キリスト教のダブル・スタンダード

2006年10月1日(日) キリスト教学校教育同盟関西地区 若手教師祈りの会 奨励

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書5章43〜45節 (新共同訳・新約)

  「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

『デスノート』

  ぼくはあまりマンガは読まないほうだったんですが、最近はぼくの部屋にやってくる生徒たちの影響で、だんだん勧められるままに読むようになりました(もっとも本当はうちの学校では、勉強に関係ないものは持ってきてはいけないことになっているんですけどね)。今は『20世紀少年』というのを読んでいますが、少し前は『デスノート』というのを読んでいました。
  『デスノート』には、かなりハマりました。大ヒットしたマンガなので、もう説明の必要もないかも知れませんが、読んだことのない人のために一応説明しますと、「デスノート」というノートをある高校生が拾うところから物語が始まります。
  そのノートには、注意書きとして、「このノートに名前を書かれた者は死ぬ」、「死因を書かなかった場合は、40秒後に心臓麻痺で死ぬ」、「殺す相手の顔が頭に入っていないといけない」などといったことが書かれてあります。
  主人公は、「まさかそんなことはあるまい」と思って、試しにニュースを見ながら、人質を取って立てこもっている犯罪者の報道写真を見て、その犯人の名前をノートに書き込みます。すると、40秒後に本当に犯人が突然死して、人質が解放されるところが現場の実況中継で放送されます。
  ノートの効き目が本物であることを知った彼は、このノートを拾った自分は「選ばれた者」なのだ、と思うようになります。そして、世界中の犯罪者や、自分の基準から見て生きるに値しないと思う者たちを殺して、理想の社会を作り、新世界の神になろうと考えます。
  そして、世間は次第に犯罪者が何者かによって裁かれていることを知り、その裁き主を「キラ」と呼ぶようになります。そして実際に犯罪発生率は減少し、表向きは世界は平和に近づいているように見え、「キラ」を崇拝する者まで現れます。
  その一方で、「キラ」のやり方は恐怖によって世界を支配しているに過ぎず、本当の平和とは言えない、じっさい「キラ」は犯罪者だけではなく自分が邪魔だと思った者については犯罪者でなくても容赦なく殺していることから、「キラ」自身が凶悪犯罪者であるとして追いかける人びとも現れます。
  そして、追う者と追われる者の駆け引きが展開され、二重三重にも仕掛けられた嘘とトリックの面白さに、一気に12巻を読みきってしまえます。面白いことは間違いないので、もしまだ読んでない方がいらっしゃったら、ぜひ読んでみてください。

裁きを求める人びと

  ぼくはこの『デスノート』を読んでみて、考え込まされたことがありました。
  たとえ恐怖によって人びとをコントロールしているとはいえ、警察や裁判所ではなかなか逮捕も納得のいく裁きもしてくれない犯罪者を、バッサリと殺してくれる裁き主としての「キラ」は、新世界の神として崇拝されるようになります。
  やっぱり神が本当にいるのなら、こうでなくっちゃいけない。ぼくらがふだん暮らしている世界には、本当に神がいるのかどうか、疑わしく思われることばかりが起こっています。
  だいいち本当に神がいるのなら、なぜこの世に、こんなに戦争や犯罪や暴力がはびこっているのか。神が本当にいるのなら、そんな戦争や犯罪を起こしている人間をやっつけるべきだろう。ふつうの人間の手の届かないところにある悪を裁いて滅ぼす存在がいるとすれば、それこそ神と呼ばれるにふさわしいと言えるのではないだろうか、と……。
  思えば、昔から宗教というものは、そういう裁きをこの世で人間に与えたり、あるいはこの世で裁かれない者は死んだあとの世界できっと裁かれるであろう、と教えることで、この世の秩序を保とうとしてきたのではないかと思います。
  旧約聖書を読んでいても、あちこちに、悪人に対する神の裁きを待ち望んだり、罪を犯した者に裁きが下ることを警告する言葉があふれています。
  
詩編94編23節にはこんな言葉が記されてあります。
  
「彼らの悪に報い、苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。わたしたちの神、主よ、彼らを滅ぼし尽くしてください」
  ……これが、ふつうの人びとが宗教に求めるものなのではないかと思います。
  宗教というからは、なにが正義であり、何が善であるのかを、しっかりと明らかにしてほしいものだ、それができてこそ初めてまともな宗教と呼べるのだろう、と多くの人が考えるのではないかと思います。

