのは、人びとが子どもたちをイエスのもとに連れてきたときに、弟子たちがそれを叱ったとき、イエスはこれを見て「憤った」と書いてあることです。
  イエスは、自分のところに子どもたちが来るのを、弟子たちが止めようとしたとき、腹の底から怒ったわけです。マタイもルカも、そういう人間的な感情をイエスが露わにしたことは隠していますが、おそらくもともと伝えられていた話では、イエスは感情も露わにして怒ったのでしょう。
  そしてこう言ったわけです。
  
「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコによる福音書10章14節)と。
  これに続く
15節以降「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉は、別の場面でイエスが語った言葉が、ここに接続されたのだろうという説もありますが、いずれにせよ、「神の国は子どものような者たちのものだ」ということをイエスはあちこちで話していた、ということなのでしょう。
  そして、ここで言われている「子ども」というのは、原典の言葉では幼児から12歳くらいまでの子どものことを指す言葉が使われていますが、イエスはそういう幼い子どもをとても愛していて、子どもたちの世界のなかに、神の国のモデルを見ていたのだろう、ということがわかります。

神の国の住人たち

  聖書に書かれてある「神の国」というのは、どこか特定の場所のことをさすのではなくて、「神が支配している状態」のことだと伝えられています。神の働きが、人間同士の間に染み渡っている状態のことを指しています。
  ですから、人と人が互いの愛によって結ばれ、平和と希望が満ちているとき、そこを「神の国」と呼ぶことができるわけです。
  讃美歌に
「ここも神の御国なれば」(讃美歌90番)という歌詞の歌がありますが、私たちの間に本当の信頼と愛があれば、「ここも神の国だ」と言うことができるわけです。
  そう思えば、神さまのことを早いうちから教えてもらった幼い子どもたちは、たしかに神の国の住人であるように思えます。
  幼稚園や小学校のような幼い時代に、神さまのことを教えてもらった子どもは、素直に神さまの存在を心に受け入れます。
  食べる前に「神さま、食べ物をありがとう」と感謝の祈りをし、眠る前に「神さま、今日もありがとう」と感謝の祈りをすることができる。兄弟や姉妹、友だちが怪我をした時などには、「神さま、どうか治してください」と願いの祈りをささげることもできる。
  幼い時代というのは、そうやって素直に祈るということができます。
  しかし、大人になると、細かい現実がいろいろと見えてきて、賢くなる代わりに、子どものような素直な気持ちは失いがちです。
  幼い子どもは、人間同士の二次元の人間関係を超えた、神さまの視線まで含んだ三次元の時空まで、素直に受け入れることが出来ます。しかし、大人はともすれば、二次元の人間関係のことしか目に入らないことが多いです。
  とすれば、考え方によっては、大人よりも、幼い子どものほうが、時空を見る視野は広い、と言えるかもしれません。人は大人になるにしたがって、視野が狭く、退化してゆくものなのかも知れない、と思うことがあります。

おとなになること、現実に直面すること

  わたしたちが職場でもっぱら相手にしている生徒たちは、中学生から高校生、つまり、ここでイエスが話している「子ども」よりも少し年上の人たちです。
  とはいえ、もともと「子ども」と「おとな」の境界線はハッキリしたものではないと思います。
  中学から高校、そして卒業してゆく生徒たちを見ていると、「子ども」のなかに次第に「おとな心」が芽生え、その部分がだんだんと大きくなっていって、次第に「子ども心」の部分より「おとな心」の部分のほうが、その人の心の主導権を握ってゆくようになる……そういうものではないか、と思います。そして「おとな」の中にも、まだある程度「子ども心」が残っていることも感じるのです。
  中学での授業と、高校での授業を行ったり来たりしていると、「子ども心」の柔軟な視野で神のことを捉えることができていた心が、次第に「おとな心」が大きくなるにつれ、硬直化し、視野が狭くなっていっていることを感じることがあります。
  中学生のほうが、神さまに対して心が開かれているし、宗教的なこと以外にも、夢を抱く心であったり、人をいつくしむ心を素直に持っているような気がします。
  それが高校生も高学年になるつれて、次第に神も仏もあるものかという気持ちになり、夢を描けなくなっていったり、よりエゴイスティックな人間に変わってゆくのです。
  そういうことを高校3年生の授業で話してみたことがあります。すると、生徒たちは苦笑いしながら、「先生、それは昔は夢がありましたもん。歳とってくるとだんだん現実が見えてきて、夢が描けなくなってくるんですよ」と話してくれました。
  現実が見えてくる……高校も3年生くらいになってくると、自分の能力に見合った進路などが次第に見えてきて、自分の人生にはそうたくさんの可能性が用意されているわけではないのだ、ということが見えてくるのですね。その上、その進路を確保することさえも、必死の努力なしには不可能であるとなると、あまり人のことをかまってもいられない……。それが、今の世の中で、どの子どもたちもいずれは直面する「現実」というものなのかも知れません。
  ぼくらは、そうやって「子どもが子どもでなくなってゆくプロセス」に付き合ってゆく仕事をしている、と言えるのかも知れません。
  しかし、逆に言うと、神さまや人を信じる気持ちや、夢を持ち続ける「子ども心」をどこまで残してゆけるのか、ということが、ぼくらの挑戦になるのかも知れないとも思います。