過激なイエス

  ところが、今日お読みしましたイエスの言葉は、このような人びとが抱いている宗教への期待というものを、あっさりと裏切ります。
  イエスはここで、
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイによる福音書5章45節)と言います。
  イエスは、悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも、神から与えられる災いや恵みは同じだ、と言っているのですね(太陽が恵みとは限りません。暑い中東地方では太陽は乾燥と熱中症をもたらす災いであることも多いでしょう。そういう土地では雨は恵みであることのほうが大きいでしょうが、雨も度を越すと洪水になり、やはり災いになります。ここで「太陽だ」「雨だ」と言っているのは、災いと恵みの両方をさしているわけです)。
  これは、正義を求める人から見ると、ひどいことを言っています。人が恵まれた条件で生きるのも、災難に遭うのも、その人が善人だったからとか、悪人だったからということとは関係ない、というわけです。
  あるいは、これは当時の人びとの感覚からすれば、過激な無神論に聞こえたかもしれません。悪人が大手を振って通りを歩き、ささやかながら善行を積んでいるまじめな人間が時にひどい目に遭う。現実とはそんなものではないか。神も仏もあるものか、とでも言いたくなる。そんな現実。それが我々を取り巻く状況じゃないか、と。イエスの言ったことは神の存在や神の裁きがあって当たり前だと思っていた当時に人びとにとっては、それほどの過激さを持つ、ドライな感覚を表したものだったのかも知れません。
  マタイによる福音書は、これ以外の箇所では、悪人はその行いに応じて裁かれるのだ、ということを何度も強調しています。
  例えば、13章47節以降には、こんな言葉が書かれています。
  
「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイによる福音書13章47−50節)
  他にもマタイは、正しい人が救われ、悪い者は裁かれ、滅ぼされるのだ、ということを何度か書いています。
  これは、先ほど紹介したイエスの、「善人にも悪人にも同じように神は恵みを与える」という言葉と矛盾します。
  けれども、イエスの言っているとおりにしていたら、この世の秩序というものが保てなくなってしまうのではないかという疑問はどうしても残ってしまい、マタイが書いた他の箇所のように、善悪をきっちりと分けて、裁かれるべき悪は裁かれなければならない、ということもこの世の秩序を守るためには、必要なルールかも知れませんよね。

裁きと赦しのダブル・スタンダード

  イエスの「悪人にも善人にも同じように太陽が昇り、雨が降る」という言葉は、悪人が自分のことを悪人であると自覚し、罪悪感を抱いている場合のみ有効なのかもしれません。
  自分が悪人であると自覚している人間にとっては、神が他の誰とも同じように恵みを与えてくださる、つまり自分は赦されているということは、とてもありがたいことです。そうであればこそ、新しい再出発も可能になろうというものです。
  自分がこれまで何をやってきたかということとは関係なしに、自分のためにも太陽が昇り、雨が降ってくれる。これほどありがたいことがないではないか、と自分の罪を自覚している者は考えることができます。
  また、自分と同じように悪を犯している人間に対して、「あの人間にも同じような恵みが神さまからあるのだ」と考えるとき、人は人を赦すことができるのではないかと思います。
  自分が赦されて生きているから、人のことも赦して生きてゆける。
  そういう世界をイエスは言い表そうとしたのかもしれません。
  もしそうならば、イエスが言わんとしたことも、わたしたちにとっては大切なものの考え方なのかも知れないと思うわけです。
  わたしたちは、常々自分たちの職場においても、物ごとの善悪をはっきりし、ダメなものはダメだ、と教えなければならない立場にあります。また、ルールが破られた場合や、人が傷つけられる事件が起こったときには、その責任を負うべき者を裁かなくてはならない立場に立つときもあります。
  しかし、人間のルールとしてはその人を裁きながら、それでも、神の目から見ればその人も愛されたひとりの大切な存在なのだ、という側面も忘れてはならないのだと思います。
  裁くべきは裁くということ。と同時に、何をしたに関わらず、すべての人間は神に赦されて愛されているということ。この二つの原理。よくない言葉かも知れませんが、いわばキリスト教には「ダブル・スタンダード」が、よい意味で存在しているのだということを、はっきりと意識したほうがよいのだと思います。
  それは、あいまいな態度に陥らせるダブル・スタンダードではなく、人のルールとしては責任を追及し、しかし同時に神の目線から見れば、その人がそこに生きているということは最大限に尊重され愛されるべきなのだ、という二面性をはっきりと意識して人に接してゆくのが、ぼくたちの仕事にとって大切なことなのではないかと思います。
  お祈りいたしましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  日々、教育の現場で苦悩し努力している同労の友とともに、こうして祈りのひと時を持てます恵みを感謝します。久しぶりに会う仲間と出会えることは、本当にわたしたちを励ましてくれます。
  神さま、どうかわたしたちをいつも新たな気持ちでわたしたちの職場に向かわせてください。わたしたちが日々出会う子どもたちに、皆あなたに愛された貴い命として、丁重に接することができますように。
  この感謝と願いの祈りを、主イエス・キリストの御名によってお聴き下さい。
  アーメン。

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