信じる力

  ぼくら大人は、子どもたちがおとなに変わってゆくプロセスを経験する上での環境のような存在だと思います。
  彼ら彼女らが成長する環境としてのぼくらが、人を疑い、未来を疑い、夢を失って、空しさのなかに埋没する人間に成り下がってしまっていたとしたら、そんな人間に触れて育った子どもたちも、何も信じるものを見つけられないままに大人になっていってしまうのではないでしょうか。
  もちろん、そんな環境に反抗する子どもも登場するでしょうが、大部分の子どもは、自分たちを取り囲んでいる大人の環境に影響されてしまうでしょう。
  生徒を取り囲む教師集団が、神を疑い、人を疑い、夢のない毎日を送るならば、そんな教師集団に育てられた生徒は、神を疑い、人を疑い、夢のない人間に育ってゆくでしょう。
  生徒を取り囲む教師集団が、神を望みを賭け、人を信頼し、夢を追い続ける人間集団であったならば、そんな教師集団に育てられた生徒は、神に思いを馳せ、人を信頼し、未来を信じることのできる人間に育っていってくれるのではないでしょうか。
  だから、わたしたちは、まず自分たち自身が、幼い子どもの姿に教えられるように、人を信頼し、夢を持ち、人間にできないことを神に素直に祈り願いながら、未来を信じる心の持ち主にならなければならないのではないかと思います。

弱い者がすることこそ

  幼い子どもは無力です。無力だからこそ信じることしかできないのですね。逆に大人が信じることをしないというのは、自分の力でなんとかしなければならない、できるはずだ、できるのが大人というものだ、と思い込んでいるからです。
  しかし、大人が本当に人生の危機に陥ったときや、壁にぶつかったとき、自分の力だけではどうしようもないということを思い知る場合があります。自分の力だけではどうしようもない、というのは、子どもと同じ無力な状態です。そんな、子どもと同じように無力な状態に陥った時には、子どものように、神や、未来や、希望を信じる気持ちが未来を開き、自分自身を救うことがあります。
  信じるというのは、弱い者のすることなのですが、本当に弱い立場に追い込まれたときには、信じることこそがその人の強さになるのです。それが信じる心の不思議なところです。
  ですから、わたしたちは自分のなかに、無力な幼い子どものときに持っていたような、無邪気に信じる心の力というものを温存しておいて、いざと言うときにはその力を発揮できるようにしておかねばならないのではないでしょうか。
  特に生徒と一緒にいるときには、子どものように信じる心を、生徒たちの前で輝かせているような教員でないといけないのではないかと思います。
  それは一人ぼっちではむずかしいことです。信じる心を持つ教師が、何人も集まって、共に祈りによって支え合うような、このような交わりがあって、初めて信じる心が強められるのではないかと思います。
  この交わりが、お互いの「信じる力」を高めあうような集まりであるように、祈りたいと思います。

祈り

  愛する天の神さま。
  この祈りの交わりを感謝します。
  あなたがこのような交わりを通して、私たちに励ましを与えてくださることを心から感謝いたします。
  どうか、私たちがそれぞれの働き場所で孤独に陥ることなく、希望を信じ続けることができるように、私たちの心をつないでください。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
  アーメン。

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